「うわっ!なにこの壁画?」
店に入るなり志保は言った。
照明の落とされた店の中で、壁に殴り描かれた色とりどりの原色は、子供の頃に見た海水浴場のビーチパラソル群を思い出させた。原色で描かれているのは、動物や人間や虫だ。中には何やらよくわからない海の生き物のようなものもいる。
カウンターの中で酒瓶の整理をしていた景山日向は、営業用の声で「いらっしゃいま......」と言いかけ「なんだ、志保さんか」と笑った。金髪坊主頭で、腕を動かすたびにTシャツの袖口からトライバルデザインのタトゥーがちらちらのぞく。見た目はいかつめなのに妙に腰が低くて調子が狂う。
「なんだ、って失礼だな。ていうかこれ日向が描いたの?ていうかこれカエルのつもり?なんでカエルにヘソがあんのよ。卵で生まれることくらい、あたしでも知ってるっつーの」
「ああそれね、他のお客さんにもよくつっこまれる。おれバカだから生き物とかよく知らないんす。それはカエルビトという新しい生き物ってことで、どうすかね」
へらへらと笑う日向に絶句しながら、志保はカウンターのスツールに座った。冷房の効いた店内はひんやりとして心地がいい。ちょうどよく体に響く音量で、志保の知らない錆びついたような古いロックが流れている。5、6人座れるカウンターの他に4人がけのテーブルが2つあるが、客は志保の他にひとりもいなかった。木曜日のまだ午後6時を少し過ぎたばかりだし、きっと時間が早いせいでこんなに閑散としているんだろうと考えているところへ、まだ注文もしていないのになにやら涼しげな飲み物が出てきた。
「なにこれ?」
「モヒート。今日は暑いからさ、ちょうどいいんじゃないかと。志保さん酒弱いみたいだからラムは気持ち薄めにしといたっす」
ライムを絞って飲んでみると、甘さとミントの味が口に広がった。
「うまい!」
「ですよね」
ふうん、気が利くじゃん。と言いかけたけれど、褒めるのもなんだか悔しいので慌ててひっこめた。その代わりに「まさかこれ1杯で3000円とかふっかけないだろうな」と言うと、日向は「それいいっすね。そうすっかな」と笑いながら、CDとレコードがずらりと並んでいる棚を物色し始めた。
志保が通うカルチャースクールの絵画教室に前回の講座から入った日向は、見た目のワイルドさから最初こそ他の受講者をぎょっとさせたが、すぐに人気者になった。特に講師をしている、ちょっとオネエっ気のある老人画家は日向をものすごく気に入った様子で、超初心者の日向に貼りついてあれやこれや指導をしていた。最初の受講時、教室を見まわしていた日向がイーゼルを立てたのがたまたま志保の隣だったため、それ以来なんとなく話をするようになり友達になった。志保より5つ年下で、どうやら小さいバーを持っていることを知った。
「持ってるって、経営者ってこと?」
「いや......経営者っていうか雇われ店長。こんど来てくださいよ。食いもんはあんまりないけど、酒はけっこう気合入れて作ってるんで。あと、壁画もあるし」
「壁画?」
「店の内装やった時に雇い主が、お前なんかてきとうに描いとけよって言うんで、まじてきとうに描いたんすよ。それがけっこう出来が良くて。オレもしかして絵の才能あるんじゃね?と勘違いして、今ここにいるんですよ。ま、勘違いだったってのがやっとわかった。絵、やばい。かなり難しい。逆にかなり面白いすけど」
そりゃ難しいに決まってるよ、と志保は思った。ここは中級者向けの『パステルで描く人物デッサン講座』だ。入門者向けの鉛筆だけで描く静物デッサンだって、志保は自分の下手さにへこみながら続けていたのに、いきなりカラーで人物を描くなんて無謀にもほどがある。隣に立てられたスケッチブックを横目でのぞくと、志保が初めて描いたものよりもひどい絵が見えて、ありゃーと思ったが、日向本人は何食わぬ顔で白い紙と格闘している。きっとすぐに辞めるだろうという志保の予想に反して、日向は「店終わって、寝たの朝9時。眠いっす」などと寝起きの顔で言いながら、隔週日曜午後1時からの講座に遅刻もせずやってくるのだった。
そもそも志保が絵画教室に初めて通ったのは4年ほど前だ。それ以来、3か月か半年で終わる講座をお金がある時だけ断続的に、でも4年間通った。きっかけは元彼の聡史の説教だった。
「服とかお菓子とか、そんなムダ金ばっかり使ってないで、少しは役に立つことをしろよ。習い事でもやればいいだろ」
聡史の説教は愛情表現だと信じていた志保は、なるほどと簡単に納得し、さっそく情報誌で習い事を探し始めた。マンガを読むのが好きだし絵だったら描けるかもしれない、デッサン入門だったら鉛筆とスケッチブックだけ買えばいいからお金もかからない。
そんな単純なきっかけでカルチャースクールに申し込んだものの、しばらくは他の受講生達のうまさに圧倒され、がっくり気落ちしてばかりだった。しかし志保は他人の持っている"うらやましい"ところをこっそり真似するのが得意だ。あの髪型いいな、あの服かわいいなと常に真似をして、挙句にはプチ整形までしてしまった脈絡のない努力が、この場合は良い方向に発揮されたのだ。
他の絵を見ながら「とりあえず影のできる場所に注目ってわけ?」だの「明るく描きたいところはあのくらいがっつり消しゴムで消して真っ白にしちゃってもいいとか?」だの試行錯誤しているうちに、ある日思いがけず講師に褒められた。
「木崎さんは成長著しいですね。勘がいいのかな、ちゃんとポイントをつかんでますよ」
そのひとことで俄然やる気が増し、次年に受講したのが中級者向けの『パステルで描く人物デッサン講座』だった。初日にもう辞めようと思った。それほど他の受講者との差が大きかったのだ。辞めなかったのは、講師のちょっとオネエっ気のある老人画家が面白かったのと、そんな講師についている受講者がみんな個性的で、思いのほか居心地が良かったからだ。
日向もその居心地の良さのおかげで、実力以上の教室にもかかわらず通い続けているようだ。最近では絵の方もだんだん上達してきている。もし今この店の壁画を描いていたとしたらもっと上手にできただろうに、と志保は少し上から目線で考えた。
「次の講座も申し込むんでしょ」
「いや。今回でもう辞めますよ」
突然あっさりとした答えが返ってきて、志保は面食らった。グラスを持つ手が止まり、何か言おうとしたが思いつかない。動揺している理由がわからない。
その時、ドアが開いてスーツ姿で五十がらみの、痩せてくたびれた男が入ってきた。男は志保を見て、先客がいたのかと言いたげに少し立ち止まり、無言でカウンターの一番奥に座った。
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