その時、寝室のドアが開いた。
「なにしてるの?」
パジャマ姿の悠太が、目をこすりながらキッチンへ素足で歩いてくる。とっさに、床に散らばった皿の破片が目に入った。
いずみよりも早く動いたのは和喜だった。
「だめだめ、そこにいろ!」スリッパの下でシャリシャリ音を立てながら悠太に近づき、抱き上げる。「パパとママはごはんを食べてたんだよ。悠太はなんだ、おしっこか?」
抱かれた悠太は首を振り「おなかすいたの」とぼんやり言った。
「おなかすいたのか?」
「すいてない。寝るんだよ。ゆったんも」
「じゃあ寝なさい」
「パパも寝るよ。ママもだよ」
悠太は和喜の肩に顔をうずめ、ぐったりとはりついている。そのまま眠ってしまいそうだった。
和喜はスリッパを脱いで寝室に入ると、静かにドアを閉めた。
しばらく立ちすくんでいたいずみは、テレビから流れてくる騒がしい笑い声を聞いて我に返り、皿の破片を拾い始めた。
子供の頃の記憶がよみがえる。夜中、ふすまの向こうから聞こえる、母と父の重たい会話。ふすまの隙間からこっそりのぞくと、明かりの中に父の背中とうつむいた母の横顔が見えた。
「私、おんなじことしてるのかな」
とがった白い破片を手のひらに載せて、いずみはつぶやいた。しかしタオルを握って泣いていた母と違って、涙は出ない。泣いている場合じゃないのだ。まずは床に散らばった凶器を片づけなくてはいけない。子供達の柔らかい足を傷つけないように、ひとつ残らず集めなくてはいけない。
「ラクショウカテル」
試合の時に繰り返した呪文が、また口をついて出てきた。私は「オトコウンが悪い」と寂しげに笑った母とは違う。同じことをしているわけではない。いずみは掃除機のごみパックを取り替えて、破片を吸い取った。夜は掃除機をかけないようにしているが、この際しかたがない。吸い取ってやる。和喜は寝室に入ったまま出てこなかった。このまま話を終わらせてたまるもんか。
掃除機を片づけ、床をくまなく確認すると、寝室のドアを開けた。
「あきらめて認めろ」
低く押し殺した声で言ってみたけれど、暗い部屋からはなんの返事もなく、そのままドアを閉めた。
その後の数日、何事もなかったかのような顔をして仕事にでかける和喜を、何事もなかったかのような顔で送り出し、ついでに最近はめっきり言わなくなっていた「いってらっしゃい」と「おかえり」を言い、いずみはひそかに戦略を練った。
そして戦闘準備が整うと、ベビーカーに由香をくくりつけ、悠太の手を握った。桐生に向かう電車に乗り込むためだ。母はわざわざ有給休暇を取って、途中の小山駅まで迎えに行くと言う。大丈夫だからと断ったけれど、本当は来てくれるのがありがたかった。それまでの1時間半、辛抱すればどうにかなる。新幹線はベビーカーの置ける端の指定席券を買おう。おむつだの下着だのが足りなくなったら現地調達すればいい。原宿駅まで電車で行くのをためらっていた自分が嘘みたいだ。
冷房の効いた車内で、悠太にウエハースを与え、ぐずる由香を抱きながら、いずみは陽気なメロディを口ずさむ。
今ひとり、列車に乗ったの。
この歌なんだっけ。「魔女の宅急便」で流れていたけれど、タイトルは覚えていない。母は松任谷由美を良く聞いていて、「それはマツトウヤじゃなくてアライの頃の歌だ」と言い張っていた。結婚して姓が変わっただけで同じ人であることには変わりないのにと当時は思っていたが、苗字が変われば環境が変わり、心持や考え方も変わる。今はそれがわかる。
出だしはどんな歌詞だっただろう。確か、あの人のママに会うために、とかなんとか。わざわざ喧嘩した男の母に会いに行くなんて、ハッピーな話だ。和喜の母に直談判しようなどとは、少しも思い至らなかったし、義母に会ったところで何を言えばいいのかわからない。ついでにバスルームにルージュで書き置きをするなんていう、めんどうなことも思いつかなかった。いずみは伝言などひとつも残さず、いつもどおりに和喜を送り出し、黙って実家へ向かおうとしている。
さて、相手はどう出てくるか。見ものだわ。これは賭けだった。
相手の出方でスパートのタイミングを見切るための、ささやかな賭けだった。
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