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「いずみママ、やるな。メイ先輩も負けてられないよ?」

「なにがよ」

「そんじゃオレ、そろそろ店の準備あるんで......」

「もうちょっといいじゃん。もうすぐうちのだんなも来るから」

 いずみの携帯電話がまた鳴った。

電話から電話へ、目には見えない電波に乗って少し割れた音で和喜の声が聞こる。またしても手を伸ばした悠太と由香をよけるようにして、いずみは会話を死守した。

「パパ、すぐ近くに来てるってよ」

 どこー、と言いながら悠太はぱさっと、由香はよろよろと立ち上がった。

「立ったってまだ見えないよ」缶ビールに口をつけるいずみに、なんで、と悠太が食ってかかる。「なんでって、まだ駅に着いたばっかだからだよ。遊んでるうちにね、すぐ来るよ」

「遊んでると来るなら遊ぶよ。なにで?」悠太はさっそく靴をひっかけ始めた。

「遊ぶネタくらい、自分で考えて」

「じゃあボール」悠太は由香が抱えていた、"サッカーボール"と呼んでいる赤いゴムボールを奪った。「ゆったんはずっとボールで遊んだでしょ。ヒナタ、ちょっとこっち、来てね」

ボールを取られた由香は抗議の叫びをあげて泣きだす。いずみとっては、いつもよく目にしている些細なやりとりだ。放っておけば解決する程度の。真っ先に過敏な反応するのは芽衣子だった。

「悠太も由香も、ふたりで一緒にボールで遊べばいいでしょう、一緒に。由香、泣かないの。悠太はごめんしてね」

 

 うまくなだめられた子供達を芝生の上へ連れ出すのは、志保と日向だ。日向はボールを持って前かがみになり、悠太と由香にボールを触れさせながら「うりゃ!」という掛け声とともに真上へボールを投げ上げる。まるで子供達の力がボールを空高く飛ばせたかのように。子供達はうまくだまされる。

それは、誰ひとりとして傷つかない嘘。

由香がきゃーっと叫んで笑い転げながら志保の足元に跳びつき、悠太は落ちてきたボールを拾いあげると「もっと、もーっと!」と両手を空に伸ばして日向に高さをせがむ。

 

 赤いボールは、何度でも飛んでいった。まだ夏を思わせる広い空へ。

 上を見ればキリがない。高い空を見上げて、太陽のまぶしさに目を細めてしまう。

 赤いボールは重力に屈し、地面へ落ちて跳ねた。

 下を見ればキリがない。深い谷底をのぞきこんで、自分の居場所の方がまだ太陽に近いと安心してしまう。

 

顔を上げた悠太は、何かを見つけたらしく、せっかく取りあげたボールを放りだした。

「パパ!」

走り始めた悠太を追って、由香もやじろべえのような恰好でとことこと走り出し、躓きそうになったところを志保が後から支えた。

放りだされたボールを、日向が代わりに拾う。

和喜を見つけて思わず手を振ったいずみを見て、芽衣子が肩越しに茶化したような顔をした。

再生速度を間違えた映画のように、時間がゆっくりと進む。すべてがスローモーションのように見えたその瞬間、いずみは思った。

 

なにごとも起きない1日ほど、祝福されたものはない。昨日の続きが今日になり、今日が明日に続いていく日々の、当たり前すぎて通り過ごしてしまうような幸せ。

それは、上にも下にもない。

上も下もだめなら、前へ進めばいいんだ。走り出せばいいんだ。

小さな小さな、あの子達のように。

 

 

■□■□■□■□■□■□■

あとがき

 

 もしこんな瑣末な物語を続けて読んでくださった人がいるとしたら、本当にありがとうござました。心から感謝します。

 あとがきを書くほどの者ではないのですが、こんなチャンスは二度とないかもしれないから、書いています。

 

途中でたびたびブランクがあったのは、うまく書けずに書き直しばかりしていた時期と、ちょうどいい写真がなかった頃と、どうせこんなの誰も読んでねえからさぼってしまえとやさぐれた時です。

それでもしつこく書き続けたのは、この物語の中で生まれた人々の行く先を最後まで決着させずに中途半端なまま死なせてしまうのが、悔しかったからです。

 折に触れ私を奮い立たせてくれた彼らですが、私はどの人にも嫌いな部分があり、好きな部分があります。でも、それを書きたかったし、そういうものだとも思います。

 

「上でも下でもなく、前を向いて歩け」なんてきれいごとですけれど、きれいごとばかりでは生きていけない現実の中で、きれいごとの通用するのが作り話です。私は厳しい現実にも、きれいごとのフィクションにも惹かれます。いずれ誰もが無に帰す人生の中で、その両極を味わえるのなら、貪欲に味わいたいと思っています。

 

 私には思いつかないような言動を惜しまず観察させてくれた友人・知人、子供エピソードのヒントを与えてくれたSファミリー、いくつかの写真を提供してくれた今は亡き弟、連載の機会を与えてくれた『会社生活の友』の井上晋介さん、どうもありがとうございました。

 

 そして最後になりますが、厳しい冬を乗り越え、この地にうららかな春が来ることを、切に願います。願うだけでなく、おそらくこの地に住む多くの人々が感じていることでしょうが、私も自分のできることを微力でもし続けていこうと思います。

 

 

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いずみの携帯電話が鳴る。

「パパかな?」その言葉に悠太と由香が反応し、いずみの握った携帯を取ろうとする。「違った。ばばちゃんだ」それでもふたりは携帯に手を伸ばした。

 子供達を無造作に追い払って、いずみは、うんうんと相槌をうつ。「ゆーたんもー」とぐにぐに暴れる由香を、芽衣子は羽交い絞めにし、日向はなぜか悠太とじゃんけんをしていて、志保はレジャーシートの引っ越しで距離が近くなった隣の大学生グループと、大声で話していた。

「パーでグーだったの。悠太が勝ったでしょ。勝ったら電話!」
 悠太はいずみの携帯電話を奪い取り、いずみは、どんな取り決めしてんのよ、と日向をにらみつつ、悠太に携帯を持たせた。

「今ね、すっごい、すっごいお外なんだよ。たべっこ動物さっきから食べて、もうなくなっちゃうよ。なくなったよ。ばいばい」

 ピッとボタンを押したのを見て、大人達が吹き出した。

 

「そこで切るか」志保が日向をばしばし叩きながら笑った。そして、いかにも笑ったついでのように、隣にいた大学生グループに声をかける。「ちゅーか、こいつ飲み屋やってて、けっこういい店だから行ってみてよ。音源持ってけばかけてくれるし、DJイベントならタダ同然でやってくれるよ」

 志保は日向をこづいた。日向はのほほんとした顔でバックパックから名刺を取り出して配る。まるで予行演習を繰り返してきたかのような、自然な流れで。

 大学生グループは「ていうか普通に飲みに行っていいすか」とありがたそうに名刺を手に取った。

「どうだ、あたしの営業力!」

「無理無理だよね」といずみが呆れて言うと、由香が「むいむいだおね」と真似したので、大人達はまた笑った。

 

「で、いずみのママはどうなったの?」

芽衣子は、自分が普通の恋愛とは少し外れた軌道を、思いがけず回ることになったせいで、同じように外れてしまったいずみの母の動向が気になっていた。

「来月の母の誕生日に、入籍するんだって」

 芽衣子はほっとし、志保と日向は「まじすか!」と驚き、悠太と由香はオレンジジュースのペットボトルで遊ぶ。

「好きにすればいいよ。どうせ娘の私があれこれ言ったって、結局は好きにするんだろうし」

 

 今度は本当にちゃんとやっていけそう、と携帯電話がかかってきたのは、つつじが咲き始める頃だった。夏に実家に帰った時、"ハシモトさん"という人は、いずみ以上にあの家にしっくりなじんでいた。そこが気に入らなった。

 怖かったおばあちゃんさえもを、菓子の袋を開けさせるくらい味方につけて。私にはしらじらしく、なっから美人でぶったまげたとお世辞を吐いて。気に入らない。そんな男とうまくやれるとでも思っているんだろうか。

 

「だからいいんだいね。お互いにべつだん恰好つける年でもないし、お互いにあんまり期待してないし。気が合って落ち着けば心地いいわけで」

 母の答えはシンプルで、言葉どおりに落ち着いていた。いずみが子供だった頃に引き合わされた男達への解説とは、まったく違っていた。

 あの頃はしきりに、とても親切な人だから絶対にいずみも気に入るだとか、今よりずっと楽しく暮らしていけるだとか、耳触りのいいことばかり口にしていたのに。もしかしたらあれは、母自身が安心するために、自分自身へ言い聞かせていた言葉だったのかもしれない。

 

ハシモトさんは家業の酒屋を引退して、同居している息子夫婦には肩身の狭い思いをしているらしい。母と祖母の家に住むことにまったくためらいがないと言う。財産分与が心配なら、母の籍に入ってもいいと宣言したそうだ。

「それはそれで、ハシモトさんの息子達には不評だったよ」

 母は、悪びれもせずのんびりと言った。あまりに間延びした口調だったせいで、いずみは文句を言うタイミングを失い、少し横を向いた。

 食器棚の上に、黒い扉の電子レンジがあった。

 ぴかぴか光る扉に映った自分の顔を見ると、あんがい穏やかな表情をしていた。

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 あの日、食堂から病室へ戻ったのは芽衣子ひとりだった。外の暑さにもかかわらず汗ひとつかいていない佳苗は、当然のようにタクシーを拾い、涼しい顔で乗り込んだ。

 芽衣子はタクシーを見送らずにきびすを返す。雅人と話をしなくては。エレベーターの階数表示の動きすらもどかしかった。

 雅人はベッドに腰掛け、まるで公園のベンチで考え事でもしているかのように背を丸めていた。まだ広げてあったパイプに無言で座った芽衣子を見て、さっきと同じことを言う。

 

「どう反応すればいいのかな」

「自分で考えれば。少しくらい肺を切り取ったからって、脳みそが動かなくなるわけじゃないでしょ」

 雅人は静かに笑った。「ごめん」

「謝まれば済むとでも思ってるの?」

「済まないことは知ってる」

「済ませない人がひとりでもいる限りは、済まないのよ」

「うん」雅人はうなずき、膝の腕で指を組んだ。

「私は済ませないつもりだけど、私だけじゃどうにもならない。雅人君が済ませたいって言うなら、そう考えてるってことを私も考えなくちゃいけない」

 自分の思いを正確に伝えようとすればするほど言葉は絡まり、もどかしさに瞳が熱くなるのを、なんとかこらえた。

「手術が終わったばっかりの病人にこんな話したくないし、だから今すぐ答えろっていうわけじゃない。それにどんな答えが返ってきても、私はもう驚きもしない......」

 ふいに痩せた雅人の腕が伸び、芽衣子のせっかく整えてきた髪をくしゃくしゃにした。

「身勝手なことを承知で言えば、もう一度また帰りたい。芽衣子の家に」

 そして、かつて芽衣子の部屋にあった雅人の荷物は、再び同じ場所へ戻ってきた。

 

職場に復帰した頃、また家電に着信があった。佳苗だ。雅人は相変わらずグレーのスウェットを着て、サッカーの録画を観ていた。元妻の希望に関して既に知らされていた雅人は、画面から目をそらして芽衣子を見た。

「替わりましょうか」

――いいの。あの人と話しても埒が明かないから。芽衣子さんの方が話が早いもの。誓約書にサインをしてほしいのよ。

「誓約書?」

――このあいだお話したこと、私達ふたりの間できちんと形にしておきたいの。娘の入学までの計画よ。

 立ち上がりかけた雅人を、芽衣子は手で合図をして抑えた。それにしてもいつの間に"計画"になったのだろう。しかも佳苗の声はずいぶんと高揚して聞こえた。まるで共犯者を見つけたかのように。芽衣子としてみれば、雅人が法的に誰を妻としていようと、そんな些細なことはもうどうでもよかったのだが。

「それがご希望ならいくらでも。ただ私達ふたりの間じゃなくて、4人の問題じゃないんですか。それにお嬢さんの」

 娘はともなくあの人達のことはどうにでもなるわよ、と佳苗は言い捨て、さっそくふたりが会う日を決め始めた。

 

会ってみると、誓約書はただの口実だということがわかった。佳苗は延々と世間話を続けた。雅人の悪口に始まり、今付き合っている"江田さん"という人が誕生日になにをプレゼントしてくれたかという話、実家で一緒に暮らしている両親に口うるさく叱られる話、娘がヴァイオリンの発表会でひとつも間違えずに最後まで弾いた話。それからお気に入りのショコラティエが作った最新デザートの話、続けているヨガ教室の話。芽衣子は、同意できない部分は「私はそうは思いませんけど」と答え、知らない単語には「それなんですか?」と質問した。それは、内容は違えど女子高生同士がする会話と似ていた。最初は身構えていた芽衣子も、途中から遠慮を捨てた。

 

誓約書について触れると興味のない顔をする。

「忘れてた。まあいいわ、またこんどにしましょう」

「だってそういうの、ちゃっちゃとやっちゃった方がいいでしょ」

「今日じゃなくてもいいじゃない」

「せっかく来たのに。私、仕事とかあるし、次のタイミングがいつになるかわからないし」

「やあね。どうせ私は実家暮らしの専業主婦で暇ですよ。むかつく」

むかつくって......。芽衣子は苦笑した。本当に高校生みたいだ。興が乗ってきたのか、挙句にはこんなことを口にした。

「あなた、あの調布のマンションに引っ越したらいいんじゃない? どうせ私達、もうあそこへは行かないし。だっていずれは望月と結婚するんでしょう? それなら問題ないじゃない」

 

 結局、誓約書は書かれないままに終わった。数日後には雅人にもマンションのことを伝えたらしく、雅人は首をかしげてつぶやいた。

「芽衣子とはいい友達になったって、妙に懐いている雰囲気なんだけど」雅人は小ぶりの段ボール箱の中に入ったサプリメントのパックを取りだす。佳苗から送られた荷物だ。「"免疫力を上げるサプリメント"ってさ......いかにも眉つばだな」

「心配してくれてるのに、眉つばはないでしょ。効果、あるかもしれないよ」

 とっさに佳苗の味方をした自分に苦笑してしまった。この奇妙な関係を、普通ではないと知りながらも芽衣子は受け入れ始めていた。芽衣子が唯一、これまでのいきさつをすべて話していた人間は、志保でもいずみでもなく、職場の店長だった。

「別にありなんじゃない? フランスあたりじゃそういう人達、たくさんいるわよ」そしておどけたように笑った。「なんてね。フランスなんて行ったこともないけど」

志保やいずみほど近しくなく、でも込み入った事情を心置きなく話せる店長は、距離的にちょうどよかった。

 

その後も佳苗と芽衣子は頻繁に連絡を取り、今でも続いていた。引っ越しは先延ばしにしている。そんな都合のいい提案をふたつ返事で受け入れるほど、芽衣子は打算に徹するタイプではない。佳苗は「こんど5人でディズニーランドにでも行きましょうよ」と言いながら、決して娘と恋人に合わせようとはしなかった。そのあたりは一線を引いているようだ。

「未央には、ふたりのパパに愛されて贅沢ねと教え込んでるのよ」

「というか、5人でなんて行くつもりないでしょ」

「どうしてそういうところばっかりすぐにつっこむの。そうね行きましょうね、くらい言えないわけ?」

 文句を言いつつも、佳苗は以前よりもずいぶん楽しそうにハーブティーを飲んだ。その姿を見ながら、芽衣子は静かに誓う。

統計的には80%だという雅人の5年生存率を絶対に100%にしてやる。その次の5年も、その次も。絶対に。

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 1年後の夏は、1年前よりさらに暑く、永遠に続きそうなほど長かった。それでも頃合いを見て終わっていく。一年前とは違う速度と感触で。

もう少し涼しくなったらまた公園に行こうと約束しながら、ようやく実現したのは10月に入ってからだった。

 

「ここ、木蔭じゃなくなったね。移動するよ、移動! 悠太、立って。みんなでお引っ越しするよ!

 いずみのかけ声で一同は立ち上がり、だらだらとビニールシートを持ちあげ、木蔭に沿うように動かした。悠太は不規則なスキップをしてはしゃいだけれど、舞い降りてきたカラスを見ると「カラスは怖いんだよ。どっか行って」といずみにしがみついた。もうすぐ4才になる悠太は、快不快をためらいなく口にする。

志保は、あっち、あっちと進むたびに行き先を変える由香と手をつないでとことこ走り、引っ越し作業を完全に無視していた。というわけで、実際にシートを動かしたのは、芽衣子といずみと、それから日向だった。

「あの人、うまい具合にさぼるんだよな」

 日向は心底呆れた言いようだ。ふだん昼過ぎまで寝ている彼はわざわざ早起きをして、店を開けるまでの時間をこのピクニックに付き合った。なめらかなブリーチーズと薄っぺらいクラッカーと、業者から安く仕入れたという美味しいボルドーワインを手土産にして。子供用のアップルジュースまで持って来ていた。相変わらず気が利いていて、自分のペースを崩さない。

 同じくマイペースの志保とは始終けんかしっぱなしらしい。まるできょうだいみたいだと、いずみと芽衣子は思っていた。

 

 志保はパートタイムのアーティストになった。

 1階が工場になっている会社にはまだ勤めている。一方で、"お絵描き教室"と自虐的に呼んでいたカルチャースクールの、オネエ講師の指導のもとで商業デビューを果たした。グループ展に出展した作品がある編集者の目に留まり、講師の推薦もあって、弱小出版社から出されたミステリー小説の装丁画を手がけることになったのだ。美術系学校すら出ていない無名の画家であることが、逆に新鮮味を与えたらしい。悪趣味ながらもピュアな画風が、ある種の小説の表紙にはぴったりだった。小説を書いたのも無名の新人。表紙絵とはまるで関係なく、内容そのもので小説は話題になったのだが、オネエ講師は自分の門下生から商業画家を輩出したことを、手放しで喜んだ。

「あんたみたいなのはさ、世の中生きにくいわけよ。でもアーティストっていう言い訳ができれば、この世界にも生きる隙間があるの」

 それは、他に馴染めず何かを作りだすことだけが存在意義だった人の、切実な言葉だった。きっと、オネエ講師はそういう人生を歩んできたのだ。そして、できうる限りの努力をして、今の地位を得たのだろう。志保は、いつもバカみたいなことを言っているくせにちゃんと見守ってくれていたオネエ老人講師の言葉に、思わず涙を流してしまった。

「あたしはそこまで自分を追い込んでねーって。先生の言うこと、いちいち真面目にきいて描いてただけで」

「追い込んでなくてもいいものが作れるなら、それは素晴らしいことじゃない? あたしも欲しいわよ、そういうの」

志保にとって、それは二つとない花向けの言葉。オネエ講師は、実に指導者らしい指導者だったのだ。

 

芽衣子もいずみも、今ほどしっくり落ち着いた雰囲気の志保を見たことがなかった。かつての志保は、人の持っているものはぜんぶ素敵だと思い込み、他人をうらやましがって真似してばかりいた。今も相変わらずうらやましがってはいるけれど、真似することには興味がなくなったようだ。さらに手の届かない場所へ手を伸ばそうとしている。自分でなければできないこと。志保の関心はそこへシフトし、それと戦うことが面白くて仕方がない様子だ。

「しーちゃん、ちゃんと手伝ってよ。売れっ子になったからって調子に乗せないからね」

「売れっ子ってほどじゃないでしょ。ひとつふたつ表紙を描いたくらいじゃ」

 芽衣子が軽く流すと、由香と一緒に走り回っていた志保が振り向いた。

「聞こえてるんですけど。ていうか調子乗ってねーし」

レジャーシートは心地よく日陰におさまり、引っ越し作業は完璧だ。日向は満足げに腰をおろした。

「調子乗るほど余裕ないみたいすよ、あの人。たまにうちの店で、めっちゃくちゃ愚痴言いまくっていきますからね。マジ勘弁って感じ」

 で、そのあとは日向君の家に泊まっていくの?と芽衣子は意地悪な質問を思いついたが、もちろん口にはしない。この世の中にはいろいろな関係があるのだ。だいたい、他人のことをとやかく言える立場でもない。

 

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 雅人の淡々とした解説が終わると、佳苗はパイプ椅子からすっと立ち上がった。

「事情はよくわかりました。では芽衣子さん、そろそろ行きましょうか」

 雅人との出来事をあれこれ思い出していた芽衣子は、名前を呼ばれて我に返った。見下ろす佳苗は有無を言わさぬ迫力があり、芽衣子も立ち上がった。なんだか芝居じみていておかしい。自分に起きている出来事なのに、別の自分が観察しているような気さえしてくる。

 佳苗はカツカツと廊下にヒールの音を響かせて先導していき、必死に追って行った芽衣子は、食堂にたどりついた。テーブルと椅子だけが並んでいる、シンプルな病院の食堂。

 

 入り口で職員がぶっきらぼうに「食券を買ってください」と言い、佳苗は芽衣子の希望も聞かずにコーヒーのボタンを2回押した。食券が2枚落ちてくる。

佳苗は大股で歩いて気に入った窓際のテーブルに座り、キャメルのケリーバッグを横の椅子にどさっと置いた。芽衣子も遅れて向かいに座る。佳苗はあわただしくバッグから何かを取りだした。

華奢な箱からは小枝のように細い煙草。そして細長いライター。

 

「死ねばよかったのに、って思ったの」

 佳苗は細く煙を吐き出して言った。

「タクシーの中でそう思ってたの。だって、あの人が死ねば死別になる。あの学園では、死別と離婚は違う扱いなの。いっそ死別なら、初等部の入学までこのままでいなくてもいいもの。小学部の審査までは両親が揃っている必要があるのよ」青白い煙が消えていく。「構わないわよ。薄情だと思っても」

「そんなふうには思いません」

 芽衣子はためらわずにそう答えた。この人はこの人で苦悩している。この人のようになりたくはないけれど、この人のようになってしまう心は理解できる。この人が持つような価値観は、決して共感はできないけれど、存在することそのものは理解できた。

「そうまでしても大切なんですか。その学園にいることが」

「大切......? そうではなくて当然いるべき場所にいさせてあげないのは、間違っているでしょう」

 芽衣子は同意を装って穏やかに微笑んだが、ちっとも同意できなかった。かといって佳苗の価値観を否定する気もなかった。

 ただ引っかかるのは、佳苗にとっての雅人が、ただ片方だけからのパーツになっていることだった。生きて喜怒哀楽もある人間を、自分にだけ都合のよい存在にするなんて。それを思うと腹が立つ。

 

そしてふいに、別の直感がよぎった。

もしかして。

「それ、ただ戸籍上の問題だけですよね。もしかして佳苗さん、好きな方がいるんじゃないですか?」

 佳苗の指に挟まっている煙草から、細長い灰がテーブルに落ちた。やっぱり。うなずきはしないが、的を射たことを、芽衣子は表情を見てわかった。

「......突然なにを言いだすの」

「きっとその方は、お嬢さんに関することを理解していますよね。たとえば小学部に入学するには苗字が変わってはいけないこととか」

「ええ」

 誘導尋問、成功。

「でしたら、入学した後に離婚して再婚すればいいのでは?」

 もっと驚いた顔をするんじゃないかと芽衣子は予想した。しかし佳苗はすましてうなずいた。

「もちろんベストではあるわ。そう簡単にはいかないと思うけれど」

そうか。雅人はこの人にとって、もはや本当に関係ない人なんだ。芽衣子がつぶやいたが、佳苗には聞こえなかったようだ。佳苗にとって、もはや雅人は人生のパーツのひとつでもない。ならば話は簡単だ。私のパーツにしたい、私もパーツになりたい。今と、そして考えられうる未来において、そうしたい。

 

「簡単ですよ」芽衣子は座りながら背筋を伸ばした。「私は雅人さんが好きで一緒にいたい。佳苗さんは他の人が好きで一緒にいたいし、その人は小学部入学の審査までは現状を維持する覚悟はある。たったの3年少しですよね?」

 2001年宇宙の旅。フィクションではずっと先の未来だったのに現実の2001年は到来し、それでもなお新鮮に読み継がれている。たった3年少しなんて、瞬く間にやってくるのだ。きっと新鮮なままで。

 佳苗はまだ長いままの煙草の先を、灰皿の上でまわすようにして、器用に火を消した。

「顔に似合わず、すごいこと言いだすのね」

「ものごとをシンプルにしてみただけです。欲しいものを手に入れるために」

「あなた、なにを考えているのかさっぱりわからないわね。あの人と似てる」

「そうですか。ちっとも似ていませんよ」

 嘘が口からこぼれて、芽衣子はにっと笑った。いつもの営業スマイルではなく、木の上からアリスを見下ろしたチェシャ猫のように。

 

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恭子の情報はおおいに役立った。夫と連れだって数日前に見舞いに行ったのだそうだ。芽衣子は手帳に病院名を書きつけて、電話を切った。

佳苗は首をかしげてカップに両手を添え、でも眉をひそめていた。今までの芽衣子のやりとり内容から、ある程度の事情は読みとったらしい。

「......あの人、どうかしたんですか?」

「初期の肺ガンで手術をして、明日には退院するそうです」

 佳苗はカップに手を添えたまま、一瞬だけ悲しい目をしてつぶやいた。

「そんなこと知らなかった」

 

 知らなかった。きっとそれに続くのは「なのにどうしてあなたが知っているの?」に違いない。そしてもしかしたら「だからいまさら離婚届なんか送ってよこしたのね」かもしれない。その次に続くだろう言葉は......芽衣子にはわからなかった。それでも、わかりたいと思った。あまりにも、佳苗の目が悲しそうだったから。挑戦的な気持ちはとっくの昔に消え、むしろ彼女に同情していた。いや、共感していた。

便宜上でも妻という立場だったにもかかわらず、何も知らされずに薄っぺらい紙だけ郵送されたとしたら。しかも意を決して愛人だった女と会った場でその事実を知らされたら。とてもではないけれどやりきれない。

 

佳苗は苛立たしげに芽衣子をまっすぐ見つめた。右頬に涙が伝った。

「わからない。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないのかしら」

 強がりなのか、それとも自分への仕打ちに腹を立てているのかわからない。

「タクシーに乗れば病院はここから15分くらいです。一緒に行きません?」

「私がこんなみじめな気持になるのも、ぜんぶあの人のせい。振り回すのもいい加減にしてほしいわ」

 佳苗は強がってもいず、仕打ちに腹を立ててもいなかった。心の底から、自分の人生がうまくいかないことを嘆いているのだ。この人の視界には、もう自分と娘のことしか入っていない。雅人の存在は、佳苗の人生をうまく運ばせるためのパーツに過ぎないのだ。芽衣子はむなしさを感じた。佳苗のようになってしまうきっかけは、人生においていくらでも転がっているのかもしれない。でも自分は佳苗のようにはなりたくない。

「今から行って、いい加減にして、と言ってやればいいじゃないですか」

「あなただって、私と同じように思ってるでしょう?」

 思っていません。感情をあらわにする佳苗を見て、芽衣子は胸の中で静かに言った。そしてようやく気付いた。自分と雅人が、恐ろしく似ていたことを。

 

私と雅人はとてもよく似ていた。今までちっとも気付かなかったけれど、都合が悪くなるとすぐにシャッターを下ろしてしまうところや、相手に踏み入っていかないところが、とても似ていた。お互いに殻の中にたゆたっている自分を守りながら、殻と殻をくっつけ合わせていた。それはそれでとても心地が良かった。お互いに"殻を持つ者"としてそれなりのシンパシーを共有できるから。間合いだってよくわかる。

ただ少し、雅人の殻の方が厚かった。それは性別の違いのせいかもしれないし、雅人のほうが頭がよかったからかもしれない。芽衣子は、雅人の殻の頑丈さにすっかり疲れてしまった。それでもいつか殻を破ったり破られたりすることを期待していた。

それが裏切られたからこそ、雅人の去り際に、みっともなく泣き叫んだのだ。自分の人生だけのパーツではなかった。私も雅人の人生のパーツにしてほしかった。

 

タクシーの後部座席でもたれながら、芽衣子は横を見た。佳苗は指を握りしめて、流れていく窓の外を見つめている。

この人は殻を破ることを、とっくの昔に放棄していたのだろう。もしかしたら放棄する前に、殻の存在を否定していたのかもしれない。

 

病室は4人部屋で、カーテンの閉められた窓際のベッドで、雅人は半身おこして、見覚えのある表紙の色あせた文庫本を読んでいた。『2001年宇宙の旅』。2001年は過ぎたのにやっぱり新鮮だよな、というのが読み終えた後のいつもの口癖だった。

「どう反応すればいいのかな......」

芽衣子と妻が連れだって来たのを見てさすがに動揺しているらしく、パイプ椅子を探そうと立ち上がる。前開きの和風な寝巻からのぞいた胸元は、もともと痩せていたのにさらに痩せ、それでも元気そうだ。というより、入院する前と変わらずに飄々としている。黒縁のメガネの奥から、突然訪れたふたりの女を交互に視線を移し、言葉を失っているようだった。

「説明してもらえます?」

 詰問口調で切り出したのは佳苗だった。雅人は、すぐには質問の意味がわからなかったようで、数秒間きょとんとしてから自分がなぜここにいるのかを、饒舌かつ不親切に話した。状況が把握できる最低限のことは網羅しながら、感情的にはならない説明の仕方は、おなじみの雅人のやり方だった。なにかを説明する時はこういう口調になる。

 芽衣子は、その淡々とした声を聞きながら、そうではない時もあることを思い出していた。

 たとえば、芽衣子が怒って雅人が謝る時。テレビでサッカー観戦をしていて、雅人がひいきのマンチェスター・シティFCが勝った時。ふたりともが定期的に中毒症状をおこすキャドバリーの甘いチョコレートを、満を持して口に含んだ時。

 そういう時の雅人は決して不親切ではなく、ただひたすら饒舌だった。

 

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「......していませんけど」

「いまさら嘘をつかなくてもいいんですよ。私の方には少しも問題がないですし」

 佳苗が目を伏せて笑ったので、芽衣子は戦闘モードを取り戻した。ただし限りなく静かに。

「それは望月さんの子供を、ということですよね? ありませんよ。それに嘘もなにも、もう望月さんとはお会いしていませんから」

 

「別れたの?」佳苗の口調がぞんざいになった。そして同志を得たかのようにほっとした顔をし、堰を切ったかのように話しだした。「あの人、やっぱりちょっとうまく関われないタイプというか......なんていうか、一緒にいると疲れる人間だと思いません? だいたい、何を考えているかわからない。娘がいるのはご存じですよね。子供の親としてふさわしいとも......」

 

 そこでウェイトレスがハーブティーとコーヒーを運んでくる。芽衣子は得も言われぬ違和感を潜ませながら、カップがテーブルに置かれ、ウェイトレスが去るまでの動きをじっと見つめた。この違和感はなんだろう。私がここにいる違和感。そうではない。私が彼女の話を聞いている違和感。彼女の語る内容の違和感。

「......ふさわしいとも思えなかった。だから私は、あの人が誰と付き合おうと気にしてないんですよ」

 佳苗は伏せていた視線を上げ、ずいぶんさっぱりした顔で芽衣子を見た。虚勢のようにはとても思えない。この人は本当に、雅人から離れてしまっているのだ。だったらどうして。

「だったらどうして離婚しないんです?」

 それは駆け引き抜きで出てきた質問だった。芽衣子には、この夫婦のありようが理解できなかった。佳苗は屈託のない笑顔を向ける。

「子供のために決まってるでしょう。うちの子、私と同じ学園に通ってること、ご存じですよね。あそこは両親揃っていないと入園できないんですよ。もっともお子さんがいらっしゃらないと、なかなかわからない世界だとは思います」

「そうですね」と相槌をうってみたが、やはり実感できない。

「今4才でしょう? 小学校入学の審査までは気が抜けないの」

「大変でしょうね」笑顔で答えて、芽衣子はコーヒーに口をつける。次にどんな言葉が出てくるのかと警戒しながら。

「でね、しばらく前にこれが郵便で来たんです」佳苗がキャメルのケリーバッグから白い封筒を取り出し、一枚の薄っぺらい紙をテーブルに広げた。よく知っている雅人の筆跡で名前が入った離婚届。「だからお子さんができたのかな、って」

 

 ファミレスのテーブルの上に無造作に置かれた離婚届を見下ろしながら、佳苗はポットからハーブティーをカップに注いでいる。芽衣子は力づくで微笑もうとしたが、甲斐なくただ口を結んだだけだった。

「これ......いつ届いたんですか?」

「いつだったかしら。半月くらい前かな」

 芽衣子は頭の中で、時間を半月前に遡らせた。雅人が荷物を持って出て行った少し前、つまりは芽衣子が出て行かせた少し前だ。おそらく雅人はその頃、再検査をして手術が必要だと知らされた。そして離婚届を妻に送った。私には、嘘とも本当ともつかない病気の話を切り出し、都合のいい言い訳じみた言葉を並べて私を怒らせ、そのまま出て行った。

 体裁を保つための口実ではなかったのだ。

 

 芽衣子は無意識に両手で口を覆い、目の前にいる人間の目を見つめた。佳苗はファミレスらしからぬ優雅さで、安いハーブティーを飲んでいる。

この人は、何も知らされていない。

芽衣子はわずかな優越感を感じた。それと同時に、優越感など覆い隠すくらいの寂しさを感じた。大切な現実を知らされていない佳苗に対して。それなのに自分は知ってしまったことに対して。シャッターを下ろしたまま進もうとしている雅人に対して。

 

事実を確かめる必要がある。今どこに雅人がいるのか。芽衣子はほんの一瞬の間に頭の中をフル稼働させた。雅人の番号はそらで憶えているけれど、もし病院内にいるなら携帯電話はつながらないだろう。他に連絡が取れる人間は、目の前にいる佳苗だけで、この人はなにも知らない。

まだ手段はあるはず。あるはず。スタート地点を思い出せ。雅人と知り合ったのは、いとこの恭子の結婚パーティーだ。あの子の連絡先は、確か妹が知っている。

芽衣子は佳苗の存在を忘れ、携帯電話を取りだした。妹はすぐに電話に出た。「お姉ちゃんひさしぶりだね」と無邪気に答える妹から恭子の番号を聞き出し、手帳に書き殴っていく。恭子の夫になった人が、雅人の同僚だった。

 何かにとりつかれたようにあわただしく電話をかける芽衣子を、佳苗は首をかしげて眺めていた。しかし今は事態の説明をする余裕はない。なにせ恭子の職場は携帯電話を携帯できるのかどうかもわからない。セキュリティが厳しければ着信に気付くのは30分後の昼時だろう。

 数回のコールのあと、恭子が出た。「芽衣ちゃんから電話が来るなんて、何かあったの」と不審がりながら。

 

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電話がかかってきたのは、あの奇妙なドライブから間もない夜だった。家電にかけてくる人はめったにいない。だから今までも知っていて受話器を取っていた。表示されているのは望月の妻の実家なり携帯電話の番号ということを。記憶しようとしたことは一度もないけれど。

いちど会ってお話をしたいんです。唐突に彼女は言った。もう連絡も取ってないことを告げると、受話器の向こうがしんとしばらく静まった。芽衣子が注意深く次の言葉を待っていると、相手は同じ言葉を繰り返す。

「会ってお話をしたいんです。場所と時間はこちらで都合をつけますから」

 今の状況で話すことがあるとも思えないけれど、話したいならどうぞ。

「構いませんよ」

芽衣子は少なからず挑戦的な気分にもなった。どこかで聞き覚えのあるような声だということも、なぜか気持ちに火をつけた。この声は知っている。どうして知っているんだろう。

場所は調布駅近くのファミリーレストラン。万が一トラブルになったことを考え、なるべく人間が多くいそうで凡庸な場所を指定した。

 

 火曜日。その週の休みは火曜日だった。芽衣子は早番の日と同じ時間に起きてしっかりと身支度を整えた。リラックスするためにテレビをつけたが、なじみのない時間のバラエティー番組が違和感を増長したので、消した。だから時間をもてあまして掃除をした。丁寧に掃除機をかけ、カーペットの上の髪の毛やらを一本残らず粘着テープで取り、バスルームとキッチンを気が済むまで磨いた。すっきりして玄関に立ち、ふと思い出した。

 雅人の赤いコンバースが、確かここにまだある。

時間をもてあますように掃除をしたのは、本当は雅人の形跡を消したかったからだ。塵ひとつ、髪の毛ひとつ残さず、気配さえも消してしまいたかった。消してしまえば、もう誰にも負い目を感じなくて済む。今までの思い出もどこかへ消し去ることができる。

「さすがに記憶は消せないよね」

 つぶやきながら、シューズボックスの奥にあったコンバースを手に取った。私には履けないサイズ。こんなものを置き去りにしたくせに、姿を消しきったとでも思っているのだろうか。芽衣子はコンバースを玄関の隅に置き、高いヒールの靴を選んで履いた。できるだけ背が高く見えるように。そして筋を伸ばして、目的の場所へ歩いた。

 

「待ち合わせをしているのですけど」

 ファミレス以上の慇懃さで芽衣子が言うと、エプロンをつけたウェイトレスがマニュアル通りに微笑んで「どうぞ」と手のひらをかざす。店内を見渡しながら、仕事中の私もあんな顔で微笑んでいるのかな、と芽衣子は思う。しかしそんな悠長なことを思えていたのは、彼女と目が合うまでの数秒間だけだった。

窓際に座っている女と目が合った。この暑さの中でちっとも化粧崩れをしていない、切れ長で涼しい目をした女。1ヶ月ほど前にカウンターに来た、あの客だ。

私のことを知っていて、あの日わざわざ職場に出向いてきたのだ。客を装って。芽衣子は悔しさのあまり、反射的に背筋を伸ばして顔に笑みをたたえた。窮地に陥るほど顔をほころばせてしまうのは、ある意味で職業病だった。女は芽衣子を確かめると、あの日と同じく空虚な目を漂わせて立ち上がった。お互いに離れた場所から会釈をする。

「はじめまして、じゃないですよね」

 

 席に近づいて、芽衣子はとっておきの営業スマイルで言った。本当は素直に動揺してしまいたい。それなのに、ひどい状況であるほどシャッターを下ろしてしまう。中ではあれこれ忙しく動き回っているのに、その見苦しさを隠したくて平静を装ってしまう。

芽衣ちゃんはいちばんお姉ちゃんだから。芽衣ちゃんはほんとにしっかりしてるねえ。そのうえ笑うとこんなに可愛くて、まるで天使のよう。

子供の頃は、まわりの大人の期待に沿えるのが嬉しかった。いつも落ち着いて弟と妹を世話し、嫌な時にでもにこにこ笑っていれば誰にでも好かれた。思春期になると、笑っているだけでは「美人だからって気取っている」と中傷されることを知り、シャッターの厚みを強化した。怒りや悲しさややりきれなさを隠すために。きっと今このありふれたファミレスで私は、この場には不必要なくらいのスマイルを作っているんだろうな、と芽衣子はぼんやり考えた。

 

「お忙しいところ申し訳ありません」女はわずかに頭を下げる。「私、望月の妻の佳苗と申します」

 そういえばそんな名前だったかもしれない、と芽衣子は思った。ふたりは赤いベンチシートに差し向かいに座る。

「もう何か注文されました?」

「いいえ」

「じゃあ、呼びましょうか」

 芽衣子がボタンを押すと、どこかでピンポンと間抜けな音が鳴り、ウェイトレスがやってきた。佳苗はハーブティー、芽衣子はブレンドコーヒーを注文する。芽衣子はこの問題を早く片付けてしまいたかった。何を言いだされるのか想像もつかないが、それなりに質疑応答の対策は練ってきた。なにしろもう雅人とは会っていない。それだけが芽衣子の心の拠り所でもある。あの日どうして私の職場に来たのか、まず聞いてみた気もするが、相手の出方を待った。

 

「お呼び立てして申し訳ありません」言葉尻は丁寧だが、よく聞くとなんとなく投げやりな雰囲気がある。「唐突なんですけれど、妊娠してます?」

 唐突すぎて、芽衣子は目を丸くしてしまった。

 

カーテンレール 4

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 冷房のせいで体が冷え切ってしまった。

「あたし、帰るから。シャワーとタオル、借りる」

「まじすか」そう答えながらも、日向は立ち上がってボクサパンツを履く。「じゃ、こっちのタオル、使ってください」

 タオルは椅子のではなく、カーテンレールにかかっていた洗濯したてのを手渡してくれた。そして、シャンプーはあるけれどコンディショナー類はないと、バスルームについて来て説明をしたあと、「たぶんオレ寝てるんで、帰る時は起してください」と眠たげにドアを閉めた。

 

生ぬるいシャワーが肩にあたり、体を落ちていった。

あたし、何やってんだろう。初めて来る他人の家で、シャワーなんか浴びちゃって。でも、ちょっと面白いかも。たぶん、面白がるために、あたしは今ここにいるんだろう。

 日向のことは好きだけど、日向そのものが欲しいわけじゃない。ような気がする。日向の持っていそうな"面白い"雰囲気が欲しかっただけだ。自分に欠けているパワーにあやかりたかっただけ。友達と話している日向に嫉妬したのは、仲間に入れてもらいたかったから。

「まあ、普通は20才くらいでそういうこと思うのかもしれないけど」志保はタオルにくるまりながらつぶやいた。「あたしバカだから、いつも気付くの遅い」

 

 シャワーを終えて帰宅の準備を整えると、日向の体をゆすって起こした。日向は起き上がって玄関までついてきた。どこまでも気遣いに徹している。

「そんなにあたりかまわず気配りしててさ、疲れないの?」

 日向は眠そうに半分目を閉じたまま腕を組み、悔しそうに顔をゆがめた。

「志保さんにそんなこと言われるとは。ていうか怒ってますよね。今日のことはなんていうか、すみません」

「面白かったからぜんぜん。日向のことは好きだけど、そういう意味で好きじゃないし」

「うん。そっか」半笑いでうなずいた日向を目の前にして「こう言うのも卑怯だけどさ、怒ってなくてよかった」

 その日はじめて聞いた、敬語ではない回答だった。むしろ志保はすっきりした。ふたりとも、どうやら同じ場所に着地したらしい

「トイレとシャワーとタオルとコーラ、ありがとね」

「コーラ?」

「冷蔵庫開けて勝手に飲んだ」

「まじで? それ泥棒じゃね?」

「今までお絵かき教室で、あたしがこっそり教えてあげたコツにくらべたら、コーラなんて安いもんじゃん。あと今日のことも。車出してもらったにしても、おつりがくるくらい」

 日向は顔を両手でごしごしこすり、降参したようにうーんと唸った。

「志保さん意外と大人だね」

 そうだよ、どうだ参ったか。と言いかけて、志保は言葉をひっこめた。大人なのではなくて、当たり前の成り行き。ふたりともお互いに恋とは別の形で気に入っていて、肌に触れてみたかったから触れてみた。天秤は一瞬だけバランスを崩したけれど、最後には釣り合って水平になっただけのことだ。

 

「大人とか、つまんないこと言うなって。面白かったし、なんかこう、新しいイメージ湧いたって感じするでしょ」

「なんの?」

「絵に決まってるじゃん」

 志保はにっこり笑ってドアを閉め、振り向かずに駅までの道を歩いた。

時刻は正午になろうとしていた。熱すぎる太陽が、肩に痛かった。胸のあたりに汗がにじむ。さっきまで冷房の効きすぎた部屋にいたのが嘘のようだ。

「温度差やばい。暑い。死にそう」

 死にそうとつぶやいたら、むしろ生きていることを実感した。空を見ると、太陽は真上にある。あまりに強くて、近くて、伸ばせばすぐに手が届きそうだった。

 

カーテンレール 3

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 次の過程を、志保は何度も体験してきた。まともに付き合った人とも、そうじゃない人とも。相手と自分の反応を天秤にかけて、何か重要なことを可能な限り詳しく感じ取るための、骨の折れる作業。初めてしたのが17歳だから、10年間だ。同じことの繰り返し。あたしには進歩ってものがないのかな、と自分に呆れてしまう。

 

 一方的にでも私が好きならそれで幸せ。というほど恋愛体質でもない。

 楽しくセックスできればそれで満足。というほど快楽至上主義でもない。

 中途半端でつまんない人間。

 

つまんない人間だな、あたしって。なんかこう、突き抜けたものがないんだよな。お絵かき教室だって一生懸命に通ってるけど、ひとが驚くようなものを持っているわけじゃない。二重に整形したことをメイ先輩たちは面白がってくれたけど、整形なんてありきたりすぎてぜんぜんインパクトがない。

しかし日向は、あきりたりでもないし、つまらなくもない人間に思えた。だから気になって仕方がなかったのだ。

 

ベッドはもちろんシングルで、甘い汗の匂いがしていた。日向はそれほどぐちゃぐちゃのどろどろでもなく、意外性のなさに逆に驚いたくらいだ。片付いていないけれど清潔、という印象は、いろいろなことをした後でも変わらなかった。それは期待はずれでもあったし、不思議と安心もした。

「これ、どうなってるんすか?」

 日向は志保のつけまつげの上を人差し指でうっすらと撫でた。

「糸で縫いつけてあんの。ここの、このちょっとごろっとした部分」

「うわ、ほんとだ。ここ、糸入ってんだ。痛いすか?」

 日向は相変わらず敬語で、志保はそれを不快には感じなかった。相手と自分の反応を天秤にかける作業は、まだ志保の中で続いている。

「かなり痛い」

「あ、すんません」

「嘘に決まってんじゃん。大丈夫。もう痛くないし、自分でも忘れてくるくらい」

 日向は大げさにむっとした顔をして文句を言い、志保は軽く謝った。

 

「これは痛くなかったの?」志保は、日向の右肩からひじのあたりまで伸びているタトゥを指でなぞった。植物のような炎のような青黒いうねり。「胸の方まで入ってたんだ。きれいだね」

「痛くなくはないけど彫ってるうちに慣れるんすよ。オレ、途中で寝たし」

「そういうもんなの?」

「さあ。痛がる人はめちゃめちゃ痛がるらしいすよ。人それぞれってことすね」

「なんか普通すぎてつまんない答えだな」

「すんません、つまんなくて。ところで今、腹減ってます?」

「減ってない。ぜんぜん」

「じゃ、オレ4時くらいに店に行くんで、今から少し寝て、起きたらなんか食って、それで......」

 

 ふうん、そういうこと言うんだ。しかもさりげなく。きっと誰にでも言えちゃうんだろう。ストレスとか、たまらないのかな。こんなふうに気を使ってばかりいて。もしかしたら本当にあたしのことが好きだったりして。だとしたら、している間もずっと反応を天秤にかけていた自分が、すごく汚い人間みたいじゃん。ごめんねって謝りたくなっちゃうじゃん。

 あれ?

 本当にあたしのことが好きだったとして、それがどうして謝ることにつながるんだろう。疑ってごめんね、なのか。それとも、好きじゃないのにごめんね、なのか。

 志保はベッドに寝たまま、窓辺のカーテンレールを見つめた。2本のスチールはどこまでも平行に並んでいる。ちょうどいい距離で、ぶつかることもなく。

きれい、と志保は思った。

 

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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