あの日、食堂から病室へ戻ったのは芽衣子ひとりだった。外の暑さにもかかわらず汗ひとつかいていない佳苗は、当然のようにタクシーを拾い、涼しい顔で乗り込んだ。
芽衣子はタクシーを見送らずにきびすを返す。雅人と話をしなくては。エレベーターの階数表示の動きすらもどかしかった。
雅人はベッドに腰掛け、まるで公園のベンチで考え事でもしているかのように背を丸めていた。まだ広げてあったパイプに無言で座った芽衣子を見て、さっきと同じことを言う。
「どう反応すればいいのかな」
「自分で考えれば。少しくらい肺を切り取ったからって、脳みそが動かなくなるわけじゃないでしょ」
雅人は静かに笑った。「ごめん」
「謝まれば済むとでも思ってるの?」
「済まないことは知ってる」
「済ませない人がひとりでもいる限りは、済まないのよ」
「うん」雅人はうなずき、膝の腕で指を組んだ。
「私は済ませないつもりだけど、私だけじゃどうにもならない。雅人君が済ませたいって言うなら、そう考えてるってことを私も考えなくちゃいけない」
自分の思いを正確に伝えようとすればするほど言葉は絡まり、もどかしさに瞳が熱くなるのを、なんとかこらえた。
「手術が終わったばっかりの病人にこんな話したくないし、だから今すぐ答えろっていうわけじゃない。それにどんな答えが返ってきても、私はもう驚きもしない......」
ふいに痩せた雅人の腕が伸び、芽衣子のせっかく整えてきた髪をくしゃくしゃにした。
「身勝手なことを承知で言えば、もう一度また帰りたい。芽衣子の家に」
そして、かつて芽衣子の部屋にあった雅人の荷物は、再び同じ場所へ戻ってきた。
職場に復帰した頃、また家電に着信があった。佳苗だ。雅人は相変わらずグレーのスウェットを着て、サッカーの録画を観ていた。元妻の希望に関して既に知らされていた雅人は、画面から目をそらして芽衣子を見た。
「替わりましょうか」
――いいの。あの人と話しても埒が明かないから。芽衣子さんの方が話が早いもの。誓約書にサインをしてほしいのよ。
「誓約書?」
――このあいだお話したこと、私達ふたりの間できちんと形にしておきたいの。娘の入学までの計画よ。
立ち上がりかけた雅人を、芽衣子は手で合図をして抑えた。それにしてもいつの間に"計画"になったのだろう。しかも佳苗の声はずいぶんと高揚して聞こえた。まるで共犯者を見つけたかのように。芽衣子としてみれば、雅人が法的に誰を妻としていようと、そんな些細なことはもうどうでもよかったのだが。
「それがご希望ならいくらでも。ただ私達ふたりの間じゃなくて、4人の問題じゃないんですか。それにお嬢さんの」
娘はともなくあの人達のことはどうにでもなるわよ、と佳苗は言い捨て、さっそくふたりが会う日を決め始めた。
会ってみると、誓約書はただの口実だということがわかった。佳苗は延々と世間話を続けた。雅人の悪口に始まり、今付き合っている"江田さん"という人が誕生日になにをプレゼントしてくれたかという話、実家で一緒に暮らしている両親に口うるさく叱られる話、娘がヴァイオリンの発表会でひとつも間違えずに最後まで弾いた話。それからお気に入りのショコラティエが作った最新デザートの話、続けているヨガ教室の話。芽衣子は、同意できない部分は「私はそうは思いませんけど」と答え、知らない単語には「それなんですか?」と質問した。それは、内容は違えど女子高生同士がする会話と似ていた。最初は身構えていた芽衣子も、途中から遠慮を捨てた。
誓約書について触れると興味のない顔をする。
「忘れてた。まあいいわ、またこんどにしましょう」
「だってそういうの、ちゃっちゃとやっちゃった方がいいでしょ」
「今日じゃなくてもいいじゃない」
「せっかく来たのに。私、仕事とかあるし、次のタイミングがいつになるかわからないし」
「やあね。どうせ私は実家暮らしの専業主婦で暇ですよ。むかつく」
むかつくって......。芽衣子は苦笑した。本当に高校生みたいだ。興が乗ってきたのか、挙句にはこんなことを口にした。
「あなた、あの調布のマンションに引っ越したらいいんじゃない? どうせ私達、もうあそこへは行かないし。だっていずれは望月と結婚するんでしょう? それなら問題ないじゃない」
結局、誓約書は書かれないままに終わった。数日後には雅人にもマンションのことを伝えたらしく、雅人は首をかしげてつぶやいた。
「芽衣子とはいい友達になったって、妙に懐いている雰囲気なんだけど」雅人は小ぶりの段ボール箱の中に入ったサプリメントのパックを取りだす。佳苗から送られた荷物だ。「"免疫力を上げるサプリメント"ってさ......いかにも眉つばだな」
「心配してくれてるのに、眉つばはないでしょ。効果、あるかもしれないよ」
とっさに佳苗の味方をした自分に苦笑してしまった。この奇妙な関係を、普通ではないと知りながらも芽衣子は受け入れ始めていた。芽衣子が唯一、これまでのいきさつをすべて話していた人間は、志保でもいずみでもなく、職場の店長だった。
「別にありなんじゃない? フランスあたりじゃそういう人達、たくさんいるわよ」そしておどけたように笑った。「なんてね。フランスなんて行ったこともないけど」
志保やいずみほど近しくなく、でも込み入った事情を心置きなく話せる店長は、距離的にちょうどよかった。
その後も佳苗と芽衣子は頻繁に連絡を取り、今でも続いていた。引っ越しは先延ばしにしている。そんな都合のいい提案をふたつ返事で受け入れるほど、芽衣子は打算に徹するタイプではない。佳苗は「こんど5人でディズニーランドにでも行きましょうよ」と言いながら、決して娘と恋人に合わせようとはしなかった。そのあたりは一線を引いているようだ。
「未央には、ふたりのパパに愛されて贅沢ねと教え込んでるのよ」
「というか、5人でなんて行くつもりないでしょ」
「どうしてそういうところばっかりすぐにつっこむの。そうね行きましょうね、くらい言えないわけ?」
文句を言いつつも、佳苗は以前よりもずいぶん楽しそうにハーブティーを飲んだ。その姿を見ながら、芽衣子は静かに誓う。
統計的には80%だという雅人の5年生存率を絶対に100%にしてやる。その次の5年も、その次も。絶対に。
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