「一緒にいて芽衣子が得する未来なんてひとつもないんだよ。芽衣子はまだ若いし健康できれいで、しかも人好きのする人間じゃないか。芽衣子の持っている未来は安定した穏やかな未来に違いなのに、たった2年間のためにわざわざ苦労を背負いこむ意味があるの?」
知り合ってからの間、雅人がこんなふうに自分の思いを吐き出すのは初めてだった。自分の思いのはずなのに、この人はまるで他人事のように自分を語る。目の前に現れた状況を、他人事に振りかかった出来事のように処理していく。
志保がよく芽衣子のことを秘密主義と言うけれど、この人はそれ以上だ。鼻先でシャッターを下ろされた気分を、いつもは下ろす方の芽衣子が痛いほど味わった。そして雅人の閉ざしたシャッターはよく磨かれた鋼鉄製のように、厚過ぎ、硬過ぎて、手を触れても冷たい感触しか伝わってこない。再び触れるのが怖くなるほど冷たかった。
もう何を言っても冷たい扉を開けてはもらえないだろう。
涙が出てくるのは悔しさからなのか、怒りなのか、悲しみなのか。涙を流させている感情が何なのかなんて、こんな時はわからない。
少なくともわかったことは、もはや自分が必要のない人間ということだった。
「どうしてそんなに自分勝手なことができるのよ」
「ごめん」
「勝手に手術でもなんでもして死んじゃえばいいよ」
「ごめん」
なにを言っても静かに謝るだけの雅人に、もう食い下がっていく勇気はなかった。芽衣子は涙で時々咳き込み、ふらふらと立ち上がると、雅人が持ちこんでいたスポーツバッグをクローゼットの中から探し出し、ネクタイやTシャツ、下着などを乱暴に詰め始めた。
2年間の間に、芽衣子は何度か、思いつく数々の未来をシミュレートしてきた。雅人がいつか離婚届を出して自分と一緒に生活する未来。離婚が成立しないまま奇妙なバランスの中でいつまでも過ごす未来。不安定な毎日にうんざりして芽衣子自身が去っていく未来。雅人か芽衣子が他の相手に惹かれ、どちらかが傷つけ、どちらかが傷ついて別れる未来。他の相手の介在もなくお互いに興味を失って他人になる未来。
いろいろなハッピーエンディングやバッドエンディングを思い描きてきたのに、目の前の現実はシミュレーションの中にはないものだった。
芽衣子は荷物でふくれたスポーツバッグを、雅人の目の前にどすんと投げ出し、右手を広げた。
「鍵、返してよ。早く着替えていなくなって。私の前からいなくなってよ」
ソファに座ったままの雅人は、しばらく考え込むようにうつむいていたが「ごめん」とつぶやくと、立ちあがって着替え、合鍵をテーブルの上に置き、バッグを持って出て行った。芽衣子はその間ずっと背中を向け、鍵が揺れる音とドアの閉まる音を聞いていた。
翌日のまだ暗い時間、目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。
部屋は眠る前と何も変わっていず、タオルケットの中で頭がぼんやりとかすんでいた。重い体をひきずるように起き出し、テーブルの上の合鍵を見てようやくゆうべの出来事が現実であることを思い知った。洗面台に置き忘れているそじた歯ブラシは、プラごみの袋に捨てた。携帯電話から雅人の番号と過去の受信メールをきれいに消した。朝日がカーテンの隙間から差し込む間も、ただ機械的に作業を進めた。
もう連絡を取ることはないだろう。これは修復可能な諍いなどではなく別れなのだ。
私生活のごたごたを職場には持ち出さないと決めている芽衣子は、自分でもよくやっていると褒めたいほどに平然と仕事をこなしていたが、店長だけはあざむけなかった。
「何かあったみたいね。ここんとこブスになってるわよ」
ある日の昼前、カウンターの客がひけた時に店長が小声で言った。芽衣子はできるだけ明るく微笑み、小声で返した。
「さすが店長、するどいですね。実は何日か前に男と別れたんです」
「なるほどね。あなたあんまりいい恋愛してなさそうだったもの」
芽衣子は左右を見回して他のスタッフに聞こえないことを確認してから、唇に人差し指をあてた。
「これ店長以外は内緒ですけど、相手は妻と別居してる子持ちだったんです。2年くらい付き合ったんですけど、早期ガンに罹ってもう未来はないから別れてくれって。病院も教えてくれないままいなくなったんです」
店長は眉根を寄せて驚いたように芽衣子をじっと見た。その時、客の気配を感じ、芽衣子は接客を始めた。小一時間が過ぎ、またカウンターに静寂が訪れた頃、メイクブラシの整理をしていた芽衣子に店長が近づいてささやいた。
「こう言っちゃなんだけど、本当に病気のせいなのかちゃんと確認したの? 相手は家庭のある人だったのよね? あなたと別れる体の良い嘘かもしれないじゃないの」
それは芽衣子が考えもしなかった見方だった。そもそもすべてが嘘という可能性も、あったのだ。
「嘘だなんて考えもしなかった、っていう顔ね。でも私、性格悪いからそういうこと考えちゃうわけよ。あなただって何が何でも追いすがってつなぎとめようとはしなかったのよね? ということはそもそもその程度のつながりだったってこと。もう忘れちゃいなさい。あなたならもっと上の男が見つかるって」
店長はぽんぽんと芽衣子の背中を叩いて、営業顔に戻った。芽衣子は当たり障りのない表情でうなずいたが、上ってなんだろうという違和感は拭えなかった。
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