2010年8月アーカイブ

開店休業 4

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早く質問に答えろ。答えろって。

だいぶ酔いのまわってきた志保は前のめりになり、恐ろしい形相で日向に念を送ったけれど、もちろん届くはずもない。金髪坊主頭はのんきに棚からCDを抜き出し、プレーヤーにセットしている。

芽衣子がメニューをめくりながらつぶやいた。

「なんていう怖い顔してるのよ」

「悪かったね。いつもこんな顔だよ」

 

ドアが開き、カップルと思しき二人組の若い客が入ってきて、日向は注文を取りにカウンターを出た。どちらも日向の友達らしく「おう」とか「元気?」とか気軽な挨拶をしてテーブル席に座った。流行りものだけで固めていないちょっと個性的な着こなしをしていて、三人が会話をしている構図は無理がない。いつも無理やり楽しくて面白い方向へ進もうとしている志保にとっては、自分の持っていない自信をこの三人が持っているような気がして寂しくなった。

しかも日向は志保に使うような敬語ではなくくだけた喋り方で注文を取り、そんな喋り方をする日向に対してまた少し距離を感じてしまう。

 

「ねえメイ先輩。あいつ本当はどっちだと思う?」押し殺した声で話しかけると芽衣子は訝しげな顔をし、だから慌てて付け加えた。「あ、ゲイでもストレートでも別にいいんだけどね。あたしには関係ないことだし」

芽衣子が謎の解けた探偵のような目をしてニヤリと笑ったが、余計なことを言って墓穴を掘ったことに志保は気付いていなかった。

「ふうん、関係ないんだ。そんなに知りたいなら自分できいてみればいいのに。いつもは空気読めないくらいの図々しさで食いついていくくせに、なんか志保らしくないじゃない。それともつっこんできけない理由でもあるわけ?」

「理由?理由は......ない。それにあたし、いつも知りたがってるわけでもないじゃん。だいたいメイ先輩の話だって、あたし途中でつっこむのを諦めたでしょ。本当はすごく聞きたいんだよ?でも我慢してるんだから」

「それは"どうせメイ先輩は話してくれないしー"って思ってるからでしょ。まあその通りだけどね。でも日向君に確かめられないのは、知るのが怖いからじゃないの。もしゲイだったら志保のことなんか眼中にないってことだもんね。ぜんぜん脈なし」

 

穏やかな表情をしているが、言葉は明らかに志保を傷つけようとしていた。芽衣子は確かにときどききついことを言う。しかしそれとはまったく違う、なげやりな悪意が潜んでいた。

「どうしてそんな意地悪なこと言うわけ?」

「私はいつだって意地悪じゃないの。志保が知らないだけで、私は今までもずっと意地悪で、あの冷蔵庫より冷たい人間だったじゃない」

芽衣子はカウンターの奥に見えるビールの置かれた冷蔵庫を指さしながらせせら笑った。

 

その時、テーブルで小さな拍手が起きた。振り返ると、日向が「この二人、オレの友達なんすけど、昨日入籍したらしくて」と屈託なく言う。紹介された二人は志保達に向かって照れながら小さくお辞儀をした。

芽衣子は職場で化粧品を売っている時のようなマニュアル通りの笑顔で「おめでとうございます」と祝い、その笑顔のままで向き直った。

「口ではおめでとうと言ってるけど、心の中では二人とも死んで地獄に落ちろと思ってるくらい、私は意地悪なの。志保の知っている私なんて、本当の私じゃない。本当の私の1パーセントも知らないのよ」

 

気まずい空気が漂い、志保は口をつぐんだ。何も知らずにカウンターに戻ってきた日向が「何か作ります?」と声をかける。

「メニューを見てもよくわからないから、日向君に任せる。志保はもう飲み過ぎだからジンジャーエールとかを......」

「勝手に決めないでよ。あたしも酒ちょうだい。ジンジャーエールなんか出したらボコってやるからね」

刺々しい雰囲気に気づいた日向は一瞬動かしていた手を止めたが、すぐに「うっす」と普段どおり気の抜けた返事をして仕事に取り掛かかり、少しして突然頭を下げた。

「すんません。入籍の話を聞いてテンションあがっちゃって。あれですよね、芽衣子さんはいろいろ厳しいことがあったのに、他人の結婚話なんて聞いたらますます落ちますよね。申し訳ないっす」

志保と芽衣子の間に不穏な空気が流れていたのは自分のせいだと勘違いしたようだ。気まずくなったのは日向のせいではないのに。

「別にそういうんじゃないから気にしないで」

代わりに芽衣子が答える。志保はふてくされた。

 

そらした目をふとバッグに向けると、携帯電話のイルミネーションが光っている。

取り出して開く。

「オイちゃん」という名前の着信があった。着信時間は10分ほど前。どうしてオイちゃんから電話なんてかかってくるのだろうと不思議に思いつつも、なぜかそわそわした。

嫌な予感がする。

すかさず発信しながら、新しいグラスをコースターの上に置いた日向を横目にちらりと見て、電話に出るのを待った。

 

「もしもし?オイちゃん、あたしに電話した?」

━した。いずみ達と一緒にいるのかなと思って......。

「いずみちゃん?」

━いや、一緒じゃないならいいんだ。

そう言うと、和喜は挨拶もせずにいきなり電話を切った。まぎれもなく、いずみの居場所を探している様子だった。こんな夜遅くに志保がいずみと一緒にいるはずがない。おそらく思いつく人に手あたり次第連絡をしているに違いなかった。それに、「いずみ達」と言った。たぶん悠太と由香。三人とも居場所がわからないということだろう。家出?それともまさか......。

少し前にいずみから和喜との不仲を聞かされていた志保は、考えたくもない最悪の事態を考え、酒を飲んで少し酔っていたことさえすっかり忘れてしまった。

 

「もしかして、メイ先輩の携帯にもオイちゃんからの着信ってない?」

「ある。今、かけてみてる」

芽衣子は既に自分の携帯電話を耳にあてていた。志保のやり取りを聞いて不審に思ったようだ。

和喜は、志保と芽衣子が同じ場所にいることを知らない。むしろその方が、さっきより詳しい事情を聞き出せるかもしれない。芽衣子もそう考えたらしく、志保が隣にいるそぶりを見せずに切り出した。

「すみません、すぐに気づかなくて。どうしたんですか?うん、うん。一緒じゃないですけど、いずみちゃん、どうかした......」

芽衣子が「切られた」と呆然とした表情で膝の上に携帯を置いた。

「......本人に、いずみちゃん本人に電話してみればいいんだ。そうだ、そうだよね」

自分に言い聞かせるようにつぶやき、指を震わせながら番号を探す芽衣子の腕に、志保は不安のあまりしがみついた。

開店休業 3

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「いらっしゃいませ」

ロングアイランドアイスティーを飲み、心なしか頭がふらふらしてきた志保が首をまわすと、ドアを開けた芽衣子がけげんそうな顔で店内を見回しているところだった。志保が手を振るといくぶんほっとしたようにカウンターに近づいてくる。夜遊びをするタイプではない芽衣子は、この手の店には来慣れていないらしく、ぎこちなく様子をうかがいながらスツールに座った。

 

「こんばんは。この人が噂の芽衣子さんすね。志保さんが言うとおり、めっちゃ美人すね」

日向の言葉を聞いて、志保はしまったと息をのみこんだ。合コンでもない限り、女はきれいだったり人目をひいたりする友達と一緒にいるのが案外好きだ。こんな魅力的な友達がいる自分ってけっこうすてきかも、と自己満足できる。いつもなら。

今日はしかし、芽衣子が隣に置くことすなわち、赤いあまおうの載ったふわふわショートケーキの隣に駄菓子屋の串カステラを置くようなものだ。どう考えても見劣りするに決まっている。

 

芽衣子が「いつもこのバカがお世話になっていて、すみません。あんた何飲んでるの?」と母親のようなことを言うので、さらにむくれていい加減に答える。

「ロングなんとかティー。うまい」

「それってけっこう強いカクテルじゃなかった?」

すると間髪いれず日向が答えた。

「いやあの、大丈夫......かどうかわからないけど、いちおう半分サイズにして間に水飲んでもらってます。芽衣子さんは何にします?」

ドリンクメニューを見たまま考えあぐねている芽衣子に、日向は「じゃあてきとうになんか作りますかね」と手を動かし始める。

 

たぶんメイ先輩が気に入るようなお酒を作るんだろうな、と心なしか苛立ってきたが、どうして苛立ってるのか自分の反応がよくわからない。

出されたグラスはほのかに琥珀色をしていて、口をつけた芽衣子が美味しそうに顔をほころばせた。やっぱりメイ先輩、かわいいな。あんなぐずぐず離婚しないでいる男となんか付き合わなくても、もっとふさわしい人がいそうなのに。

「ハーブ入りの酒がベースなんすよ。なんとなく疲れてそうだから薬草系の酒で気合入れときました」

ふさわしい人がこの金髪坊主頭だとはどう考えても思えないけれど、こいつはさりげなく気を利かせてメイ先輩にちょうどいいお酒を作っている。これが日向の仕事で、あたしみたいに仕事なんてお金もらえればいいやというスタンスではなく、ちゃんと責任やら何やらを抱えて挑んでいる。そんなところを見せられると、バカの森の住人だった日向が遠い平原に去っていくようで心細い。

いや、そうじゃなくて。心細いとかそういうことじゃなくて。この気持は......。

もしかして、恋、とか?

 

「そんなわけないっつーの!」

思いがけず大きな声で叫んでしまい、芽衣子と日向がぎょっとして志保を見つめる。

「だ、大丈夫っすか?」

「志保、あんた飲み過ぎなんじゃない?」

飲み過ぎなほど、まだ飲んではいない。志保は「ぜんぜん大丈夫。思い出しつっこみだから気にしないで」とにっこり微笑み、他の話題を探して気持を落ちつけようと、頭の中をぐるぐる回転させた。

そうだ、メイ先輩の不審なほど高揚した返信メール。話題と言ったらそれしかない。というか今日は最初からその理由を探ろうと思っていたのだった。

「絶対に断わられると思ってたのに今日はずいぶん付き合いよくない?なんかあったでしょ?」

「まあね」

「やっぱり、なんかあったんだ」

 

秘密主義の芽衣子は、たいてい触りの部分だけさらっと流し、詳しいことはあまり喋ってくれない。もったいぶっているわけではなくて、自分のことを話すが苦手なのだろう。たぶん今日も同じ。また「いろいろあったけど別に」とか「たいしたことじゃないから」とか捨てぜりふを残してシャッターを閉めてしまうに違いない。

芽衣子は膝に載せていたバッグを邪魔そうにもてあましていたが、日向に「隣に置いちゃっていいすよ」と言われて隣のスツールに移動させている。そうして座り直すと、こともなげに言った。

「望月君と別れた」

「まじで!」

のっけからストレートなネタばれ告白を投げらつけられて、志保がスツールから転げ落ちそうになりながら反射的にカウンター越しの日向を見ると、「いきなり佳境っぽい会話っすね。オレ聞いちゃってもいいんすか?」と少しあとずさった。芽衣子はグラスに口をつけながら、さもおかしそうにくくくと笑った。

「日向君、なんだか反応が志保に似てて笑える。聞いても別にいいですよ。付き合っていた人と別れたってだけで、たいした話じゃないし」

「つーかメイ先輩、それってたいした話じゃん。だってさ、やっぱり奥さんのところに帰ったとか......」そこまで言って慌てて両手で口をふさぐ。「......ごめん」

「志保ってこういうことにだけは本当に勘がいいんだよね」

 

芽衣子とイタリアンレストランで食事をした時から半月も経っていない。その間に何があったんだろう。恋人と別れたという割には、芽衣子はそれほど気落ちしているようにも見えない。かといって、ぐずぐず男と縁が切れてすっきりしたという様子にも見えない。悲しそうでもなく嬉しそうでもない。淡々としている芽衣子の表情からは、何も読み取れなかった。不自然なほど明るかったメールのほうが、よほど鬼気迫るものがあってわかりやすかった。

メイ先輩、もう心の中で片をつけちゃったのかな。

 

「というわけで、この話は終わり」

「は?終わりなの?まだ何も話してないのに?」

「もっと楽しい話しよう」

「楽しい話なんか、別に思いつかないし」

いちど芽衣子が下したシャッターを再び開けてもらうのは、いつだってなかなか難しい。

「たとえば、ふたりが通ってるお絵描き教室の話なんて楽しそうじゃない」

日向がぶはっと笑い「お絵描きって、幼稚園児すか」と言った。

「こういう......なんていうか前衛的な絵を描く教室なの?ごめん、私絵のことはよくわからなくて。志保は確かデッサンを描いてるって」

 

芽衣子はスツールをくるりと回して壁を向き、日向の描いた原色の動物達を不思議そうな顔で眺めている。どうやらシャッターを開ける気はなさそうだ。志保にはもう別れ話のことを聞き出す勇気がなかった。今話したくないのなら、いつか話せる時が来るまでそのままにしておいた方がいいとぼんやり思うものの、ロングなんとかティーのせいか、思考がうまくまとまらない。

 

「そうです。デッサン教室。オレやばいくらい下手なんで、いつも志保さんに教えてもらってます。けっこう鋭いアドバイスしてくれるんすよね。ていうかせっかく褒めてんのに、聞いてます?」

とつぜん話題を振られた志保は、驚いてとっさにちぐはぐな返事をしてしまった。

「は?ええとそうそう。なんせ後輩だし、こいつ絵の才能ぜんぜんねーし、オネエな先生にいろいろやられちゃってるし」

「いろいろって、もしかして日向君てゲイなの?」

芽衣子が真顔で問いかけると、日向は否定も肯定もせずにやにや笑いつつCD棚に向かって歩いた。

 

なに、そのリアクションは。

 

にやけたまま答えない日向の横顔を目で追いながら、志保の内臓は浮き上がった。まるで絶叫マシーンの最高部からごごごごと落下する瞬間みたいに。

開店休業 2

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「いらっしゃい。オダさん、今日はなんか疲れてないっすか?」

オダさんと呼ばれた男は、右手を上げ口をへの字にして何度かうなずいただけで、なにも喋らない。

日向は「なんにします?」と言いながら、カウンターにギネスとスーパードライの瓶を置く。

なんにしますって、もう酒出してるじゃん。そう思いながら志保が見つめていると、男は自分でグラスに茶色い液体と金色の液体を注ぎ「ベガーズバンケット」と小さな声でつぶやいた。日向は、ういっすと返しながらレコード棚の中から1枚をひきだし、ターンテーブルに載せた。

「あ、音楽のことか!」

志保が言うと、男はにやりと笑ってうなずいた。それきり喋らない。カウンターの中の日向も無理に話しかけようとせず、そそくさと志保の正面に戻ってきた。

 

「というわけで、辞めるっす」

そうだ、カルチャースクールの話をしていたのだった。

理由のわからない動揺がまた志保の胸に戻ってきた。というか、あのお客さんのことを放っておいてそんな話を続けていてもいいのだろうか。日向はいっこうに気にしていない様子でべらべらと喋り続けるので、志保も気にしないことにした。

「正直、オレには絵は無理っすね。いけるかと思ったのは錯覚。また余裕ができたらやってみるけど、しばらく仕事に専念っすね。絵もあの講座も面白かったんだけどな。講師のおじいちゃんもすげえ面白かったし」

「先生にはだいぶ気に入られてたじゃん。なんかあやしいことされなかった?」

そんな他愛のないつっこみじゃなくて、もっと言いたいことがあるような気がするのに。どうして辞めんのよ、とか?でも理由は今聞いたばかりだ。せっかく気が合いそうな受講生が入ったのに残念、とか?それも少し違うように思える。

 

「うはは。あやしいことなんかされないっすよ。だいたいあの人ゲイじゃないっすよ。オレ聞いたんだけど......」

「聞いたって、先生に直接?」

「そう。ゲイですかって。そしたら、違うわよー女の人が好きですよーみんないろいろ噂しているけれどもそれも楽しいじゃない、って言ってたし。あの人なんでも楽しいんすよね。うらやましいよね、ああいう人生。オレ知らなかったんだけど、けっこう有名な画家なんすよね?兄貴に講座のことを話したら、その人はいろんな本の装丁画を描いてるって。オレ小説とかあんまり読まないからな」

あの先生に核心を突く質問をしたとは。今まで誰も触れなかったのに、しかも回答を引き出すとは。怖いもの知らずだ。

それはまあいいとして、あたしはいったい今、何を言いたいと思っているんだろう。とりあえず思いついたことを口にしてみる。

「お兄さんがいるんだ。いくつ違い?」

言いたいのはそんなことじゃないはずだ。

瞳をぐるりと天井に向けて考えると、糸で縫ったまぶたが少しひきつれた。

 

するとカウンターの端で音楽に合わせ足首をかたかた動かせていた男がいきなり「10才年上」と言った。思考を遮られた志保が眉をひそめてとっさに横を向くと、男は「日向君のお兄さんはハルヤ君という名前でここのオーナー。他に西荻と吉祥寺に店持ってる。ちなみに親父は池袋で焼き鳥屋」と付け加えた。

なんなんだ、このおっさんは。

「さすがオダさん。オープンからこの店の常連ですもんね。オレらのことはなんでも知ってるんすよ、オダさんは」

日向が屈託なく笑うと、男は満足げにうなずいて琥珀色のグラスに口をつけた。志保は少し戸惑った微笑みを浮かべ「常連なんですか」と言ったが、男の反応はなかった。

 

「つーわけで、今のオダさんの説明どおり、オレは兄貴に雇われてるんす。親父の店も兄貴の店もそこそこ繁盛してて、まあオレは見習いってことでここを任されてる。ここはあんまり立地が良くないから、見習いが格闘するにはちょうどいいんでしょうね。売上伸ばせるか伸ばせないか、家族とはいえ結構シビアで」

「伸ばせなかったらどうなるわけ?」

「うーん......解雇っすね。負債抱えたら自力で返せ、面倒は見ねえと言われてるし」

まじで?

日向とカウンターの奥の男を交互に見ると、男は渋い顔をしてうんうんとうなずいた。

ただの"ゆとり"だと思っていたのに、案外厳しいところで生きてるんだ。もちろんただの"ゆとり"ではなさそうなことくらい、意外と律儀なところや人へのこなれた接し方を見ていて、ずいぶん前に気づいていたけれど、志保はあえてただの"ゆとり"扱いをしてきた。

 

ふいに店内に流れていた音が切れ、男が立ちあがる。レコードのB面が終わったのだ。日向は途中でターンテーブルの上のレコードをひっくりかえしていた。薄くて黒い板の両端を手のひらではさんで、くるっと手際よく回転させていた。CDしか扱ったことのない志保は、日向を手つきをじっと見た。今まで見たことない日向の動作が新鮮だった。

 

「オダさんお帰りですか。いつもありがとね」

男はうなずきながら1000円札を2枚カウンターに置いて出口に向かったが、ドアを半分ほど開けたところで突然振り返る。志保を見ている。ほんとになんなのよ、このおっさん。

「あなた、日向君の彼女かなにか?」

鋭い目線に射ぬかれ、志保は愛想笑いもできずに両手を顔の前で振り、必要以上の完全否定をした。

「ち、違いますよ!ただの友達!友達だよね、日向?」

男は表情を変えずに、ああそうと満足そうに言い残して店を出て行った。

 

日向はうははは、と笑いながら棚から別のCDを取り出してセットした。こんどは志保がクラブで聴いたことのあるエレクトロだったおかげで、酸素を得たように呼吸が楽になった。

「オダさん、変わってるでしょ。でもいい人なんすよ。息子が5才で亡くなったんだって。生きてりゃオレと同い年だって、オレのこと息子くらいに思ってんの。しかも奥さんにロックの古いレコードみんな捨てられちゃったそうで、会社帰りにここに聴きにくるわけっすよ。で、酒そんなに飲めないくせにギネスとスーパードライのハーフにして、ほとんど飲まないで2000円置いてくの。ほんとは1500円なのに」

「いつもあんななの?喋らなかったのは、あたしがいたから?」

「いや、いつもあんなっすよ。喋るの嫌いみたいだし、手酌させないと怒るし。家とか会社でどんなふうに過ごしてるか知らないけど、せっかくこういう場所に来たんだから、こういう時くらいは好きにさせてあげたいじゃん?」

 

そう言いながら日向はオダさんの飲み残しを片づけ、洗い物をしている。志保から少し離れたカウンター越しのシンクに向かっている金髪坊主頭を見ながら、むがかゆいような気持になった。

何度かふざけて頭をぐりぐり触ったことがあるけれど、もう気軽に触ってはいけないような気がする。

聡史の結婚式の二次会でせしめた28500円の一部を、あのエピソードをつまみに飲もうと思っていた自分が、とても小さい人間のように思える。

後を向いて壁画を見ると、最初は笑ってしまったヘソ付きのカエルも独創性豊かなものに思えてくる。滅入る。おいしかったモヒートもなくなった。

次、頼もう。メニューを見ると、酒をあまり飲まない志保にとっては何が入っているのかわからないカクテルがずらっと並んでいた。

 

「日向が勘当されないように売上に貢献するからさ。次、これにする。ロングなんとか」

指をさした箇所をカウンター越しにのぞきこんだ日向は、首を横に振った。

「これはやめた方がいいっすよ。名前はティーでもティーじゃなくて酒をばかばか入れた酒ミックスだから」

「いいから作れ」

「ていうか違うのにしません?」

「違うのじゃなくてこれがいいの。解雇されないように貢献するんだから、ちゃんとリクエストに答えろっての。そうそう、もうすぐ友達が来るから。その人、高校の先輩なんだけどいくら飲んでもぜんぜん酔っ払わないの。しかもあたしより金持ち。しかも超美人。がっつり飲ませて今日の売上稼いどきなよ」

「いや、そこまで経営状態悪くないんで......」

 

苦笑いをする日向を尻目に、志保は「早く来い」とメールを打った。
待ち合わせをしているのは芽衣子だ。普段なら絶対に断るはずの芽衣子が、今日に限ってはすんなりと誘いに乗ってくれた。仕事が早番で明日が休みだからというのが理由らしいけれど、これほどごねずに付き合ってくれるとは思っていなかったのでいくらか拍子抜けした。
そして、なにかがおかしいと思った。普段は腹が立つほどローテンションの芽衣子の返信メールが、今回は妙に高揚していた。
こういう時ばかり勘の働く志保は、きっと望月さんがらみでなにかあったのだろうと踏んだ。

開店休業 1

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P1000248.effected_m.jpg 「いらっしゃいま......」

「うわっ!なにこの壁画?」

店に入るなり志保は言った。

照明の落とされた店の中で、壁に殴り描かれた色とりどりの原色は、子供の頃に見た海水浴場のビーチパラソル群を思い出させた。原色で描かれているのは、動物や人間や虫だ。中には何やらよくわからない海の生き物のようなものもいる。

カウンターの中で酒瓶の整理をしていた景山日向は、営業用の声で「いらっしゃいま......」と言いかけ「なんだ、志保さんか」と笑った。金髪坊主頭で、腕を動かすたびにTシャツの袖口からトライバルデザインのタトゥーがちらちらのぞく。見た目はいかつめなのに妙に腰が低くて調子が狂う。

 

「なんだ、って失礼だな。ていうかこれ日向が描いたの?ていうかこれカエルのつもり?なんでカエルにヘソがあんのよ。卵で生まれることくらい、あたしでも知ってるっつーの」

「ああそれね、他のお客さんにもよくつっこまれる。おれバカだから生き物とかよく知らないんす。それはカエルビトという新しい生き物ってことで、どうすかね」

へらへらと笑う日向に絶句しながら、志保はカウンターのスツールに座った。冷房の効いた店内はひんやりとして心地がいい。ちょうどよく体に響く音量で、志保の知らない錆びついたような古いロックが流れている。56人座れるカウンターの他に4人がけのテーブルが2つあるが、客は志保の他にひとりもいなかった。木曜日のまだ午後6時を少し過ぎたばかりだし、きっと時間が早いせいでこんなに閑散としているんだろうと考えているところへ、まだ注文もしていないのになにやら涼しげな飲み物が出てきた。

「なにこれ?」

「モヒート。今日は暑いからさ、ちょうどいいんじゃないかと。志保さん酒弱いみたいだからラムは気持ち薄めにしといたっす」

ライムを絞って飲んでみると、甘さとミントの味が口に広がった。

「うまい!」

「ですよね」

ふうん、気が利くじゃん。と言いかけたけれど、褒めるのもなんだか悔しいので慌ててひっこめた。その代わりに「まさかこれ1杯で3000円とかふっかけないだろうな」と言うと、日向は「それいいっすね。そうすっかな」と笑いながら、CDとレコードがずらりと並んでいる棚を物色し始めた。

 

志保が通うカルチャースクールの絵画教室に前回の講座から入った日向は、見た目のワイルドさから最初こそ他の受講者をぎょっとさせたが、すぐに人気者になった。特に講師をしている、ちょっとオネエっ気のある老人画家は日向をものすごく気に入った様子で、超初心者の日向に貼りついてあれやこれや指導をしていた。最初の受講時、教室を見まわしていた日向がイーゼルを立てたのがたまたま志保の隣だったため、それ以来なんとなく話をするようになり友達になった。志保より5つ年下で、どうやら小さいバーを持っていることを知った。

「持ってるって、経営者ってこと?」

「いや......経営者っていうか雇われ店長。こんど来てくださいよ。食いもんはあんまりないけど、酒はけっこう気合入れて作ってるんで。あと、壁画もあるし」

「壁画?」

「店の内装やった時に雇い主が、お前なんかてきとうに描いとけよって言うんで、まじてきとうに描いたんすよ。それがけっこう出来が良くて。オレもしかして絵の才能あるんじゃね?と勘違いして、今ここにいるんですよ。ま、勘違いだったってのがやっとわかった。絵、やばい。かなり難しい。逆にかなり面白いすけど」

 

そりゃ難しいに決まってるよ、と志保は思った。ここは中級者向けの『パステルで描く人物デッサン講座』だ。入門者向けの鉛筆だけで描く静物デッサンだって、志保は自分の下手さにへこみながら続けていたのに、いきなりカラーで人物を描くなんて無謀にもほどがある。隣に立てられたスケッチブックを横目でのぞくと、志保が初めて描いたものよりもひどい絵が見えて、ありゃーと思ったが、日向本人は何食わぬ顔で白い紙と格闘している。きっとすぐに辞めるだろうという志保の予想に反して、日向は「店終わって、寝たの朝9時。眠いっす」などと寝起きの顔で言いながら、隔週日曜午後1時からの講座に遅刻もせずやってくるのだった。

 

そもそも志保が絵画教室に初めて通ったのは4年ほど前だ。それ以来、3か月か半年で終わる講座をお金がある時だけ断続的に、でも4年間通った。きっかけは元彼の聡史の説教だった。

「服とかお菓子とか、そんなムダ金ばっかり使ってないで、少しは役に立つことをしろよ。習い事でもやればいいだろ」

聡史の説教は愛情表現だと信じていた志保は、なるほどと簡単に納得し、さっそく情報誌で習い事を探し始めた。マンガを読むのが好きだし絵だったら描けるかもしれない、デッサン入門だったら鉛筆とスケッチブックだけ買えばいいからお金もかからない。

そんな単純なきっかけでカルチャースクールに申し込んだものの、しばらくは他の受講生達のうまさに圧倒され、がっくり気落ちしてばかりだった。しかし志保は他人の持っている"うらやましい"ところをこっそり真似するのが得意だ。あの髪型いいな、あの服かわいいなと常に真似をして、挙句にはプチ整形までしてしまった脈絡のない努力が、この場合は良い方向に発揮されたのだ。

他の絵を見ながら「とりあえず影のできる場所に注目ってわけ?」だの「明るく描きたいところはあのくらいがっつり消しゴムで消して真っ白にしちゃってもいいとか?」だの試行錯誤しているうちに、ある日思いがけず講師に褒められた。

「木崎さんは成長著しいですね。勘がいいのかな、ちゃんとポイントをつかんでますよ」

 

そのひとことで俄然やる気が増し、次年に受講したのが中級者向けの『パステルで描く人物デッサン講座』だった。初日にもう辞めようと思った。それほど他の受講者との差が大きかったのだ。辞めなかったのは、講師のちょっとオネエっ気のある老人画家が面白かったのと、そんな講師についている受講者がみんな個性的で、思いのほか居心地が良かったからだ。

日向もその居心地の良さのおかげで、実力以上の教室にもかかわらず通い続けているようだ。最近では絵の方もだんだん上達してきている。もし今この店の壁画を描いていたとしたらもっと上手にできただろうに、と志保は少し上から目線で考えた。

「次の講座も申し込むんでしょ」

「いや。今回でもう辞めますよ」

突然あっさりとした答えが返ってきて、志保は面食らった。グラスを持つ手が止まり、何か言おうとしたが思いつかない。動揺している理由がわからない。

 

その時、ドアが開いてスーツ姿で五十がらみの、痩せてくたびれた男が入ってきた。男は志保を見て、先客がいたのかと言いたげに少し立ち止まり、無言でカウンターの一番奥に座った。

 

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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