うぐっと息を詰まらせた志保の咳が治まるのを待って、芽衣子は雅人とのいきさつをぎこちなく話しだした。
芽衣子は志保のように自分のことを語るのが上手ではないから、面倒になって詳しい出来事をスルーすると、志保がつっこむ。たとえば「で、なんでそういうことになるの?」だとか「今のとこ、わかんなかった」だとか。そのたびに自分の中に閉じ込めていた思いを確認していける。
これが人と話すことの効用だったんだ。客として来店する人の話を聞いて提案をする作業を、仕事では当たり前のようにしていたのに、あらためて気づくなんて。
ひとりぼっちで迷路の出口を探すのはとても難しい。でも、迷路を見渡せる上空から、そっちは行き止まりだ、こっちの道は出口に近そうだと声をかけてくれる人がいれば、気持は安らぐ。出口を見つけるのは、最終的には自分自身だとしても。
「メイ先輩の話を聞いてたらイラっとしてきた。望月さん、何考えてんだろ。どうしたいんだっつーの。離婚しないままぐずぐずしてるなんて、完全にダメ男じゃん。そんな男のどこがいいわけ?」志保がフォークを振り回す。「メイ先輩はどうしたいの?ぐだぐだじゃん」
「どうって......」
「そもそもメイ先輩は、欲しいものは人を傷つけても手に入れてやる、っていうタイプじゃないし。好きだからどんな困難も乗り越えるチャレンジャーでもないし。どっちかっていうと無難に進むタイプでしょ。自分もまわりもとりあえず平和がいちばん、みたいな。今の状況、ぜんぜん平和じゃないじゃん」
確かにそうだけれど。さんざん志保にダメ男扱いされた雅人のことを弁護する気は、なぜか起きなかった。優柔不断で自分勝手で、つかみどころがない人だということは、良く知っている。
芽衣子は心の中だけでそうつぶやき、「平和じゃないけどね」とだけ言って冷めてしまったコーヒーを飲んだ。志保がふうんと確かめるように何度かうなずきながら腕を組む。
「あー、なんかわかった気がする。メイ先輩って地味に世話好きだからね」
「なにそれ」
「地味に世話好きっていうか、地味に振り回され好き?みたいな。地味すぎてわかりにくいんだよね」
今日はなんて日なんだろう。いろいろな人に言葉こそ違うけれど同じような指摘をされているような気がする。ため息が出る。
「だって高校の時からそうだったじゃん。メイ先輩って質問しないとなーんにも教えてくれないけど、聞くとしつこいくらい答えてくれたし。先生別テスト攻略法とか。途中で学校やめちゃったアキにも、なんだかんだ言って世話やいてたもん。結局やめちゃったけど」
部活の後輩で志保と同じ学年だったアキという子のことは、芽衣子も良く覚えていた。「マジ金ないんですよ」と「勉強キライなんですよ」が口癖だったアキの危うい雰囲気が気になり、芽衣子はそれとなく学校で話しかけたり週末の遊びに誘ったりしていた。芽衣子達の卒業式の日、彼女は「これまだ誰にも言ってないんですけど、あたし学校辞めることにしたんです」と笑い、両手を芽衣子に向けた。
「なに、その手?」
「ハイタッチじゃないですか。メイ先輩も卒業だし、あたしもめでたく学校辞めるってことで」
芽衣子がつられて両手を出すと、アキはパチンと音を立てて手のひらを合わせ、そのまま廊下を走って行った。それきりアキを見ていない。
ハイタッチか。雅人もアキも、どうしてハイタッチなんかしたんだろう。
志保と別れたから電車の中で考えたけれど、答は出てこない。電車の中ではつい、とりとめのないことを考えてしまう。たとえば別れ際に志保が言ったことも、時間の経ったココアのように頭の中でどろりと沈澱している。
「メイ先輩、ぜんぜん私の質問に答えてないけど、まあいいや。昔っから秘密主義だもん。いずみちゃんにも秘密にしておくよ。いずみちゃんは自分が母子家庭だったからって、メイ先輩のことも否定するような人じゃないけど、でも今は言わない方がいいと思うんだよね。なんだかオイちゃんと仲悪くて、余裕ないみたいだから」
数か月前にいずみの家に行った時には、いつもと同じように明るく笑っていたのに。
部屋のあるマンションが見えると、芽衣子は少しだけ頭を振って、沈澱していたものをかき混ぜた。
ドアを開けると明かりがついていた。「おかえり」と雅人の声がした。部屋をのぞくと、スウェットとTシャツ姿でソファに座り、チャンピオンズリーグの古い録画を観ている。
「夕飯、ちゃんと食べた?」
「食べたよ。角の定食屋で生姜焼き定食。そんなことより、ちょっと話があるんだけど」
今まで、雅人がこんなふうに会話を切り出したことはない。うん、と答えてキッチンスペースで着替えながら、芽衣子はざわざわとした不安を感じた。鼓動が早まるのがわかる。何か嫌な話題に違いない。たとえば別れ話とか、きっと聞きたくもない内容。雅人は何を話しだすのだろう。今日はなんて日なんだろう。
ゆっくりとした動作で部屋着に着替え、ためらいがちに冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターを取り出し、グラスに注ぐ。無意識のうちに時間を引き延ばしている。
「話ってなに?」
できるだけ平常心を装った芽衣子が振り向くと、雅人はキッチンの入り口に立っていた。左手で押し上げたメガネの奥の瞳は、いつもと変わらない。
「あんまりいい話じゃないんだけどね。ここのところ何回か検査をしてみたんだ」
検査?
芽衣子は持ち上げかけたグラスをシンクの中に置いた。
「おれ、肺ガンらしいんだよ。まいった。アンラッキーも甚だしい」
まるで他人事のように言うので、芽衣子は数秒のあいだ呼吸を忘れ、その場に立ちつくした。
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