雅人との出来事をかいつまんで話すと、志保が前のシートの背中を、後からどすんどすんとパンチし始めた。
「その店長、鋭い! 嘘だよ、ぜーーーったい嘘ついてたんだって。なんでメイ先輩があんな望月ごときに騙されんだよ。どうしてもっと怒らないわけ?」
どうやら志保はとてつもなく怒っているようだ。芽衣子にも、なぜありきたりな普通の怒りが湧いてこないのか不思議だった。
「あんな望月ごときとさっさと別れられて良かったっつの! 次いこう次! おい日向、あんた友達いっぱいいるじゃん。メイ先輩に誰か紹介してやってよ!」
ハンドルを握っていた日向は、前方を見たまま苦笑した。
「ちょっと志保さん、暴れないでくださいよ。ていうかオレ思うに、その望月って人、半分くらいは本当のこと言ってるんじゃないですかね。オレのかあちゃんもよく、病気になること知ってたら結婚しなかった、今からでも離婚してくれていい、ってとうちゃんに言ってたからな」
「なんだよおまえ、あいつの肩持つ気かよ?」
「いやそうじゃなくて。早期発見とはいえ、肺ガンっていったら重病でしょ。将来の保証もできないって思ったら、迷惑かけないうちに消え去りたいと思う人もいるっしょ」
「ぜんぜんわかんねえよ!」
「そういう人もいるし、思わない人もいて、いろいろいるんすよ、たぶん。オレだったらやっぱり心細いから誰かと一緒にいて面倒見てほしいすけどね」
だからその"誰か"が私ではなかったってことなのよ、と芽衣子は言いかけたがのみこんだ。すべてが嘘だったと考えるのも、半分くらいは本当だったのに結局自分は選ばれなかったと考えるのも、どちらもやりきれない。そもそも志保と日向の前で、どうしてこんな話を始めてしまったのだろう。どうせ他人は、自分と同じやりきれなさや悲しさを感じることはできないのに。共感や同情はあくまでも共感や同情で、私があの時に味わった苦しい気持そのものを分かち合えることなんてできない。だからシャッターを下ろすのだ。
それでも芽衣子は、何かを期待して打ち明けてしまった。打ち明けることで前に進めるような気がした。たとえ共感や同情や、見当違いの意見でも、自分ひとりで考えているよりいい。怒りの湧かない自分の代わりに、こうして怒ってくれる人がいると救われる。
「そろそろ目的地に到着なんで、もういちど住所教えてくれません? それからもうすぐ着くって連絡しといたほうがいいっすね」
芽衣子は携帯電話に登録したいずみの実家の住所を探した。以前いずみの母親にお礼の贈り物をしたことがあるから知っているだけで、今まで一度も来たことのない場所。最近は仕事ばかりで旅行に行くこともなかった。思いつきで始めた夜のドライブは、ずいぶん遠い場所へ連れてこられたような錯覚に陥る。
日向は一度だけ曲がり角を間違えただけで、首尾よく目的の住所に到着した。静かな住宅地の路地を入ると、アスファルトの上に座っている人影があった。月を見上げながら、恐ろしく無防備だ。いずみだった。
「さっきのさっきまで嘘だと思ってたよ。由香が泣きまくってたんだけどちょうど寝たところ。みんなタイミング良すぎ」
立ち上がったいずみは思いのほか元気そうで、志保が心配したような岬や樹海に行くことすら思いつきもしなかった様子だ。元気そうな顔が見られただけでも、芽衣子と志保は満足だった。家にあがっていけとしきりにすすめたけれど、三人とも遠慮した。
「ほら、こいつは明日も仕事だからさ。夕方からだけど」
志保に小突かれた日向が、うっすと気の抜けた返事をする。
「しーちゃんからいろいろ噂は聞いてたけど、こんなところで会えるとは思ってなかったよ。帰りもまた日向君が運転するの? そういえばお絵かき教室はまだ通ってるの?」
またお絵描き呼ばわりっすか、と日向が苦笑した。
「お絵描き教室は、今の講座でやめるつもりなんすけどね」
「なんでよ。せっかくしーちゃんが、ヘンな友達ができたって張り切ってたのに」
ヘンな友達っすか、とまた日向は苦笑した。なんだかこの子は苦笑が似合う、と芽衣子は少し笑ってしまった。
思いつきで、初めて会った友達の友達の車で夜中に出かけ、知らない場所で知っている人に会って。月はきれいで、夏の夜の空気は生温かく、それに誘われて普段では考えられないような打ち明け話をして。
これをなんて言うんだろう。たぶん、非日常と言うのだろう。
芽衣子は、そしておそらく他の三人も、非日常的な出来事のせいで体がほんわりと浮いたように感じていた。こんな時間の中にいると、日々の良いことも悪いことも、数十年の人生なんてすべて幻のように思えてくる。何十億年もある地球の歴史の中の、ほんの些細な時間。それでも怒ったり傷ついたり喜んだりする気持ちは、決して幻ではなくその人その人の上に重くのしかかるのだ。
「心配かけてごめんね。みんなわざわざ来てくれてありがとう。というか、わざわざこんな田舎まで来る人なんてあんた達くらいだよ」
いずみとはほんの30分ほど話をして、三人はまたドライブを始めた。すぐに志保がアイスを食べたいと言い出し、コンビニに寄った。アイスの並んだ冷凍ケースを覗きこみながら、志保と日向があれこれ言いあっている様子に呆れながら、芽衣子がふとドアの方を向くと、紺色のポロシャツを着た男の後ろ姿が目に入った。なんとなく見覚えがあるような気がしたが、すぐに忘れてレジに向かった。車に乗り、「超うめぇ」と言いながらガリガリ君を食べ終わった志保はおとなしくなった。眠ってしまったようだ。
盛り上げ係の志保が撃沈し、エンジンとラジオの音しかなくなった頃、日向が突然言った。
「さっき、ていうかずいぶん前の話の続きなんすけど」
「うん」
「上とか下とか」
「ああ、店長が言ったことね」
「上とか下とか、オレよくわかんないすけど、上見たら憧れて努力しなくちゃいけなくてうるせえよって感じだし、下見たら自分は幸せだって満足して努力しないし。上見ても下見てもキリないじゃん?」
「うん」
「でさ、あの標識って上向いてるじゃないですか」
日向が左手で指す方向のはるか先に、ブルーの道路標識があった。白で矢印が描かれている。一方は左へ、一方は上を向いていた。標識は瞬く間に車の上を通り過ぎ、芽衣子は思わず開け放した窓の外に首を出した。
「あれって平面上の表現だから上向きに描いてあるけど、前方っていう意味じゃないすか」
「うん」
「ってことは、上とか言われても、"前へ進め"でいいんじゃないすか? よくわかんないすけど、前に進めばいいんすよ」
ああそうか、と芽衣子は納得した。日向が、肉親である母親がいなくなってもなお、親の再婚相手と連れ子を屈託なく家族と呼んでしまえるつながりの正体がわかった気がした。愛でもしがらみでも日常でもない。前へ進む。進んだ未来には、諍いや葛藤や別離が待ち受けているかもしれないけれど、前へ行く意志があるのならすべてを引き受けて進む。そういうことなのだ。
それがわかったとたん、コンビニで後ろ姿を見た男が誰なのか、記憶の中で繋がった。オイちゃん、いずみの夫だ。
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