それから悠太と由香を寝かせた布団の横で少し眠った。どのくらいの時間が経ったのか、携帯電話のバイブで目が覚めた。芽衣子からのメールだった。
――車でこれから桐生に行くよ
半分寝ぼけていたいずみは簡単が「嘘でしょ?」とうつろに返信を打つと、すぐに「嘘じゃなくて」と返ってきた。
どういうことなのよ。くしゃくしゃの髪のまま起き上がり、自分でもなんだかよくわからない言葉を送信していると、しびれを切らしたのか、次に来たのはメールではなく電話だった。
車を調達したから本当に桐生まで来ると言う。しかも運転しているのは、いつだったか志保から聞いたヒナタという妙な友達らしい。
「私にかこつけてただ楽しくドライブしてるだけじゃないの?」
声がかすれたのは寝起きのせいではなく、固まっていた心が緩んだからだ。芽衣子は電話の向こうで苦笑して、つられていずみもふっと笑う。頭の中に『カーズ』みたいな顔のついた車が夜の高速道路を爆走している映像が浮かんでしまった。
「気をつけて来てね。起きて待ってるから」
電話を切ると、子供達を起こさないようにタオルケットをかけなおし、再び布団の上に横たわった。
いずみ以外はみんな眠っている家は静まり返り、古い冷蔵庫の振動音と壁掛け時計が時を刻む音しか聞こえない。目を閉じると、子供の頃に過ごした夏が鮮やかによみがえる。
過ぎてしまった時間の記憶は、いずみを泣きたいような気持にさせた。
花火セットの袋を開けた時の火薬の匂い、Tシャツ姿の父が歌うかん高いビートルズ、お盆のために作った茄子の人形のきゅっとした手触り。夜空には星がたくさんあり、どれも大昔に光った光が今ここに届いていると教えられ、なぜか悲しくなった。夏はいつでも楽しくて、寂しい。
いずみは布団の上で目を閉じたまま、夢なのか現実なのかわからない奇妙な時間を過ごし、由香のぐずる声でまぶたを開いた。抱き上げてつものように泣きやませ、乳を含ませる。悠太も薄目を開けてうっとおしそうに寝返りを打ったが、そのまま眠り続けてくれた。
どうにか由香も寝かせると、いずみは着替えて髪を結えなおし、最近はほとんど化粧もしないから化粧のことなど思いつかず、そのまま忍び足で外へ出た。
月がきれいだった。
星は子供の頃に見たよりも少なくなったように感じる。
狭い路地はガードレールさえない。アスファルトの上に座ってぼんやり天を仰いでいると、遠くからかすかなエンジン音が聞こえてきた。大通りから離れたこの道をこの時間に通る車なんてめったにない。きっと芽衣子達だと考えると、思わず笑いがこぼれた。
予想通り、エンジン音の主は彼らだった。街灯の下に止められた車は左側面がへこんでいてボロボロだ。最初にドアを開けて降りてきたのは髪がもつれた志保で、出てくるなりいずみの腕に絡みついた。
「いずみちゃん、心配したんだからね!」
「しーっ! あんた声が大き過ぎ」
芽衣子に口をふさがれて、志保はぶつぶつ小声で文句を言った。芽衣子はこんな暑いさなかにも関わらずさっぱりとした顔をして、もちろん化粧も髪も崩れていない。いちばん最後に運転席から出てきた坊主頭の子が、どうやらヒナタ君らしかった。押し殺した声で「こんばんは」と挨拶する丁寧さから察するに、志保が言うほど妙な若者ではないようだ。
「こんな遠くまで来るなんて、さっきのさっきまで嘘だと思ってたよ。由香が泣きまくってたんだけどちょうど寝たところ。みんなタイミング良すぎ。ちょっとあがっていきなさいよ」
三人は顔を見合わせて目くばせすると、すぐに帰るからと言って断った。
「ほら、こいつは明日も仕事だからさ。夕方からだけど。そうだ、紹介が遅れたけど、この坊主頭が日向ね」
志保に小突かれた日向が、うっすと気の抜けた返事をして気まずそうに言う。
「夜中におしかけたうえに手土産なんもなくてすみません」
やっぱり想像していたよりちゃんとした子かもしれない。そういえば志保も絵画教室でこの子と知り合ったはずだ。母とハシモトさんの出会いの場所と同じだったことを思い出し、妙な偶然に苦笑した。
「お絵かき教室はまだ通ってるの?」
「芽衣子さんに続き、またお絵描き呼ばわりっすか。通ってますよ。でも今の講座でやめるつもりなんすけどね」
「なんでよ。せっかくしーちゃんが、変わった友達ができたって張り切ってたのに」
「変わった友達っすか。志保さん、よけいなこと言わないでくださいよ」
「は? 店にわけわかんないヘソ付きカエルの壁画描くなんてどう考えても変だろ」
そのあと志保と日向の、口げんかなのかじゃれあいなのかわからない、小学生同士のようなやり取りが続いた。芽衣子は呆れ顔を浮かべてふたりを放置し、いずみに耳打ちする。
「オイちゃんと連絡取ったの?」
いずみはいたずらっぽく首を横に振った。
「だって電話でなんて話したくない。メールは言語道断。決着つけたきゃここへ来いって感じでしょ?」
芽衣子が少し笑ってうつむき「そうだね」とうなずいた。いずみには芽衣子の横顔がどことなく悲しげに見えた。また芽衣子は何かを抱えているらしい。この子は小器用でなんでもそつなくこなせるくせに、自分のこととなるととたんに不器用になる。高校生の頃からそうだった。でも結局最後には自分なりの答えを出すところが、この子のいいところでもある。
弱いようで強い。強いようで弱い。今はそっとしておこう。
「心配かけてごめんね。みんなわざわざ来てくれてありがとう。というか、わざわざこんな田舎まで来る人なんてあんた達くらいだよ」
芽衣子達が路地にいたのはほんの30分ほどだった。いずみは遠ざかっていく車を見えなくなるまで見送り、大きく深呼吸をすると慌てて家に戻った。子供達が起きて泣いているかもしれない。心配をよそに、家はいずみが出て行った時と同じように暗く、静かだった。足音を経てないようにそろそろと部屋へ戻ると、悠太も由香も仰向けになって平和に熟睡していた。
よけいな心配などしなくても、世界は無事に時を刻んでいるのだ。
ほっとして台所へ行き、冷蔵庫から取り出した麦茶を飲んでいると、ふいにジーンズのポケットに入れていた携帯電話が振動した。
暗闇にぽっと浮かんだディスプレイの中で、和喜の名前がやけに黒々と映えている。件名はない。しばらくそのまま見つめていた。ボタンひとつ押せば本文が読めるのに、なぜか怖くて指が動かない。
蛍のように灯るディスプレイを前に躊躇していると、聞き覚えのあるエンジン音が耳をかすめた。志保達の車とは違う、良く知っている音。いずみは思い切ってボタンを押した。
――今、実家の前に着いたんだけど、少し話せるかな。
文字を見るや、いずみは携帯をポケットにしまい、そっと玄関のドアを開けた。
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