2010年12月アーカイブ

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 和喜はエンジンを止めた車内の中でうつむいている。どうやら携帯電話を見つめているらしい。それから顔をあげて表へ出て、何かを考えているように、車に手をかけてしばらくじっと立ちすくんでいた。ドアの外でその様子を眺めているいずみにまったく気付かないので、いずみは「バカじゃないの」とひとりごとを言った。

 

振り向いた和喜と目が合った。それでもまだ気付かない。子供の頃から視力1.5をキープしているいずみと違って、和喜は目が悪いのだ。和喜はまたうつむいて、困り果てたようにアスファルトに座りこみ、さっきいずみが芽衣子達を待っていた時と同じように夜空をあおいだ。

何を考えているのだろう。何を考えているのかわかれば、いろいろなことが楽なのに。わからないから相手の心をさぐって不安になったり、取り越し苦労をしたり、悲しんだりする。でもいずみはせっかちだ。不安で悲しいことはできるだけ早くとっぱらってしまいたくなる。スタートラインに立ったら早く走りだしてしまいたいのだ。

 

「あのバカ、なにやってんのよ」

いずみは舌打ちをし、ぺたぺたとサンダルの音を立てて歩き出した。足音に気付いた和喜が振り返り、視力の悪い人がよくするように目を細めていずみを確認すると、転がるように立ちあがった。

 

 顔を見合せたまま、お互いにどちらかが口を開くのを待つ。その数秒間が、いずみにはとても長い時間のように感じられた。

「帰ろうよ」

 最初に言葉を発したのは和喜だった。いずみは沈黙を守った。どう答えればいいのか自分の中で決着がついていなかった。

「悠太と由香は寝てる?」

 いずみは黙ったまま首を縦に振った。和喜は安心したように何度か小さくうなずくと、口をへの字に曲げた。言いにくいことを言わなければいけない時にはいつも、こういう顔をする。

「いずみが怒るのはわかるけど、誤解だから。本当に何にもないんだよ。誤解させたことについては悪かったと思ってるし、謝る。本当にごめんなさい」

 和喜は頭をたれてしばらく上げなかった。何年も一緒に暮らしてきた人間の嘘くらい見抜ける。誤解だというのが嘘であるのは和喜の表情から手に取るようにわかっていた。そのうえ、いずみが嘘を見抜いていると和喜が勘づいていることさえわかってしまった。そして「本当にごめんなさい」という言葉が嘘ではないこともわかった。夜空を見上げていた和喜が何を考えているのかはわからなかったが、こういうことはわかってしまうのが悔しい。

 

ん? ということは。自分のしたことを許せるかどうか質問されているのも同然じゃないの。

そう来たか、と苦々しく思いながら、いずみはまだ黙っていた。今回許したら味をしめて、また私が許す立場にまわるはめになるかもしれない。それでもまだこの人と一緒にいたいと思えるだろうか。いつかまた裏切られた時に、一緒にいたいと思えるだろうか。この先、自分がどう考えるかわからない。

「わからないよ」

 いずみがつぶやき、和喜がいぶかしげな顔をする。計画的な人生を歩んできたような気でいたけれど、本当はそんなに器用じゃないのだ。何が起こるかわからない未来での選択なんてわかるはずがないじゃない。でも今、この瞬間の選択なら答が出せるかもしれない。集中しろ、集中。和喜は顔を上げていずみを見た。

「悠太と由香も一緒に、もう帰ろうよ。ね?」

きっとこの言葉が和喜にとっての限界なのだ。私の人生は小説やドラマじゃない。「愛しているのは君だけだ」だとか「君がいなければ死んでしまう」なんていう甘い言葉など、現実には与えられないのだ。少なくとも私が関わっている現実の中では。その中で私は生きていて、これからも生き続ける。できるだけ幸せに近づこうとしながら生き続ける。そんないっぱいいっぱいの人生の中で、私はどういう選択をすればいいのだろう。

ふと母のことを考えた。母は父を許さずに別れ、それでも自分の人生を気に入っていると言った。

で、私の選択は?

 

月明かりなのか街灯なのか、車の中にあわい光が差し込んで、手触りさえ覚えているチャイルドシートがいずみの目に入った。懐かしくて涙が出そうになったので、ぎゅっと奥歯をかんだ。

よし、決めた。

「じゃあ悠太と由香を起してよ。爆睡してるから、起こしたらきっとぐずって泣くから覚悟して」

 それがいずみの選択だった。

和喜はうなずいて、顔を少しだけゆがめた。笑ったようで泣きそうな、変な顔だった。

いずみが先を歩くと、和喜が手を握った。思いもしない行動に驚いて、いずみはしばらくぶりに胸が高まった。まだ一緒にいたいと思った。こんなことがあってもまだ一緒にいたいと思うなんて人間って不思議な生き物だ、と考えながら空を見た。

いずみは和喜を許すことを選んだ。嘘をついたうえに許しを乞う人を嫌い切れず許してしまった自分を、誰かに許してほしい。きっと母は許してくれるに違いない。きっと母ならわかってくれるだろう。

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 それから悠太と由香を寝かせた布団の横で少し眠った。どのくらいの時間が経ったのか、携帯電話のバイブで目が覚めた。芽衣子からのメールだった。

――車でこれから桐生に行くよ

 半分寝ぼけていたいずみは簡単が「嘘でしょ?」とうつろに返信を打つと、すぐに「嘘じゃなくて」と返ってきた。

どういうことなのよ。くしゃくしゃの髪のまま起き上がり、自分でもなんだかよくわからない言葉を送信していると、しびれを切らしたのか、次に来たのはメールではなく電話だった。

車を調達したから本当に桐生まで来ると言う。しかも運転しているのは、いつだったか志保から聞いたヒナタという妙な友達らしい。

「私にかこつけてただ楽しくドライブしてるだけじゃないの?」

声がかすれたのは寝起きのせいではなく、固まっていた心が緩んだからだ。芽衣子は電話の向こうで苦笑して、つられていずみもふっと笑う。頭の中に『カーズ』みたいな顔のついた車が夜の高速道路を爆走している映像が浮かんでしまった。

「気をつけて来てね。起きて待ってるから」

電話を切ると、子供達を起こさないようにタオルケットをかけなおし、再び布団の上に横たわった。

 

いずみ以外はみんな眠っている家は静まり返り、古い冷蔵庫の振動音と壁掛け時計が時を刻む音しか聞こえない。目を閉じると、子供の頃に過ごした夏が鮮やかによみがえる。

過ぎてしまった時間の記憶は、いずみを泣きたいような気持にさせた。

花火セットの袋を開けた時の火薬の匂い、Tシャツ姿の父が歌うかん高いビートルズ、お盆のために作った茄子の人形のきゅっとした手触り。夜空には星がたくさんあり、どれも大昔に光った光が今ここに届いていると教えられ、なぜか悲しくなった。夏はいつでも楽しくて、寂しい。

 

いずみは布団の上で目を閉じたまま、夢なのか現実なのかわからない奇妙な時間を過ごし、由香のぐずる声でまぶたを開いた。抱き上げてつものように泣きやませ、乳を含ませる。悠太も薄目を開けてうっとおしそうに寝返りを打ったが、そのまま眠り続けてくれた。

どうにか由香も寝かせると、いずみは着替えて髪を結えなおし、最近はほとんど化粧もしないから化粧のことなど思いつかず、そのまま忍び足で外へ出た。

 

 月がきれいだった。

 星は子供の頃に見たよりも少なくなったように感じる。

 狭い路地はガードレールさえない。アスファルトの上に座ってぼんやり天を仰いでいると、遠くからかすかなエンジン音が聞こえてきた。大通りから離れたこの道をこの時間に通る車なんてめったにない。きっと芽衣子達だと考えると、思わず笑いがこぼれた。

 予想通り、エンジン音の主は彼らだった。街灯の下に止められた車は左側面がへこんでいてボロボロだ。最初にドアを開けて降りてきたのは髪がもつれた志保で、出てくるなりいずみの腕に絡みついた。

「いずみちゃん、心配したんだからね!」

「しーっ! あんた声が大き過ぎ」

芽衣子に口をふさがれて、志保はぶつぶつ小声で文句を言った。芽衣子はこんな暑いさなかにも関わらずさっぱりとした顔をして、もちろん化粧も髪も崩れていない。いちばん最後に運転席から出てきた坊主頭の子が、どうやらヒナタ君らしかった。押し殺した声で「こんばんは」と挨拶する丁寧さから察するに、志保が言うほど妙な若者ではないようだ。

「こんな遠くまで来るなんて、さっきのさっきまで嘘だと思ってたよ。由香が泣きまくってたんだけどちょうど寝たところ。みんなタイミング良すぎ。ちょっとあがっていきなさいよ」

三人は顔を見合わせて目くばせすると、すぐに帰るからと言って断った。

「ほら、こいつは明日も仕事だからさ。夕方からだけど。そうだ、紹介が遅れたけど、この坊主頭が日向ね」

志保に小突かれた日向が、うっすと気の抜けた返事をして気まずそうに言う。

「夜中におしかけたうえに手土産なんもなくてすみません」

やっぱり想像していたよりちゃんとした子かもしれない。そういえば志保も絵画教室でこの子と知り合ったはずだ。母とハシモトさんの出会いの場所と同じだったことを思い出し、妙な偶然に苦笑した。

「お絵かき教室はまだ通ってるの?」

「芽衣子さんに続き、またお絵描き呼ばわりっすか。通ってますよ。でも今の講座でやめるつもりなんすけどね」

「なんでよ。せっかくしーちゃんが、変わった友達ができたって張り切ってたのに」

「変わった友達っすか。志保さん、よけいなこと言わないでくださいよ」

「は? 店にわけわかんないヘソ付きカエルの壁画描くなんてどう考えても変だろ」

 

 そのあと志保と日向の、口げんかなのかじゃれあいなのかわからない、小学生同士のようなやり取りが続いた。芽衣子は呆れ顔を浮かべてふたりを放置し、いずみに耳打ちする。

「オイちゃんと連絡取ったの?」

 いずみはいたずらっぽく首を横に振った。

「だって電話でなんて話したくない。メールは言語道断。決着つけたきゃここへ来いって感じでしょ?」

 芽衣子が少し笑ってうつむき「そうだね」とうなずいた。いずみには芽衣子の横顔がどことなく悲しげに見えた。また芽衣子は何かを抱えているらしい。この子は小器用でなんでもそつなくこなせるくせに、自分のこととなるととたんに不器用になる。高校生の頃からそうだった。でも結局最後には自分なりの答えを出すところが、この子のいいところでもある。

 弱いようで強い。強いようで弱い。今はそっとしておこう。

 

「心配かけてごめんね。みんなわざわざ来てくれてありがとう。というか、わざわざこんな田舎まで来る人なんてあんた達くらいだよ」

芽衣子達が路地にいたのはほんの30分ほどだった。いずみは遠ざかっていく車を見えなくなるまで見送り、大きく深呼吸をすると慌てて家に戻った。子供達が起きて泣いているかもしれない。心配をよそに、家はいずみが出て行った時と同じように暗く、静かだった。足音を経てないようにそろそろと部屋へ戻ると、悠太も由香も仰向けになって平和に熟睡していた。

よけいな心配などしなくても、世界は無事に時を刻んでいるのだ。

 

ほっとして台所へ行き、冷蔵庫から取り出した麦茶を飲んでいると、ふいにジーンズのポケットに入れていた携帯電話が振動した。

暗闇にぽっと浮かんだディスプレイの中で、和喜の名前がやけに黒々と映えている。件名はない。しばらくそのまま見つめていた。ボタンひとつ押せば本文が読めるのに、なぜか怖くて指が動かない。

蛍のように灯るディスプレイを前に躊躇していると、聞き覚えのあるエンジン音が耳をかすめた。志保達の車とは違う、良く知っている音。いずみは思い切ってボタンを押した。

――今、実家の前に着いたんだけど、少し話せるかな。

文字を見るや、いずみは携帯をポケットにしまい、そっと玄関のドアを開けた。

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「なにもここまでしなくてもさあ......携帯もまた鳴ってるし、出て返事してあげたら?」

母は抜かれた電話線をつまんで悲しげな顔をする。そんな顔をしたって、これは私と和喜と子供達の問題なのだから首をつっこまないでほしい。それにあなたがそんなことを言える義理はないはず。夫に捨てられたあなたの言葉に参考になることなどひとつもない。

そう思ったけれど、さすがに口に出すほど冷静さを失っているわけでもないし、そもそも実家に帰ってきておいて「首をつっこむな」とも言えない。

 

いずみは携帯も母も無視して、悠太をうまく寝かしつけることだけを考えた。ぐずりだした今がチャンスだ。既に眠っている由香も抱いて隣の部屋に用意した布団に連れて行き、一緒に寝ようと誘う。30分ほどぐずぐずした挙句、悠太はこてんと眠りについた。お昼寝もそれほどしないまま長い時間電車に乗ったり慣れない家で暴れたりしたのだから、体はぐたぐたに疲れていたに決まっている。

布団部屋のふすまを開けたまま居間へ戻ると、母が畳の上へ置きっぱなしにしていたいずみの携帯電話を眺めていた。

 

「何度も鳴ってたよ」

そう言う母をまた無視して携帯の着信履歴を確認した。

ママ友からの着信と留守録が2件あり、和喜がなけなしの連絡先を絞りだしてそのふたりに何かしらの連絡を取ったことが想像できた。

ふたりに「よくある夫婦喧嘩の末に実家に帰ってきている」という内容のメールを出すと、すぐに返信が来た。わかるわ、私もやったことあるから。たまにはガツンと思い知らせてやった方がいいの。戻ってきたら連絡してね、ケーキ食べまくろう、酒もアリかな。ふたりの返信内容を合計すると、そんな感じだった。

その他の着信とメールはすべて和喜からだ。いずみは携帯を閉じて、また畳の上に放り投げた。

 

台所からコーヒーのいい香りが漂い、母がお盆にカップをふたつ載せて現れる。

「夜なのにコーヒーなんて飲んだら、お母さん眠れなくなるでしょうが」

「大丈夫よ。ハシモトさんから豆をもらってさ、誰かのハワイ土産らしんだけどこれがなっから美味しくて。飲んでみい」

またハシモトさんか、とつぶやいたけれど母には聞こえなかったようだ。

「ねえ、お母さんおっかなくって聞けなかったんだけどさ、いったい何があったん? 何聞いても、お母さん怒りゃしないのに」

うん、と曖昧に答えたところで、また携帯電話に着信があった。沢村芽衣子という名前を見て、いずみは慌てて電話に出た。

 

いずみちゃん? ちょっと、どこにいるのよ! え、きこえない。どこ? 実家?

聞こえないのはこっちの方だ、といずみは思った。芽衣子の声の後にはやたらとうるさい音楽が流れている。

―なんで実家にいるの? 悠太と由香も一緒なんだよね? さっきオイちゃんから電話があって、いずみ達のことを探してたの。私だけじゃないよ、志保のところにも電話があった。たぶん他にもいろいろ連絡しているはずよ。

「だろうね」

―だろうねって、何のんきなこと言ってんの。

「だって他にも友達とか知り合いとかから連絡入ってるもん。みんなけっこう心配してくれていて嬉しいっていうか、なんか人気者になった気分だよ。それにしてもあいつ本当にバカだね。誰かに聞けば行き先がわかるとでも思ってるのかな。自分で考えろっての。あ、私達が実家にいること、あいつに教えちゃだめですからね」

―どうして教えちゃだめなの?

「ダメ。絶対にダメ。考える気があれば、私達が他に行き先がないことくらいすぐにわかるはずだから。浮気する脳があるくらいなら行き先くらい簡単にわかるってもんでしょ」

 いずみは陽気に笑った。すぐ近くで母が聞いていることも意識しながら会話を進める。こうしていれば、母に面と向かって事の顛末を話さずに済む。

「確実に浮気してるのに、自分は無実だと言い張んのよ。証拠もあがってるのに嘘をつくなんて、ほんと笑っちゃうでしょ。ああいうバカには天罰が下るの。制裁を加えてやるわよ。だから絶対に教えちゃダメだからね、わかった?」

 

電話を切ると、心拍数が上がっていた。何本も全力疾走をした時のように。ひどく気持ちが高ぶっている。

ハワイ土産だという香りのいいコーヒーは人肌に冷めていて、飲むと少し変わった味が口に広がる。思わず「美味しい」とつぶやいた。母のカップを見ると、褐色の液体は口をつけていないらしく少しも減っていない。

外は車も通らず、昼間はうるさいほど鳴いていた蝉の声もしない。聞こえるのは音量を落としたテレビの音だけだった。膝を崩していた母が、居心地が悪そうにがさごそ動き、テレビに目を向けたまま言った。

「和喜さんは浮気なんてしてないって言い張ってるんだね。そうに言ってる?」

いずみはカップを置いて何度かうなずいた。

「それなら悪くもない。んまあ、もちろんよくもないけど。お母さんが許せなかったのはそこだったいね」

母は少女のように少しはにかんで笑いコーヒーを飲み、話しだした。

それは、いずみが何度も聞いたことのある父と母のエピソード。レポート用紙1枚で収まってしまうくらいに短い話だった。

 

高校を卒業して就職した母は、ある日、高校時代の2つ上の先輩と再会した。

いずみの切れ長の一重の目は父に似ているらしい。昔の写真を見たことがあるが、確かに似ていた。母は、年を取った今でもそうだが、あまり華はないけれど良く見れば可愛らしい顔立ちをしている。社会人になり少し垢ぬけた母を、父は再発見したのだろう。

若いふたりは恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。この時ことさら抵抗したのは祖母で、そのために祖母と母はしばらくの間絶縁状態になった。定職はあるもののあまり誠実には思えない父を、祖母は気に入らなかったのだが、若い母はそんなことは完全に無視した。小さな賃貸アパートでふたりは暮らし、ほどなくして母はいずみを授かった。

いずみの記憶の中にある父は、寝付きの悪いいずみの横で前髪をすくように撫でてくれた。時々かん高い声でへんな歌を歌っていずみは笑い、もういっかい歌ってと何度もせがんだ。それがビートルズの「ミスター・ムーンライト」の出だしの部分だと知ったのはずいぶん後のことだ。

しかし父は別の居場所を作ってしまった。つまり浮気をしたのだ。「いずみのことは本当に可愛がっていたし、いずみが成人するまでは多くはないけれど養育費もきちんと入れていた」と母は言う。繰り返し聞かされてきたせいで、いずみの中では、昔々どこかの国であったおとぎ話のように現実味がなく、他人事みたいな話になっていた。

 

 しかしその日のおとぎ話は少し趣が違った。いずみが初めて聞くくだりが付け加えられていたからだ。

「あの人、嘘もつかずに認めた。取り繕おうともしなかった。だから許せなくて、なんていうかね、もう要らないと思ったの。そういう人はもう要らない。で、こうなったいね」

 母はさっぱりしたような顔で、崩した足の膝あたりをさすった。その仕草がまるで老婆じみていて、いずみははっと息をのんだ。母はもう若い頃の母でないのだ。

こうなったいね、なんて簡単に言ってるけど、どうなったっていうのよ。そう文句を言いかけてやめた。自分がなぜ子供を連れてここまで来たのか、その理由にようやく気付いたからだった。

私はここに甘えに来た。唯一、甘えてもいい存在だった和喜に裏切られ、私は甘えられる他の対象を求めていたのだ。やっとそれがわかり、いずみの苛立ちはフライパンの上のバターのようにゆっくりと溶けていく。

「許せないのは当然よ」

いずみがコーヒーの入ったカップを片づけ始めると、母は穏やかに笑い、いずみの片づけを引きづくように立ちあがった。

「まあ、お母さんはこれでいいし、これがいい。後悔してないと言ったら嘘になるけどさあ、こんな人生も私はなっから気に入ってんのよ。子供も寝たことだし東京から来て疲れたろうから、もういずみも寝りい」

 

 カップを奪い取られたいずみは、立ちあがる母の後ろ姿を黙って見つめた。私にはまだ支えてくれる人がいるし、支えなければならない人もいる。

 ごめんね。

 それはとても小さな声だったせいで、母には届かなかったようだった。 

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外では蝉の鳴く声がうるさく響いていた。

いずみの祖母は耳が遠くなり足腰も弱くなったが、母よりもよほど言うことがしっかりしている。母が中学生の頃に祖父は病気で亡くなり、それ以来ひとりで母を育ててきたという境遇は母と同じだったが、気性は母と正反対だ。

車が到着するのを待っていたかのように、祖母は玄関先で反らんばかりに腰を伸ばして仁王立ちになっている。

「お盆よか前に来るなんて、どうしょうもねえやいねえ。おめえ、どうせ喧嘩でもしたんべえ」

祖母はいきなり叱りつけ、よたよたと家の中へ入って行った。懐かしいその声をきいたとたん、いずみはやっと頬が緩み、由香を片手に抱いてもう片方で悠太と手をつないだ。荷物やらベビーカーやらを下ろしている母達は放っておき、ゆっくりと玄関を上がる。昔と変わらない、少し線香臭いような匂いがした。

 

畳敷きの居間に入ると、ビニールクロスの掛った座卓の上に皿に盛ったすいかがある。

「すいかでも食べりい。由香におっぱいくれるんなら仏間でやれ」

うん、と素直にうなずいていずみは仏間の障子を開けた。悠太も妙ちきりんなジャンプをしながらついてきたが、部屋の奥で静かにたたずんでいる仏壇を見つけると、不安げにいずみのシャツの裾をつかむ。自分もそうだったな、といずみは子供時代を思い出した。仏壇が怖くてこの部屋に入るのが嫌いだった。

畳に座って由香におっぱいをふくませ、私はどうしたいんでしょうね、仏壇に向かって胸の中で話しかけてみる。それから由香を座布団の上に寝かせ、悠太と一緒に線香をあげる。

「これなに?」

「お線香。あそこにある写真の人とか、あれは大きいじいちゃんなんだけどね、他にもいろんな人にあげるんだよ」

「なんで?」

「なんでかな」いずみは由香を抱き上げた。「そうね、あの人達は遠くにいて、お線香の煙でご挨拶するほうが遠くからでもよく見えるからかな。こんにちは、とか、元気ですか、とかの挨拶の代わり」

「どこ?」

いつもの質問攻めが出たな、と思いながらもいずみはそれが嫌ではく、むしろ頬ずりしたくなるほど可愛いらしく感じる。なんで、やだ、きらい、の3つが今の悠太のベストワード上位3位だ。うるさいと怒鳴りつけなくなる時もあるし、今のように愛おしく思える時もある。自分のコンディションによって子供への態度も変わってくるなんて、親とはなんて身勝手なんだろう。

 

浮気した和喜も、子供を連れて家を出てきた自分も、離婚をしてからずっとしっかり者の役割を自分に押しつけてきた母も。きっとあのぶっきらぼうなお婆ちゃんだって娘の目には身勝手な親だと映った時期があったに違いない。

母は離婚をした後も、かたくなに実家で祖母と一緒に暮らそうとしなかった。自分にはわからないところで、母は祖母とのわだかまりに葛藤していたようだ。

「仏壇の中の人がいる場所はすごく遠くて、電車に乗っても飛行機に乗っても行けないところだよ」

 

仏間を出ると、台所で母と祖母が悠太の子供用スプーンをどこにしまったんだと引き出しをひっかきまわしていた。今はこの家で一緒に暮らしている母と祖母は、あれこれ文句を言いあいながらもうまく折り合いをつけている。

ふと玄関を見ると、慣れた様子でハシモトさんがあがりこんでくるところだった。

「ところであの人はなんなの?」

食器棚の引き出しから子供用スプーンを見つけ出した母に小声で聞くと、母は忙しそうにスプーンをスポンジで洗い始めた。

「だから友達って言ったがね、もう。お母さん、少し前から絵画教室に通っててさ、ハシモトさんも生徒なわけさ。酒屋を息子夫婦に任せて隠居の身だし、暇なんだんべ」

「暇だからって、どうしてお母さんと遊んでるわけ? まさか不倫とか!」

「んなん、奥さんはだいぶ前に亡くなってしまったんだいね。息子夫婦がちょうどほら、いずみと同じくらいの子供がいてさ、だからあの車にチャイルドシートも2つで。ちょうどよかったよねえ」

 

聞き捨てならない要素がふたつみっつ入っていて、いずみは眉をひくひくつりあげた。どこをどう聞いても母とハシモトさんは、ただの友達ではなくて恋人同士ではないか。それにあの、座卓をふきんで拭くハシモトさんの手なれた様子。どう見てもこの家に頻繁に通っているだろう仕草だ。

祖母はすっとぼけた顔でよたよたと座卓に近づき、よっこらしょと座った。煎餅の入った袋を開けようとふんばっていると、ハシモトさんが笑顔でそれを受け取り代わりに開けた。

和気あいあい、という言葉が似合う風景。まるで平和な家族の日常のようだ。いずみ達だけお客様扱いされているような気分にさせられる。

 

日が落ちる前にハシモトさんは寿司屋に出前の電話をし、いずみが子供達と格闘している間に夕食の準備はできあがっていた。悠太のふりかけのためにご飯も炊いてあった。家を出てきた親子と、恋人同士なのかもしれない年を取った男女と、しかめっ面の老婆。総勢6人の夕げは、やはり平和な家族の日常のように進み、ここでもいずみ達はお客様だ。

 

食卓が片づけられるとまずハシモトさんが家路につくために去り、続いて祖母が眠たげに寝室でもある仏間へ去った。由香は座卓の隣に敷いた布団の上で寝息を立てている。悠太は知らない家に来て興奮しているらしく、おまけにハシモトさんからアンパンマンブロックをもらったものだから、ちっとも寝る気にならないらしい。風呂にも入って一度は寝かしつけたのに、ブロックで遊ぶと言ってきかなかった。

「ねえ、パパは?」

実家へ来てから初めて聞いた、悠太の「パパ」という言葉に、いずみは動揺した。ぼんやりとテレビを眺めていた母が、少しだけ視線をずらしていずみを見た。今まで何も問いかけようとはしなかったけれど、それなりに気にしているに違いない。

「パパはおうちでお留守番してるの」

「なんで?」

「お仕事があるからだよ」

 

 その時、いずみの携帯電話が振動した。和喜からの着信。ディスプレイを眺めたまま、いずみは電話に出なかった。おそらく仕事から帰ってきて、家に誰もいないことに驚いているのだろう。

 いい気味だ。

 立て続けに3回の着信があり、その後呼び出しはぱったり止んだ。きっと考えているのだ。妻と子供がどこへ消えたのかと。いずみには、キッチンに突っ立ったまま次にかけるべき電話番号を頭からひねり出そうとしている和喜の姿が目に浮ぶ。

 そして間もなく、実家の電話が鳴った。母が立ち上がろうとするのを遮り「出ちゃだめ!」といずみは吐き捨て、呼び出し音が鳴りやむのを待つと、電話線を壁から引っこぬいた。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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