久しぶりに土曜日に休みを取った。雅人と一緒に過ごすつもりで取った休日だから、志保たちの誘いは断った。いろいろ詮索されると面倒なので「仕事で行けない」と嘘をついたことが、少しだけうしろめたかった。
雅人が観たいと言った映画はハリウッド産のCG満載SF作品で、ちっとも芽衣子の好みではなかったけれど、観る映画なんてなんでもよかった。芽衣子にとっては休日を一緒に過ごすことが大切なのだ。
「ほんとにスター・トレックでいいの? もっと他の、芽衣子が観たい映画でもいいんだけど」
「いいよ。今は特に観たい映画ってないから」
「えっ、ほんとにいいの?そっか。いいのか」
と言いながらも、雅人は子供みたいにわかりやすく浮足立っていて、芽衣子はふっと笑ってしまった。
この人と一緒にいると必ず振り回されることになる。でもこうして振り回されるのが嫌ではなかった。今まで付き合ってきた男達はみんな、連れて歩くには見栄えのする人形のように芽衣子を扱った。そのたびに、私はそんなにいいものじゃないと気おくればかりが先に立った。「女は姫みたいにしていなくちゃ恋愛はうまくいかないわよ」と言う友達もいるが、姫でいることを積極的に楽しめない女だっているのだ。
普段は飄々としている雅人が、映画を観る前からスター・トレックについてあれこれ熱く解説する。芽衣子にはさっぱりわからない。以前の芽衣子なら「そうなんだ」とか「面白そうね」とか相手の気に入りそうな相槌をうつところだが、雅人の前では何も気負わなくていい。
「ねえ、スター・トレックとスター・ウォーズは違うの?」
「違うよ。ぜんぜん違う。なんだよ、芽衣子はそんなことも知らないの?」
「知らないわよ。そんなの知らなくても生きていけるし」
「その違いを知らずに生きていけるか」
こうしてまた他愛もない会話が日常を埋めていくのは、芽衣子にとって些細だけれどとても幸せなことだった。ただ、他愛もない会話すら入りこめない瞬間もある。
たとえば宝飾店の前を通る時。芽衣子はディスプレイされたペアリングを見ないようにする。
表参道にある結婚式場の前も、早足になり過ぎない程度の速度で通り過ぎる。
雅人の顔も見ない。見ればきっと雅人は何かを言うに違いないのだ。「ごめん」だとか「何とかしようと思っている」だとか。そういった会話こそ、本当はしなければならないことなのに、芽衣子は怖くて逃げていた。別居しているのにまだ正式に離婚をしていないという事実の、その底にある意味を考えたくなかった。
メイ先輩、という声が聞こえたような気がして、芽衣子はふと立ち止った。明治神宮前の歩道だ。雅人とつないでいた手を、思わずほどく。
「メイ先輩!」
振り返ると、志保が大声で叫んでいた。隣にあるのは見覚えのあるいずみのベビーカーだ。いずみの姿は見当たらない。まずい、と思ったものの、目が合ってしまった以上は無視するわけにいかない。公園に行くとは聞いていたけれど、まさか代々木公園だとは。ベビーカーの中で由香が体をよじって泣いている。
「あの人、芽衣子の友達?」
「うん......そう」
志保は困り顔でしきりに手招きをしている。意を決し、芽衣子がベビーカーに向かって歩き出すと、妙なところで図々しいくせに基本は人見知りの雅人が後を追った。
「メイ先輩、いいところで会っちゃったよ。由香が泣きやまなくてさ、かなり困ってたの」
「いずみちゃんたちは?」
「向こうのスポーツ屋のトイレ。悠太がうんちらしくて。由香、だっこすれば泣きやむかな」
「ちょ、ちょっと待って」
と言ったのは雅人だった。
「そのまま赤ちゃんを取りだすと危ないよ。ハンドルの荷物をまず外さないと、ベビーカーがひっくり返る」
「え、そうなの?よかった、ひっくり返る前で。さっきあたしの荷物かけちゃったんだ」
志保が荷物を取り除くと、雅人は慣れた手つきでベルトをはずし、由香を軽々と抱きあげた。その仕草があまりにも何気なく映り、芽衣子は胸が苦しくなった。この人は、子供だと家族だとか、自分がまだ持ったことのないものを持っているんだ。嫉妬とも違うさみしさを感じて、芽衣子は思わず瞳をそらした。
志保はといえば、あからさまに目を丸くして、雅人と芽衣子を交互に見る。
「ていうか、このメガネの人誰?まあ、どう考えてもメイ先輩の彼氏さんだろうけど......ちょっと、知らなかったんですけど!いつから?なんで秘密にしてたの!ていうかメイ先輩、今日は仕事って言ってたじゃん!」
芽衣子が言葉を探しあぐね、由香が泣きやんだところへ、いずみと悠太が小走りで戻ってきた。いずみは予想外の人間と出くわしたことを、志保以上に驚いている。志保がことの次第を説明すると、いずみはやっと落ち着いたように微笑んだ。
「なんだかご迷惑おかけしてすみませんでした。メイちゃん、ちゃんと彼を紹介してよ」
声を出せないまま黙っている芽衣子の代わりに、いずみは簡単に自分と子供と志保の名前を言いい、悠太にお辞儀をさせた。雅人はまじめくさった顔で軽く会釈し、抱いていた由香をいずみに渡す。
「望月です。話は芽衣子さんからよく聞いています。志保さんは高校の後輩で、いずみさんは体育の先生ですよね」
「なんだ。メイ先輩、ちゃんとうちらの話してくれてるんじゃん。望月さんは保育士かなんかなの?ていうより医者っぽくない?」
「確かにね。子供の扱いが慣れてるし、もしかして小児科?だったら嬉しくて通っちゃうんだけど」
いずみと志保は顔を合わせて、十代の女の子のようにいたずらっぽく笑った。
芽衣子はちっとも笑えず、できれば雅人を引っ張ってこの場を立ち去りたかった。悪気がない代わりに空気が読めないのもこの人の特徴だ。雅人がなにかとんでもないことを言いだす前に退散したほうがいい。
「医者なんかじゃんくて普通の会社員ですよ。子供がいるんです。女の子で、今現在4才」
それを聞いた志保といずみは、微笑んだまま固まっている。遅かった。引っ張って立ち去ればよかった。
「あの、私達ちょっと用事があって急いでるから。望月さん、行こ」
芽衣子は目を伏せ、早足で歩きだした。
恋人ではなくただの友達だと言えばよかったのだろうか。それとも恋人だと認めて事情を打ち明ければよかったのだろうか。打ち明けられないのは彼女達を信頼していないからだろうか。そういうわけじゃない。正しいと思っている自分の選択が、実は間違いだと指摘されるのが怖かった。特にいずみは、いい顔をするわけがない。子供の頃、父親に捨てられたいずみにとって、芽衣子は父を奪った女と同じ立場なのだ。もし、そんな男はやめておけと言われたら、自分には貫く自信がない。その自信を持つか、選択の間違いに自分で気づくまで、放っておいてほしいと思っていた。そうでないと、納得ができない。でも今、はっきりとわかった。自分で納得のいく結論を導きだしどう進んでいくのかは、自分自身が決めること。そのためには、現実から逃げずに雅人と話をしなくてはいけない。
そうだ、話しあわなくちゃ。ふいに頭の中のもやが消え、視界が開けた。
帰りの電車の中、隣に座り腕組みをしていた雅人が口を開く。
「怒ってるよね」
「怒ってるわよ」
「でも嘘は言ってないし、俺だってなんにも考えていないわけじゃないんだよ」
「わかってる。ただ雅人の場合、なにを考えてるのかがわからないだけ。ま、もう慣れたけどね」
「みんなそれぞれ平和に生きていけたらいいと、俺は考えているんだけど」
「それもわかってる。雅人君も私も、それからきっと他の誰かも、優柔不断の小心者で何も決められないでいる。でも何かを曖昧に持っているより、失くした方が平和なことだってあるのよ」
腕組みをしていた雅人はそれをほどいて幾度かうなずき、黒いフレームの眼鏡を少し押し上げる。それから手のひらを芽衣子の目の前にかざした。
「なに、その手は?」
「なにって、ハイタッチだよ。はい、ハイターッチ」
つられて芽衣子がぱちんと手を合わせると、雅人は心なしか寂しそうな横顔で「そのとおりかもしれないね」とつぶやいた。
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