雅人には妻と子供がいた。今でも、いる。
妻は子供を連れて実家へ帰り、30年ローンで買ったマンションで雅人はひとりで暮らしている。芽衣子はその家に行くことはなかった。行きたくないわけではなく、来てもいいと言われないから、行かない。来るのはいつも雅人のほうだ。あのメガネやスーツは妻の見立てなのかもしれない、とも思うけれど、直接きいて確かめたことはなかった。芽衣子が知っていることと言えば、雅人が毎月一定の金額を妻の口座に振り込んでいることや、定期的に子供と会っていること、子供は未央という名前の女の子で、4才だということ。
努力をして手に入れられるものがあるのなら、努力をすべきだ。運が無理なら、実力を身につければいい。
仕事においてはそう思えるのに、ひとりの人間を手に入れるための努力というものが、芽衣子にはわからなかった。そもそも、望月雅人という人間を手に入れている状態なのか、そうではないのかがわからない。
付き合い始めたころ、酔った雅人はこう言った。
「奥さんが実家から戻ってこなくなって半年くらいは頭の中混乱してたけど、もう修復不可能なくらい気持が離れちゃったんだ。奥さんはもう俺を必要としていなくて、俺はもう彼女を必要としていなくて、必要なのは芽衣子。信じてもえないかもしれないけどさ。ていうか、どう聞いても嘘っぽいか」
雅人はボトルで注文した焼酎を梅干し入りのお湯割りで飲みながら、首をすくめて自虐的に笑った。駅前の居酒屋だった。薄い壁で仕切られた隣のスペースからは、酔った男女の笑い声が響いている。芽衣子は酒ならいくらでも飲める体質なので、焼酎をボトルで注文しても、たいていそのうちの半分以上は芽衣子が飲んでしまう。そして潰れるのはいつも雅人の方だった。
「私、なんでこんな人と一緒にいるのかな......」
「え?今なんて言った?」
「なんでこんな人と一緒にいるのかな、って言ったの」
雅人は嬉しそうに芽衣子のぶんのお湯割りを作る。新しく入れた梅干しを5回だけマドラーでつつき、はい、と芽衣子に渡した。梅干しは5回くらいつつくくらいでいいと以前言ったので、雅人はそれを忠実に守っている。
「好きだからでしょ?」
「はあ?」
「だから、芽衣子は俺のこと好きだし、俺は芽衣子のこと好きだからでしょ?」
「なにそれ」
雅人は酔っていなくても、こういうことを屈託なく、いとも簡単に言葉にする。好きなら好きと言い、面白くなければ面白くないと言い、だからわかりやすくて芽衣子は力が抜けてしまう。居心地がよくて、安心してしまう。でも時には、そのわかりやすさにいらついてしまうのだった。その時の芽衣子はいらいらしたので不機嫌な顔でにらむと、雅人は無邪気に笑った。
「正直な話、未央のことはまだ大切だしこれからもずっと大切だと思う。奥さんは未央を絶対に手放さないし、だからもうなかなか会える機会がないのが、かなり寂しくてさ。まあ、未央が俺のことを、これからどう思っていくのかはわからないけど。子供を捨てたひどい父親ってことで、やっぱり恨まれるのかね。それ、かなり嫌だな。うわ、嫌だ」
だったら離婚しなければいいのに。言いたかったけれど、言わなかった。言えなかった。
どうしてさっさと離婚しないの。これも言わないし、言えない。
言えないのは、怖いからだ。
雅人の言葉がまったくの嘘で、いいように振り回された挙句に捨てられたら、怖い。うるさいことを言う女だと思われて雅人が去ってしまったら、怖い。怖いのはそれだけではない。私は振り回されたりうるさく追いかけたりするような、みっともない女ではないと思ってきた。それなのに、本当はそういう女だとしたら、とても怖い。結局怖いのは、どうしようもない嫉妬や敗北感にさいなまれている情けない自分を見ることなのだ。それって、単に自分がかわいいだけじゃない。ききたいこともきかず、知りたいのに知ろうとせず、私は自分を守っているだけ。なんて自意識過剰なんだろう。
「あー、もう俺ダメ。飲みすぎ。眠い。ていうか芽衣子って、酒、強すぎ」
「雅人君が弱すぎなのよ」
「ダメだ。おんぶして帰って」
「無理」
「だよな。芽衣子はちっちゃいもんな」
雅人は黒フレームのメガネの奥にあるぎょろついた目を細めて笑い、芽衣子の頭をなで、髪をくしゃくしゃにした。芽衣子はよけるように少しうつむいたけれど、くしゃくしゃにされるままにしておいた。そうされていると心地よい。大事にされているような感じがする。
大事にされているなんて、ただの錯覚かもしれないのに。芽衣子はほんの一瞬だけ思ったが、心の中の重たいかたまりは、心地よさの海の中にぶくぶく沈んで消えてしまうのだった。
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