2010年5月アーカイブ

勝利の呪文 4

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その時、寝室のドアが開いた。

「なにしてるの?」

パジャマ姿の悠太が、目をこすりながらキッチンへ素足で歩いてくる。とっさに、床に散らばった皿の破片が目に入った。

いずみよりも早く動いたのは和喜だった。

 

「だめだめ、そこにいろ!」スリッパの下でシャリシャリ音を立てながら悠太に近づき、抱き上げる。「パパとママはごはんを食べてたんだよ。悠太はなんだ、おしっこか?」

抱かれた悠太は首を振り「おなかすいたの」とぼんやり言った。

「おなかすいたのか?」

「すいてない。寝るんだよ。ゆったんも」

「じゃあ寝なさい」

「パパも寝るよ。ママもだよ」

悠太は和喜の肩に顔をうずめ、ぐったりとはりついている。そのまま眠ってしまいそうだった。

和喜はスリッパを脱いで寝室に入ると、静かにドアを閉めた。

 

しばらく立ちすくんでいたいずみは、テレビから流れてくる騒がしい笑い声を聞いて我に返り、皿の破片を拾い始めた。

子供の頃の記憶がよみがえる。夜中、ふすまの向こうから聞こえる、母と父の重たい会話。ふすまの隙間からこっそりのぞくと、明かりの中に父の背中とうつむいた母の横顔が見えた。

「私、おんなじことしてるのかな」

とがった白い破片を手のひらに載せて、いずみはつぶやいた。しかしタオルを握って泣いていた母と違って、涙は出ない。泣いている場合じゃないのだ。まずは床に散らばった凶器を片づけなくてはいけない。子供達の柔らかい足を傷つけないように、ひとつ残らず集めなくてはいけない。

「ラクショウカテル」

試合の時に繰り返した呪文が、また口をついて出てきた。私は「オトコウンが悪い」と寂しげに笑った母とは違う。同じことをしているわけではない。いずみは掃除機のごみパックを取り替えて、破片を吸い取った。夜は掃除機をかけないようにしているが、この際しかたがない。吸い取ってやる。和喜は寝室に入ったまま出てこなかった。このまま話を終わらせてたまるもんか。

掃除機を片づけ、床をくまなく確認すると、寝室のドアを開けた。

「あきらめて認めろ」

低く押し殺した声で言ってみたけれど、暗い部屋からはなんの返事もなく、そのままドアを閉めた。

 

その後の数日、何事もなかったかのような顔をして仕事にでかける和喜を、何事もなかったかのような顔で送り出し、ついでに最近はめっきり言わなくなっていた「いってらっしゃい」と「おかえり」を言い、いずみはひそかに戦略を練った。

そして戦闘準備が整うと、ベビーカーに由香をくくりつけ、悠太の手を握った。桐生に向かう電車に乗り込むためだ。母はわざわざ有給休暇を取って、途中の小山駅まで迎えに行くと言う。大丈夫だからと断ったけれど、本当は来てくれるのがありがたかった。それまでの1時間半、辛抱すればどうにかなる。新幹線はベビーカーの置ける端の指定席券を買おう。おむつだの下着だのが足りなくなったら現地調達すればいい。原宿駅まで電車で行くのをためらっていた自分が嘘みたいだ。

 

冷房の効いた車内で、悠太にウエハースを与え、ぐずる由香を抱きながら、いずみは陽気なメロディを口ずさむ。

今ひとり、列車に乗ったの。

この歌なんだっけ。「魔女の宅急便」で流れていたけれど、タイトルは覚えていない。母は松任谷由美を良く聞いていて、「それはマツトウヤじゃなくてアライの頃の歌だ」と言い張っていた。結婚して姓が変わっただけで同じ人であることには変わりないのにと当時は思っていたが、苗字が変われば環境が変わり、心持や考え方も変わる。今はそれがわかる。

出だしはどんな歌詞だっただろう。確か、あの人のママに会うために、とかなんとか。わざわざ喧嘩した男の母に会いに行くなんて、ハッピーな話だ。和喜の母に直談判しようなどとは、少しも思い至らなかったし、義母に会ったところで何を言えばいいのかわからない。ついでにバスルームにルージュで書き置きをするなんていう、めんどうなことも思いつかなかった。いずみは伝言などひとつも残さず、いつもどおりに和喜を送り出し、黙って実家へ向かおうとしている。

 

さて、相手はどう出てくるか。見ものだわ。これは賭けだった。

相手の出方でスパートのタイミングを見切るための、ささやかな賭けだった。

勝利の呪文 3

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和喜は発泡酒の缶に口をあてて、飲む振りをしている。飲む振り。のどはちっとも動いていない。どんな言葉が返ってくるのだろう。見ものだわ。

いずみは和喜に背を向けて食器を片づけながら、こっそり片口を上げた。

 

「まじで?あいつが出没しそうな場所に、いずみが行くとは思えないな。いつの話?」

「そんなに前じゃないけど......いつだったかな。最近私、子供達を連れてけっこう出歩くのよ。新宿くらいなら余裕で行けるしね」

新宿か、と和喜はひとり言のようにつぶやき、立ちあがって何かを探し始めた。

「また家に遊びに来てね、って言ったら、思いっきり断られちゃった。ところで何を探してるの?」

「テレビのリモコン」

「そこにあるじゃない」

リモコンはテーブルの上にある。さっき和喜が発泡酒の缶を置いた、すぐ横だ。気づかないとは、よほど動揺しているらしい。和喜は、ああとかうんとか、曖昧な返事をしながらもといた椅子に戻ってきた。

「でね、また来てねって誘ったら断られちゃったのよ。その理由がね、すごいの。あの子、かなり変わってるね。どこまでが本気なのかわからない。彼女が断った理由、聞きたい?」

 

いずみは薄い平皿を持ったままくるりと後を向き、和喜の横顔をじっと見た。和喜がでたらめにリモコンのボタンを押すせいで、次々とチャンネルが変わる。とぎれとぎれのCMナレーションや笑い声が、むなしく部屋を満たしていく。和喜が必死に平静を装おうとしているのが手に取るようにわかり、いずみはまたしても笑い出したくなった。

 

「聞きたくないみたいだけど、教えてあげる。"わたしぃ、及川さんといろいろしてるからぁ、奥さんと子供のいる場所へ行きたくないんですよぉ"だって。ね、変わってる」

いずみが食器棚へ向き直ると、和喜がとりつくろうように明るい声をあげた。

「ああ、それはただの冗談だろ。冗談。あいつ変わってるからな。うん」

なにが冗談だ。こんな嘘にみすみすひっかかる時点で、浮気を認めたようなものだ。

思わずいずみの手に力が入り、持っていた平皿が2枚に割れた。意外と簡単に割れるものなんだな、と自分の破壊力に驚きながら振り返ると、和喜は驚くというよりも怯えた顔をして口を開け、割れた皿を見つめている。バカみたいな顔。

いずみはとうとう本格的に笑い出してしまった。

 

「冗談なんて、冗談じゃないわよ。隠し通せると信じ込んでるところが、私にとっちゃ冗談みたいよ。めちゃくちゃ笑える」

「なんの話だよ」

「は?浮気の話だけど」

「なにくだらないこと言ってんだ」

「もうばれちゃったんだから、あきらめて白状すればいいのに」

「白状することなんて、ない」

 

この期に及んでまだ言い張るの。

いずみの怒りは一瞬のうちにコントロールできなり、感情のままに両手で持っていた皿を床に叩きつけた。

皿は、思いがけず大きな音を立てて砕け散った。

 

「なにやってんだよ。夜中にそんな音を立てたら、また下の人に文句言われるだろ」

それを聞いて、いずみの呼吸は浅くなった。

「文句言われるのはあんたじゃなくて私じゃない......下の人はいつも、あんたがいない時間に来て文句言うのよ。こんな狭くて壁も床も薄い賃貸マンションにいつまで住めっての?仕事仕事と言ってるくせに、お金も貯まらないしぜんぜん引っ越せないじゃない。私だって仕事したいわよ。でも保育園に空きがないの。私にどうしろっていうの?恵美ちゃんのところなんて、お受験して来年から幼稚園に通わせるのよ。うちには無理よね?あんたが無駄に使ってるホテル代が悠太と由香を潰してるの。たいした稼ぎもないくせに浮気なんて百年早いわよ!」

 

自分でも何を言っているのかわからなくなってきて息を継ぐと、和喜の尖った視線に気付いてはっと我に返った。怒りを押し殺すように黙りこんで座っている。

今まで喧嘩をしたことはあっても、お互いにここまで感情をあらわにしたことはなかった。ここまで進む前に回避できたのだ。

だから次に和喜がどういう行動に出るのか、いずみには予測がつかなかった。

まさか殴るような人じゃないと思いながらも、体は無意識に反応し、逃げられるように身構えていた。

勝利の呪文 2

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志保と芽衣子が家に来た日、休日出勤だと言ってでかけた和喜は、夕方には帰宅した。

「ちょっと聞いてよ。しーちゃん、目を二重にしたのよ。今日なんかまだ腫らしたまま家に来たの」

「まぶたを縫い付けるやつだろ。最近多いらしいな」

和喜は驚きもせず、泣きだした由香を抱きあげ、ソファに座りテレビを眺め始めた。意外とあっさりしていたのでいずみは拍子抜けした。

 

テレビでは名前も知らないタレントがやかましく騒いでいる。この中の女の子も何人かはどこかをいじっているのかもな、といずみはぼんやり考えた。女の子達は芸人のコメントに、いちいち大げさに手を叩きながら笑い声を上げる。

ふと、内藤葉子のことを思い出した。この子達の誰かに似ているようで、どの子にも似ていない。べたべたと人に触る子だったことは覚えているけれど、何回か会ったのに、顔を思い出せそうで思い出せない。

 

「前に何回か家に来たナイトウちゃんていたじゃない。みんなあの子みたい」

そう言ってリモコンを取りに立ち上がると、和喜の視線とぶつかった。

目を見開いて、明らかに驚いた顔をしている。

しかし一瞬だった。すぐに和喜は視線をそらし、膝の上に抱いている由香に話しかけ始めた。ソファによじ登ってきた悠太にも、やけにちょっかいを出している。いずみはリモコンを持ったままじっと立ちすくんだ。和喜は決して視線を合わせようとしない。不自然だ。

 

確か前にも、和喜のこんな顔を見た。いつだった?遅く帰ってきた日。私はもう寝ていた。気配に気づき、布団から出た。そうだ、あの日。

映像がよみがえったとたん、ゴールに向かって次々と倒れていくドミノのように、いずみの頭の中で何かがつながり始めた。

遅く帰ってきた日。不自然にまくしたてる声。違和感。手で触れられた時の気持ち悪さ。誰にでも肌を寄せてくる女の子。誰にでも?そうじゃない。和喜に対してだけはよそよそしく振舞っていた。何を画策しているのだろう。気持ちが悪い。あの時、無意識に感じていた気持の悪さは、肌に触れられたからのが原因ではない。和喜と彼女の間にあった不自然さが原因だ。

和喜が隠しているのは、内藤葉子。

 

それでも確信が持てないまま時間が過ぎて行った。

証拠もない状態では、ただの被害妄想と否定されれば切り返すこともできない。だいたい証拠なんて見つけたくない。見つけてしまえば今は疑っているだけの夫の浮気が、事実になってしまう。もしかしたら、本当に自分の思いすごしかもしれない。

そう思って落ち着く時もあれば、絶対に自分を裏切っていると決めつけて怒りがあふれてくることもあった。しばらく経つと、勘づかれているとも知らずに浮気をしている夫と内藤葉子のことが、腹を立てる価値もないほどくだらなく思えてくる。

 

いずみの胸の中には、疑惑と不安と怒りと冷笑がローテーションを組んで現れた。トラックを走り続けるように、同じところばかりをぐるぐるとまわっている。短距離選手だったいずみは素早く決着のつく戦いの方が得意だったが、人生はそううまくは運ばない。

そして、トラックをもう何周走ったのかわからなくなった頃、和喜の携帯電話が目に留ったのだった。これで堂々巡りのローテーションから抜け出せる。悲しくて悔しくて、普通なら泣きだすのかもしれないけれど、どこかで気が清々していた。

 

「堀部と内藤は早々にうちの会社に見切りをつけて転職した、って言わなかったっけ」

「あ、そうだったね。忘れてた」

今やいずみは、完全に和喜の遊びまわっている遊園地を俯瞰で見下ろしていた。そっちに進めばあとは出口のゲートが残っているだけなのに、知らずに遊んでいる。バカみたい。さらに出口に進ませるためには、雲の上から雨でも降らせてやればいい。

 

「そういえば、このあいだ偶然ナイトウちゃんに会ったのよ。ずいぶん元気そうだった。きっと新しい会社でのびのび仕事してるのね」

もちろん嘘だ。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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