2009年12月アーカイブ

芽衣子は漂流中 4

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それから2年ほど経ったけれど、まだ雅人は正式に離婚していない。別れた時に1才になっていなかった娘の未央はもう4才になり、芽衣子が出勤をする土曜日か日曜日に約束をして、雅人は娘に月に一度は必ず会っている。

 

以前は「明日は未央に会う」と悪びれもせず口にしていたが、ある日芽衣子は堪え切れずにキレた。

「なんでいちいち私に言うの?ひとりでこっそり行けばいいじゃない。子供の話なんて聞きたくないことくらい気づいてよ。どうしてそんな無神経なわけ?」

雅人は驚いた顔をして一瞬動かなくなった。芽衣子が怒るとは想像もしていなかったようだ。

それ以来、未央のことは、芽衣子が話しださない限り話さなくなった。

 

こんなこともあった。芽衣子の家で一緒に夕食を食べ終え、雅人がテレビを見ている時に、芽衣子の家の電話が鳴った。見知らぬ携帯番号からの着信だったけれど、何か緊急の用事かもしれないと思い、電話に出た。電話の向こうで、少し高めの女の声が丁寧に言う。

「もしもし。望月と申しますが、そちらに望月はおりますでしょうか」

 

芽衣子は頭の中が真っ白になった。妻に違いない。とっさに思ったものの、動揺しすぎて逆に「はい、います」と普通に答えてしまった。コードレスの電話機を雅人に渡す。雅人はメガネの奥の目を丸くして電話機を取ると、テレビの前に座ったまま話し始めた。芽衣子は気まずくなって立ち上がり、狭いキッチンスペースへ逃げる。

雅人は何食わぬ顔で会話を続けている。もしもし、なによ、携帯そういや充電切れてるわ、忘れてた、でなに、未央の、うん、うん、明日は残業確実だから、はいはい、わかりました。

 

......なんかおかしくない?どうして私が気まずくならなきゃいけないの?いや、絶対におかしい!

 

雅人ののんきな声を聞いているうちに、芽衣子は我に返り、怒りと屈辱の入り混じった思いがあふれてきた。こんなに自分が怒るのは久しぶりだ、と冷静に考えた。それでも簡単に泣く女ではないから、涙は流さない。その代り、食器用のスポンジをつかみ、怒りを込めてシンクと排水溝を磨き始める。このスポンジは食器用だったのに、と思いながら。

 

雅人の電話が終わり、芽衣子は泡だらけの手を水で流し、てきとうにタオルで拭く。

「......どうして奥さんが私の家の番号、知ってるの」

雅人は驚いた顔をして一瞬動かなくなった。こういう雅人の顔は、何度か見ている。芽衣子が怒るとは想像もしていなかった時の顔だ。

「どうしてって、俺が教えたから。夜は芽衣子の家にいるから緊急用の連絡先ってことで」

雅人にはそういうところがあった。あけすけすぎて、腹が立つ。嘘がなさすぎて、逆にすべてが嘘ではないかと疑ってしまう。

「えー!教えちゃまずかった?」

「......最低。ほんと信じられない。まずいに決まってるでしょ。だいたい電話番号って個人情報じゃない......帰ってよ。今すぐ帰れ!自分の家に!」

 

芽衣子は部屋着のスウェットを着たままの雅人をむりやり立たせ、玄関に押しやり、ドアを開け、靴とバッグと一緒に外へ放り出した。鍵を閉める。

ドアのレンズから外を見ると、左利きの雅人は左手にバッグを持ち、不器用な訪問セールスマンのように通路をうろうろしていた。どうせ歩いて20分もかからないところに持ち家があるんだし、秋口で外は寒くもないんだし、さっさと帰ればいいんだ。芽衣子はドアに背を向けた。

 

15分ほど経った頃、さすがにもういないだろうとレンズをのぞくと、雅人は腕を組んで背中を丸め、真面目くさった顔でまだ立っている。合鍵を持っているのに、ただ突っ立てるなんてバカじゃないの。そんな顔して立っていれば許してもらえるとでも思ってるの。悔しいけれど、その通りよ。たぶんあと数秒で、私は許してしまう。

芽衣子はドアを開けた。

 

「ごめん」といきなり雅人は頭を下げる。

「俺、ほんとに、普通は、普通の人だとどうすべきなのかわかるところが、俺にはよくわかんないことがあるんだ。ほんとごめん」

謝ればなんでも済むと思ったら大間違いよと怒鳴ってやりたいと思うものの、芽衣子の怒りはたいてい持続しない。悔しいけれど、負けてしまうのはいつも芽衣子の方だった

 

芽衣子はしかめっ面のまま、雅人を部屋に入れた。

「アイス、食べる?サーティーワンの日だったからトリプルをカップで買ったんだけど」

雅人は安心したように少し笑った。

「食べる。何味?」

「ナッツトゥーユーとストロベリーチーズケーキとオレオクッキーアンドクリーム」

3つともうまそう」

芽衣子は冷凍庫からアイスクリームのトリプルカップを取りだした。芽衣子の横に雅人はぴったりとはりつき、サーティーワンのピンク色のスプーンを握りしめている。雅人はカップの一番上に乗っているオレオのアイスをすくい、芽衣子に食べさせた。

「おいしい?」

「おいしい」

「そっか。ほんとごめん」

「いいよ、もう」

「芽衣子は優しいな」

「別に優しくないよ」

優しいんじゃなくて、ただ小心者なだけよ。そう心の中で思った。

 

今まで付き合った男の中で、芽衣子がこれほど頻繁にキレている相手はいない。今までの芽衣子は、もっと相手の様子をうかがって、もっと期待を裏切らないようにと努力して、もっとがちがちに気を遣っていた。そういう努力が雅人に通用しないということを、はじめの数ヶ月で心得た。雅人は低反発マットみたいなもので、押さなければへこまないし、押した形はいつまでも残っている。つまり、言わなければわからないし、言えばわかってくれる。芽衣子を怒らせることも、そして笑わせることも、雅人は天才的にうまいのだ。

 

ふたりでいる時は、芽衣子はぬくぬくと幸せだった。それでもやはり、正式に離婚をしていない男と付き合っていることを、友達や同僚には知られなくはない。もちろん志保やいずみにも秘密にしていた。特にいずみには知られなくなかった。

そのいずみに、雅人と一緒にいる時に偶然出くわしてしまったのだ。志保が整形して目を腫らしていた1か月ほどあとのこと。明治神宮前の歩道を歩いていた時だ。

芽衣子は漂流中 3

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雅人に初めて会ったのは、年下のいとこの結婚式だった。

いとこと言っても、子供のころ遊んだ以来つきあいはなかったので、披露宴まで出て帰るつもりだったのに、きょうだい3人揃って2次会に誘われてしまった。新郎新婦の友達が中心の2次会だから、3人とも乗り気ではなかったけれど、いとこの強力なオファーを断り切れなかった。

 

2次会は、渋谷のダイニングバーが会場で、予想通り新郎新婦の友人ばかりが集まっていた。ゲームに参加する以外特にやることもないし、披露宴でたっぷり料理を食べたからおなかもすいていない。芽衣子たちは店の隅のソファに座り、誰かに話しかけられれば愛想よく微笑み、そうでない時間はきょうだいでおとなしく、2次会の様子を眺めていた。

見た目の華やかさに反して、このきょうだいは揃って控えめでおとなしいのだ。

 

司会の男はどうやら新郎側の友達らしかった。

「ではここで、本日の王たる新郎が最も酒を酌み交わしたい相手を指名していただきましょう!」

マイクを向けられた新郎が腕組みをして「そりゃ、望月さんしかないでしょう」と言うと、新郎側の友人たちがにわかに盛り上がった。

やかましい音楽と拍手に迎えられたのは、黒フレームのメガネをかけた細長い男で、はしゃぐわけでもなく真面目な顔をし、かといって不機嫌なわけでもなく飄々としていて、そのあともやたらと酒を飲まされていた。

お笑い芸人とかミュージシャンでこういう感じの人いるな、と芽衣子は思った。

 

さして面白くもない2次会が終わり、弟と妹とは別れた。芽衣子は乗り換えの明大前駅で、引き出物用のカタログブックとドラジェの入った紙袋を持ち、電車を待つ。土曜日の夜。電車は混んでいるだろうと考えると、憂鬱になる。

あくびをかみ殺す。明日のシフトを遅番にしておいてよかった。深呼吸をして、首をぐるりと回す。そして右へ首を回した瞬間、右隣にいた男と目が合った。

 

黒フレームのメガネをかけた男は、斜め上から"小さく前ならえ"のように右手で芽衣子を指差す。

「あ、やっぱり。新婦のいとこの方ですよね。これ持ってたからわかった」

メガネの男は真面目くさった顔で、引き出物の紙袋を目の前にかざし、ゆらゆら揺らす。

引き出物を持っているということは、男が披露宴にも来ていたことだ。まったく気付かなかった。

 

芽衣子は営業用のスマイルを作り「ええ」と答えたところで、電車が来た。各駅停車に乗るつもりはなかったけれど、メガネ男につられて同じドアから乗る。

電車は思ったほど混んでいないおかげで、メガネ男とは気まずくない程度のスペースを取ることができた。メガネ男は意外にも香水の香りがした。芽衣子の嫌いな香りではなかった。

 

「荷物、上に載せます?」

引き出物の紙袋のことを言っているのだと芽衣子が気づいた時にはもう、メガネ男は芽衣子の荷物を奪い取って網棚に置いていた。

「すみません。ありがとうございます」

どちらかといえば人見知りの芽衣子は、会話の"間"が怖くてつい話しかけてしまう。

「どちらで降りるんですか?」

「調布です」

「そうなんですか。私も調布です」

「そういえば、ごきょうだいは一緒じゃないんですね」

「ええまあ。妹はまだ実家で暮らしていますし、弟は結婚して横浜に住んでいるので」

「えー!あの弟さん結婚してるの!なんか、ライダーとかレンジャーに出てくる俳優みたいな感じだったけど」

「子供もいますよ。ふたり」

メガネ男はしきりに驚き、「一緒に2次会に来ていた会社の女子たちには、脈はないと伝えておきます」とひとりでうなずく。そして思い出したように名刺入れから名刺を取り出し、むりやり芽衣子に渡す。メガネ男は、新郎と同じ会社に所属していた。望月雅人という名前。

 

「ものすごく、左右対称ですね」

「え?」

左右対称?雅人が何を言っているのか、芽衣子にはさっぱりわからなかった。

「顔が左右対称ですね。ヒトの顔なんて、たいてアシンメトリーなものだけど、今まで僕が見た中じゃ最も左右対称です」

「はあ......」

 

褒められているのか馬鹿にされているのかわからないけれど、少なくとも悪意はないらしいことはわかる。わざとおかしなことを口にして芽衣子の気引いているような様子もない。きっと、素で変な人なのだろう。そう思うとふわりと気が抜けて、ラクになった。

 

ふと目を落とすと、雅人の左薬指に指輪があるのが見えた。

なんだ、妻帯者だから余裕があるのか。新郎の様子からすると、メガネ男は新郎の先輩で、確か新郎は私と同じ年と聞いているから、メガネ男はいずみちゃんくらいの年齢かもしれない。そういえば、どうしてあんなに酒を飲まされていたんだろう。

「ああ、あれね。僕、反面教師の教師役に抜擢されたらしく、生徒が飲むときは僕も一緒に飲むのが、ここんとこ仲間うちでのブーム」

「え?」

さっぱりわからない。やはりおかしな人だ。

「僕、奥さんに逃げられたんですよ。子供連れて実家に帰って、1年も戻ってこないの。だから、生徒達は僕の姿を見て、僕のような人間にはなるまいと日々精進するんだそうです。なんだよなあ、それ。意味がわかんないねえ。おかげさまでかなりな勢いの酔っ払いですよ」

雅人が淡々と話すので、芽衣子は不謹慎とは思いつつ笑ってしまった。

 

「そんな酔っ払いには見えませんけど」

「そうですか。実はもう、かなり酔っ払ってます。かなり、やばいです」

「やばいって、大丈夫ですか?」

「いや、やばいです。吐きそう。ここで降ります!」

 

電車のドアが開くと、雅人は青白い顔をして人をかきわけ、ホームへ出ていく。調布よりまだひと駅手前だ。

「あの、荷物忘れてます!」

芽衣子は網棚に置き去りにされた荷物に気づき、それを背伸びしてふたりぶんつかみ、あわてて雅人を追う。雅人は3段飛ばしでホームの階段を駆け上がり、あっという間に姿を消した。

 

どうしよう。芽衣子はふたりぶんの引き出物をかかえたまま、階段の下から上を見上げた。私、なにやってんだろう。メガネ男はそのまま改札を出て戻ってこないかもしれないのに。

下車した人々はもうとっくに階段をのぼりきり、見上げても誰もいない。上なんか見上げても寂しくなるだけだ。

 

芽衣子だったらもっと上を目指せるんじゃないの、とひとに言われてきた。

芽衣子の整った容姿を見て、他人は勝手に芽衣子の人となりを想像するらしい。性格はきっと高圧的でわがままだろうとか、男に相当貢がせているに違いないとか。

しかし実際の芽衣子はどこにでもいる普通の、むしろ真面目で小心者の女だ。仕事が見つからない人もいる不景気な中で、仕事があるだけ幸せだから頑張ろうと思うような女だった。

想像上の芽衣子と実際の芽衣子が違うことを知り、よく思ってくれる人もいる。でも皮肉まじりのひとことを言う人がいるのも事実だった。たとえば、意外と自己主張しないんだね、けっこう庶民的なのね、などなど。挙句には「美人だから自然体でいればいいとでも思ってるんでしょ」と。

 

自然体でいることなんてほとんどないのに、と芽衣子は思う。ひとりの時や、会話の間も気にならないごく親しい人と一緒の時ならリラックスしているけれど、そんな時間はめったに訪れない。職場でのテンションは半分演技だし......だいたい自然体という言葉自体が不自然に感じる。本当の自然体なんて、せいぜい爆睡して意識を失っている時くらいだ。

 

ホームで階段を見上げながらあれこれ考えているうちに次の各駅停車が来て、でも芽衣子はそれを見送った。

私、なにやってんだろう、なにやってるのかなあ。

心細くて、さほど大きくないこの駅のホームが、果てしなく広くて暗い場所のように思えた。まるで真っ暗な大海原の上を、小さなボートで漂流しているみたいだ。

その時、階段の上からすっとんきょうな声が聞こえた。

「あーっ!すみません!降りちゃったんですか!荷物、荷物置いてきたからか!ごめんなさい!」

すっかり顔色の良くなった雅人が、たたんたたん、と小気味よく階段を駆け下りてくる。

戻ってきてよかった、と頬が緩んだ。

暗闇の中で、芽衣子は救助船の明かりを見つけた。

芽衣子は漂流中 2

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雅人には妻と子供がいた。今でも、いる。

妻は子供を連れて実家へ帰り、30年ローンで買ったマンションで雅人はひとりで暮らしている。芽衣子はその家に行くことはなかった。行きたくないわけではなく、来てもいいと言われないから、行かない。来るのはいつも雅人のほうだ。あのメガネやスーツは妻の見立てなのかもしれない、とも思うけれど、直接きいて確かめたことはなかった。芽衣子が知っていることと言えば、雅人が毎月一定の金額を妻の口座に振り込んでいることや、定期的に子供と会っていること、子供は未央という名前の女の子で、4才だということ。

 

努力をして手に入れられるものがあるのなら、努力をすべきだ。運が無理なら、実力を身につければいい。

仕事においてはそう思えるのに、ひとりの人間を手に入れるための努力というものが、芽衣子にはわからなかった。そもそも、望月雅人という人間を手に入れている状態なのか、そうではないのかがわからない。

 

付き合い始めたころ、酔った雅人はこう言った。

「奥さんが実家から戻ってこなくなって半年くらいは頭の中混乱してたけど、もう修復不可能なくらい気持が離れちゃったんだ。奥さんはもう俺を必要としていなくて、俺はもう彼女を必要としていなくて、必要なのは芽衣子。信じてもえないかもしれないけどさ。ていうか、どう聞いても嘘っぽいか」

雅人はボトルで注文した焼酎を梅干し入りのお湯割りで飲みながら、首をすくめて自虐的に笑った。駅前の居酒屋だった。薄い壁で仕切られた隣のスペースからは、酔った男女の笑い声が響いている。芽衣子は酒ならいくらでも飲める体質なので、焼酎をボトルで注文しても、たいていそのうちの半分以上は芽衣子が飲んでしまう。そして潰れるのはいつも雅人の方だった。

 

「私、なんでこんな人と一緒にいるのかな......」

「え?今なんて言った?」

「なんでこんな人と一緒にいるのかな、って言ったの」

雅人は嬉しそうに芽衣子のぶんのお湯割りを作る。新しく入れた梅干しを5回だけマドラーでつつき、はい、と芽衣子に渡した。梅干しは5回くらいつつくくらいでいいと以前言ったので、雅人はそれを忠実に守っている。

 

「好きだからでしょ?」

「はあ?」

「だから、芽衣子は俺のこと好きだし、俺は芽衣子のこと好きだからでしょ?」

「なにそれ」

雅人は酔っていなくても、こういうことを屈託なく、いとも簡単に言葉にする。好きなら好きと言い、面白くなければ面白くないと言い、だからわかりやすくて芽衣子は力が抜けてしまう。居心地がよくて、安心してしまう。でも時には、そのわかりやすさにいらついてしまうのだった。その時の芽衣子はいらいらしたので不機嫌な顔でにらむと、雅人は無邪気に笑った。

 

「正直な話、未央のことはまだ大切だしこれからもずっと大切だと思う。奥さんは未央を絶対に手放さないし、だからもうなかなか会える機会がないのが、かなり寂しくてさ。まあ、未央が俺のことを、これからどう思っていくのかはわからないけど。子供を捨てたひどい父親ってことで、やっぱり恨まれるのかね。それ、かなり嫌だな。うわ、嫌だ」

 

だったら離婚しなければいいのに。言いたかったけれど、言わなかった。言えなかった。

どうしてさっさと離婚しないの。これも言わないし、言えない。

 

言えないのは、怖いからだ。

 

雅人の言葉がまったくの嘘で、いいように振り回された挙句に捨てられたら、怖い。うるさいことを言う女だと思われて雅人が去ってしまったら、怖い。怖いのはそれだけではない。私は振り回されたりうるさく追いかけたりするような、みっともない女ではないと思ってきた。それなのに、本当はそういう女だとしたら、とても怖い。結局怖いのは、どうしようもない嫉妬や敗北感にさいなまれている情けない自分を見ることなのだ。それって、単に自分がかわいいだけじゃない。ききたいこともきかず、知りたいのに知ろうとせず、私は自分を守っているだけ。なんて自意識過剰なんだろう。

 

「あー、もう俺ダメ。飲みすぎ。眠い。ていうか芽衣子って、酒、強すぎ」

「雅人君が弱すぎなのよ」

「ダメだ。おんぶして帰って」

「無理」

「だよな。芽衣子はちっちゃいもんな」

 

雅人は黒フレームのメガネの奥にあるぎょろついた目を細めて笑い、芽衣子の頭をなで、髪をくしゃくしゃにした。芽衣子はよけるように少しうつむいたけれど、くしゃくしゃにされるままにしておいた。そうされていると心地よい。大事にされているような感じがする。

大事にされているなんて、ただの錯覚かもしれないのに。芽衣子はほんの一瞬だけ思ったが、心の中の重たいかたまりは、心地よさの海の中にぶくぶく沈んで消えてしまうのだった。

芽衣子は漂流中 1

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「こちら、新しいスキンケアラインのサンプルです。ぜひお使いになってくださいね」

 

軽めのメイクを終えた20代後半の客は、結局何も買わず、サンプルだけ嬉しそうにもらっていった。サンプル狙いだな、とは最初からわかっていた。いろいろな店で手に入れたサンプルばかり使っていそうな、定まりのない肌をしていたからだ。

 

芽衣子は営業用の微笑みで客を見送りながら、ふと志保のことを思い出した。もっと整形のこと、ポジティブに言ってあげればよかったかな。いくら志保だって、それなりの決心をして挑んだはずなんだから。

志保のことを考えたのは一瞬だった。次々と客の訪れるここのカウンターは忙しい。芽衣子は背筋を伸ばし、コスメ売り場独特の香りを体に取り込む。このむせかえるような香りの渦が、いつも力づけてくれる。

 

店長が変わってから、以前に増してノルマが厳しくなった。この百貨店でのカウンター勤務がスタッフの中でもいちばん長い芽衣子は、実質上、店長補佐という役割になった。

 

せっかくビューティーアドバイザーになるのなら、ドラッグストアじゃなくて百貨店で働きたい。芽衣子はヘアメイクの専門学校を出ると、社員契約の可能性のある化粧品メーカーの契約社員になり、3年前にやっと正社員に採用された。同期で卒業した友達には、すんなりと正社員採用された人もいたけれど、芽衣子は内定を取れなかった。

 

頑張ったつもりなのに。

 

頑張ってもダメだということは、自分に足りないところがあるということ。それが実力なのか運なのか、それ以外の何かなのか、自分ではわからない。友達にきいてみても「運が悪いだけだよ」くらいの遠慮がちな答えしか返ってこない。だから、努力して手に入れられるものだけでも手に入れよう、と思うのだった。努力で運が手に入らないのなら、せめて実力を得たい。芽衣子はそういう、努力好きで生真面目な人間だ。

でも、芽衣子のことをよく知らない他人は、そう思わないらしい。それは、芽衣子が生まれつき標準以上の容姿を持っているからだ。中学生のころはよく、上級生の女子に嫌がらせをされた。チャラついてんじゃねーよ。どうせ援交とかしてんだろ。モデル狙ってるとか。つーかオーラないから無理っしょ。あはははは。

 

私は何もしていないのに、どうして敵意の対象になるのだろう。芽衣子は悲しかった。自分の容姿が敵意の原因なら、もっと上の人たちがいそうな場所にいけば安心できるかもしれない。芸能人やモデルになる才能はないけれど、そういう仕事以外でも、きれいでいることが当たり前の場所はたくさんあるはずだ。たとえばヘアメイクの世界。

 

芽衣子よりも頭ひとつぶん背の高い新店長は、最初のミーティングで言った。

「立地にそぐわない売上です。ここはまだ伸ばせます。伸ばすつもりですから、努力してください」

彼女は笑顔を浮かべてスタッフの顔をひととおり眺めたあと、芽衣子にだけは厳しい顔を向けた。敵意なのか激励なのか。判断がつかない時は思考を保留にして、しばらく様子を見る。ものごとには、すぐに判断していいことと、そうでないことがある。それに、自分の努力次第で、敵意も激励に変えることができるかもしれない。

芽衣子は店長の厳しい視線に「どうぞよろしくお願いします」と答え、きっちり正しく微笑み、頭を下げた。店長も正しく微笑み、小柄な芽衣子を見下ろして「よろしくね」と答えた。

 

BAは、華やかだけれど、気力と体力がないともたない仕事でもある。土日や祝日も働くし、お客様を満足させなければならないし、いつでも完璧にきれいでいなければならないし、ノルマも達成しなければならない。

「芽衣子の仕事はたいへんだね」

と雅人は言う。

「そうでもないよ。医者とか看護婦とか介護士なんか、もっとたいへんだと思う。雅人君の仕事だって」

 

雅人君。

会ったころは、"望月さん"と呼んでいた。黒フレームのメガネをかけた望月雅人は、食品メーカーの開発室に勤務している。新商品を作る仕事、と本人は言っている。どうやら体に良くて美味しいものを作ろうと、日々研究しているらしい。芽衣子が持ち帰る化粧品も、成分表示をいちいち「へー」だとか「ふーん」だとか面白そうに眺め、でもそれ以上のことは言わない。本人が話さないことは、芽衣子もきかない。それが芽衣子の中になんとなく作り上げられたルールだった。

ふたりの楽しい「今」が壊れないためのルール。

 

芽衣子は、そうして雅人がしげしげと成分表示を見つめている様子が好きだ。妹と弟がまだ子供だったころ、子供の日やクリスマスの前に入るおもちゃ屋の新聞折り込み広告を見て、よくこんな顔をしていた。雅人にとっては、化粧品の成分表示にある「ナイアシナミド」や「酢酸トコフェロール」が、子供のおもちゃみたいなものなのかもしれない。黒フレームのメガネをかけて、本人が選んだにしてはおしゃれなスーツを着て出勤しているくせに、会社に着いたらラボ用の服に着替え、子供みたいな顔で仕事しているのだろう。

 

雅人の会社での服装を、芽衣子は知らない。

そして、雅人の妻と子供の顔を、芽衣子は知らなかった。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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