悠太が「いーたなってだれ?」と真似をして得意げに笑い、志保はまだ日向の話をしていなかったことに気づいた。誰にどんな話をしたのか覚えていないし、気にもしていない志保にとっては、よくあることだった。
「あれ?話してなかったっけ?」
影山日向はカルチャースクールの絵画教室で友達になった22才の男子だ。志保はカルチャースクールなどというおよそ似合わないところに、断続的だがもう4年も通っていた。その志保が「自分以上にカルチャースクールが似合わない人間」と思うのが、日向だった。
金髪坊主頭で、そのくせ妙に腰が低くて人当たりがいい。影山日向という名前からしてカゲなんだかヒナタなんだか、さっぱりつかみどころがない男なのだ。
「ぜんぜん彼氏なわけないって。だってその子、ゆとりだもん。まあ、あたしの世代も微妙にゆとりだけど」
ゆとりねえ、といずみは苦笑し、ため息のような一呼吸を置いた。
「ランチも食べたし、ドッグランを見に行かない?その前に、この子たちのおむつ、替えていいかな。悠太、このあいだ大風邪で寝込んで以来、なぜかおしっこが言えなくなっちゃったのよ。やっと言えるようになったのに。うんちは教えてくれるんだけど......」
最後はひとり言のようなつぶやきに変わっていたことに気づき、いずみははっとした。これじゃまるで自分がうまく子育てできていないことを白状しているみたいだ。和喜が「悠太おまえ、なんで逆戻りしてるの」と笑った時、暗に自分を責めているように聞こえて、やりきれなかった。いずみは怒ることも反論することもなく、黙りこくったまま、まだ開封していないおむつのビニールパッケージをちぎって開けた。力任せに。
昔はお互いにもっと素直な会話ができたのに、今は文句を言いあうことも途中であきらめてしまい、けんかにすらならない。なにかが少しずつズレてしまっている。
「いつからズレたのかな......」
「ん?どうしたの?」
志保がきょとんとした顔で見つめたので、いずみはあわてて話題をそらす。
「なんでもない。しーちゃんの話って、次々といろんなキャラクターが登場して、なんだかパレードみたいだね。面白いよ」
「パレード?パレードにしては統率っていうの?そういうの取れてないし、テーマもないじゃん。指揮者がいなくてばらばらって感じ。いずみちゃんみたいに、ちゃんと仕事してちゃんと結婚して子供産んでっていうふうに、正しく前に進んでないもん」
いずみは弱々しい微笑みを浮かべて志保を見た。忘れていた梅雨前の蒸し暑さが、体のまわりに戻ってくる。私は正しくまっすぐ進んでなんかいない。迷ってばかりだ。
いずみの作り笑いに気づいたのか、志保がいそいそとサンドウィッチの包み紙やお菓子の袋を片づけ始めた。意外と勘の利く志保は、もしかしたら私を元気づけようと気を遣っているのかもしれない。
「早くドッグランを見に行こうよ」
レジャーシートを畳んでしまうと、おうちごっこみたいだった芝の上のスペースはすっかり消えうせてしまった。楽しいパレードが終わってしまった時のようで、いずみはしばらく芝生の上で立ちすくんだ。
「なんかさ、今日はいずみちゃん、元気ない。なんで?あ、わかった。オイちゃんが来なかったからでしょ?」
確かに、和喜が約束を破ってここに来なかったことは、今日の重たい気持の原因ではある。でもただのきっかけに過ぎない。本当の原因は、もっと別のところにあるのだ。和喜の発する言葉ひとつひとつを素直にきけない理由が、いずみにはある。確信が持てないために責めることもできず、自分の疑いが間違いであればいいと思っている。
「急に仕事が入っちゃったんだからしょうがないよ」
志保がどこまでも無邪気に言うので、いずみは少しいらだった。こんなのはただの八つ当たりだとわかっていても、いらだちを抑えることができなかったのだ。
「どうだろう。今ごろどっかで可愛い女の子と遊んでるのかもしれないよ」
自分の声が思いのほか低く透明に響いたことに、いずみは驚いた。ベビーカーを押しながら前を歩いていた志保が立ち止まり、寂しそうな笑い顔で振り向く。
「......まさかあ。オイちゃんはそういうことしないタイプだよ。うん。絶対」
しーちゃんがそうであればいいと思ってるだけでしょう、絶対なんてこの世にはあり得ないのよ。その言葉をいずみは口には出さず、胸の中に引き留めた。
由香はベビーカーの中でお気に入りのサッシーのおもちゃを握ってちんまりと座り、いずみと手をつないでいる悠太は走りたくて前のめりに歩いている。あんたたちのママはちょっと疲れているみたいよ。そのつぶやきも心の中の戸棚にしまって鍵をかけた。
広い芝生の上ではたくさんの人間が休日を過ごしていた。その真ん中を突き抜けていくと、ドッグランのあるエリアにたどりつく。ところがドッグランが見えてくると、悠太は体を固めて「やだよ」と怖がり、動かなくなってしまった。志保が悠太を連れてフェンスに近づくと、悠太は逃げ戻っていずみにすがりつき泣きだした。
「やっぱりダメか。悠太も由香も動物が苦手みたいなのよ。このあいだくすぐりエルモのおもちゃをもらったんだけど、あれも怖がってたのよね」
気づけばもう午後3時を過ぎていた。曇っていた空はますます暗くなる。そろそろ帰った方がよさそうだ。
こうして志保たちの梅雨入り前のピクニックは、尻つぼみに終わってしまった。
芝生を逆戻りし原宿門へ歩きながら、志保はバドミントンで遊ぶカップルや並んでルミカを振り回す女の子達を眺めた。誰もが悩みもなく楽しそうに笑っている。この人たちのパレードはまっすぐに進んでいるのだろうか。ちゃんと指揮者がいるのだろうか。
そして横を歩くいずみにそっと視線を移し、思った。
いずみちゃんのパレードがばらばらになるのは、寂しいことだ。
かといって、あたしはなにをしたらいいのかわからない。なにができるのかわからない。いずみちゃんを元どおりの明るいオレンジ色に戻すには、どうしたらいいんだろう。