蝉とチャイルドシート 5

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 和喜はエンジンを止めた車内の中でうつむいている。どうやら携帯電話を見つめているらしい。それから顔をあげて表へ出て、何かを考えているように、車に手をかけてしばらくじっと立ちすくんでいた。ドアの外でその様子を眺めているいずみにまったく気付かないので、いずみは「バカじゃないの」とひとりごとを言った。

 

振り向いた和喜と目が合った。それでもまだ気付かない。子供の頃から視力1.5をキープしているいずみと違って、和喜は目が悪いのだ。和喜はまたうつむいて、困り果てたようにアスファルトに座りこみ、さっきいずみが芽衣子達を待っていた時と同じように夜空をあおいだ。

何を考えているのだろう。何を考えているのかわかれば、いろいろなことが楽なのに。わからないから相手の心をさぐって不安になったり、取り越し苦労をしたり、悲しんだりする。でもいずみはせっかちだ。不安で悲しいことはできるだけ早くとっぱらってしまいたくなる。スタートラインに立ったら早く走りだしてしまいたいのだ。

 

「あのバカ、なにやってんのよ」

いずみは舌打ちをし、ぺたぺたとサンダルの音を立てて歩き出した。足音に気付いた和喜が振り返り、視力の悪い人がよくするように目を細めていずみを確認すると、転がるように立ちあがった。

 

 顔を見合せたまま、お互いにどちらかが口を開くのを待つ。その数秒間が、いずみにはとても長い時間のように感じられた。

「帰ろうよ」

 最初に言葉を発したのは和喜だった。いずみは沈黙を守った。どう答えればいいのか自分の中で決着がついていなかった。

「悠太と由香は寝てる?」

 いずみは黙ったまま首を縦に振った。和喜は安心したように何度か小さくうなずくと、口をへの字に曲げた。言いにくいことを言わなければいけない時にはいつも、こういう顔をする。

「いずみが怒るのはわかるけど、誤解だから。本当に何にもないんだよ。誤解させたことについては悪かったと思ってるし、謝る。本当にごめんなさい」

 和喜は頭をたれてしばらく上げなかった。何年も一緒に暮らしてきた人間の嘘くらい見抜ける。誤解だというのが嘘であるのは和喜の表情から手に取るようにわかっていた。そのうえ、いずみが嘘を見抜いていると和喜が勘づいていることさえわかってしまった。そして「本当にごめんなさい」という言葉が嘘ではないこともわかった。夜空を見上げていた和喜が何を考えているのかはわからなかったが、こういうことはわかってしまうのが悔しい。

 

ん? ということは。自分のしたことを許せるかどうか質問されているのも同然じゃないの。

そう来たか、と苦々しく思いながら、いずみはまだ黙っていた。今回許したら味をしめて、また私が許す立場にまわるはめになるかもしれない。それでもまだこの人と一緒にいたいと思えるだろうか。いつかまた裏切られた時に、一緒にいたいと思えるだろうか。この先、自分がどう考えるかわからない。

「わからないよ」

 いずみがつぶやき、和喜がいぶかしげな顔をする。計画的な人生を歩んできたような気でいたけれど、本当はそんなに器用じゃないのだ。何が起こるかわからない未来での選択なんてわかるはずがないじゃない。でも今、この瞬間の選択なら答が出せるかもしれない。集中しろ、集中。和喜は顔を上げていずみを見た。

「悠太と由香も一緒に、もう帰ろうよ。ね?」

きっとこの言葉が和喜にとっての限界なのだ。私の人生は小説やドラマじゃない。「愛しているのは君だけだ」だとか「君がいなければ死んでしまう」なんていう甘い言葉など、現実には与えられないのだ。少なくとも私が関わっている現実の中では。その中で私は生きていて、これからも生き続ける。できるだけ幸せに近づこうとしながら生き続ける。そんないっぱいいっぱいの人生の中で、私はどういう選択をすればいいのだろう。

ふと母のことを考えた。母は父を許さずに別れ、それでも自分の人生を気に入っていると言った。

で、私の選択は?

 

月明かりなのか街灯なのか、車の中にあわい光が差し込んで、手触りさえ覚えているチャイルドシートがいずみの目に入った。懐かしくて涙が出そうになったので、ぎゅっと奥歯をかんだ。

よし、決めた。

「じゃあ悠太と由香を起してよ。爆睡してるから、起こしたらきっとぐずって泣くから覚悟して」

 それがいずみの選択だった。

和喜はうなずいて、顔を少しだけゆがめた。笑ったようで泣きそうな、変な顔だった。

いずみが先を歩くと、和喜が手を握った。思いもしない行動に驚いて、いずみはしばらくぶりに胸が高まった。まだ一緒にいたいと思った。こんなことがあってもまだ一緒にいたいと思うなんて人間って不思議な生き物だ、と考えながら空を見た。

いずみは和喜を許すことを選んだ。嘘をついたうえに許しを乞う人を嫌い切れず許してしまった自分を、誰かに許してほしい。きっと母は許してくれるに違いない。きっと母ならわかってくれるだろう。

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