「......していませんけど」
「いまさら嘘をつかなくてもいいんですよ。私の方には少しも問題がないですし」
佳苗が目を伏せて笑ったので、芽衣子は戦闘モードを取り戻した。ただし限りなく静かに。
「それは望月さんの子供を、ということですよね? ありませんよ。それに嘘もなにも、もう望月さんとはお会いしていませんから」
「別れたの?」佳苗の口調がぞんざいになった。そして同志を得たかのようにほっとした顔をし、堰を切ったかのように話しだした。「あの人、やっぱりちょっとうまく関われないタイプというか......なんていうか、一緒にいると疲れる人間だと思いません? だいたい、何を考えているかわからない。娘がいるのはご存じですよね。子供の親としてふさわしいとも......」
そこでウェイトレスがハーブティーとコーヒーを運んでくる。芽衣子は得も言われぬ違和感を潜ませながら、カップがテーブルに置かれ、ウェイトレスが去るまでの動きをじっと見つめた。この違和感はなんだろう。私がここにいる違和感。そうではない。私が彼女の話を聞いている違和感。彼女の語る内容の違和感。
「......ふさわしいとも思えなかった。だから私は、あの人が誰と付き合おうと気にしてないんですよ」
佳苗は伏せていた視線を上げ、ずいぶんさっぱりした顔で芽衣子を見た。虚勢のようにはとても思えない。この人は本当に、雅人から離れてしまっているのだ。だったらどうして。
「だったらどうして離婚しないんです?」
それは駆け引き抜きで出てきた質問だった。芽衣子には、この夫婦のありようが理解できなかった。佳苗は屈託のない笑顔を向ける。
「子供のために決まってるでしょう。うちの子、私と同じ学園に通ってること、ご存じですよね。あそこは両親揃っていないと入園できないんですよ。もっともお子さんがいらっしゃらないと、なかなかわからない世界だとは思います」
「そうですね」と相槌をうってみたが、やはり実感できない。
「今4才でしょう? 小学校入学の審査までは気が抜けないの」
「大変でしょうね」笑顔で答えて、芽衣子はコーヒーに口をつける。次にどんな言葉が出てくるのかと警戒しながら。
「でね、しばらく前にこれが郵便で来たんです」佳苗がキャメルのケリーバッグから白い封筒を取り出し、一枚の薄っぺらい紙をテーブルに広げた。よく知っている雅人の筆跡で名前が入った離婚届。「だからお子さんができたのかな、って」
ファミレスのテーブルの上に無造作に置かれた離婚届を見下ろしながら、佳苗はポットからハーブティーをカップに注いでいる。芽衣子は力づくで微笑もうとしたが、甲斐なくただ口を結んだだけだった。
「これ......いつ届いたんですか?」
「いつだったかしら。半月くらい前かな」
芽衣子は頭の中で、時間を半月前に遡らせた。雅人が荷物を持って出て行った少し前、つまりは芽衣子が出て行かせた少し前だ。おそらく雅人はその頃、再検査をして手術が必要だと知らされた。そして離婚届を妻に送った。私には、嘘とも本当ともつかない病気の話を切り出し、都合のいい言い訳じみた言葉を並べて私を怒らせ、そのまま出て行った。
体裁を保つための口実ではなかったのだ。
芽衣子は無意識に両手で口を覆い、目の前にいる人間の目を見つめた。佳苗はファミレスらしからぬ優雅さで、安いハーブティーを飲んでいる。
この人は、何も知らされていない。
芽衣子はわずかな優越感を感じた。それと同時に、優越感など覆い隠すくらいの寂しさを感じた。大切な現実を知らされていない佳苗に対して。それなのに自分は知ってしまったことに対して。シャッターを下ろしたまま進もうとしている雅人に対して。
事実を確かめる必要がある。今どこに雅人がいるのか。芽衣子はほんの一瞬の間に頭の中をフル稼働させた。雅人の番号はそらで憶えているけれど、もし病院内にいるなら携帯電話はつながらないだろう。他に連絡が取れる人間は、目の前にいる佳苗だけで、この人はなにも知らない。
まだ手段はあるはず。あるはず。スタート地点を思い出せ。雅人と知り合ったのは、いとこの恭子の結婚パーティーだ。あの子の連絡先は、確か妹が知っている。
芽衣子は佳苗の存在を忘れ、携帯電話を取りだした。妹はすぐに電話に出た。「お姉ちゃんひさしぶりだね」と無邪気に答える妹から恭子の番号を聞き出し、手帳に書き殴っていく。恭子の夫になった人が、雅人の同僚だった。
何かにとりつかれたようにあわただしく電話をかける芽衣子を、佳苗は首をかしげて眺めていた。しかし今は事態の説明をする余裕はない。なにせ恭子の職場は携帯電話を携帯できるのかどうかもわからない。セキュリティが厳しければ着信に気付くのは30分後の昼時だろう。
数回のコールのあと、恭子が出た。「芽衣ちゃんから電話が来るなんて、何かあったの」と不審がりながら。
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