日向の車はシルバーのダイハツムーヴで、左の側面には目測を誤ってポールにでもぶつかったような、擦ってへこんだ跡があった。かろうじてエアコンはついているがカーナビはなく、助手席には、これも譲ってもらったというぼろぼろに使い込んだ全国地図が無造作に置いてあった。
本当に桐生まで行けるのだろうかと芽衣子は呆れたが、心のどこかでは子供のようにこの奇妙な状況を楽しんでいた。なるようになれ、とも思った。
せっかくだから志保を助手席に座らせて自分はさっさと寝てしまおう、二人きりにしてあげようと考えていたのに、「地図なんか見たら車酔いして吐く」と志保は後部座席をひとり占めし、それでも楽しくて笑いが止まらないようだ。
「CDプレーヤーくらい装備してないわけ?」
と文句を言いつつも、車が走り出してからずっとFMラジオから流れる曲に合わせて鼻歌を歌っている。
シートはごつごつしてお世辞にも座り心地が良いとは言えず、エアコンの風も生ぬるい。
揺れる手で、芽衣子はさっきからしきりにいずみへメールを送っていた。「車でこれから桐生に行く」「嘘でしょ?」「嘘じゃなくて」「またまたご冗談を」のような進展のないやりとりが続き、いい加減イライラしてきて電話をかけた。それでやっといずみは、三人が本当にドライブを始めたことを悟ったらしく「気をつけて来てね。起きて待ってるから」と柔らかい声で答えた。
起きて待ってるから。
その言葉を本当は私達にではなくオイちゃんに言いたいのではないかと、芽衣子は思った。きっといずみは、夫が最後には自分を見つけ出して迎えに来ると信じているのだろう。オイちゃんが逃げていかない、逃げさせないギリギリのラインを要領よく見極めたうえで、何もかもを計画したのだろう。
そんな気がしてならなかった。
「なんか超楽しいんですけど!ちょっと窓開けていい?エアコンぜんぜん効かないから窓開けた方が気持ちよくない?」
志保が後部座席から身を乗り出して言う。日向がういっすと気の抜けた返事をして、ウィンドウのスイッチを押した。窓が少しだけ下りて、風がするすると流れ込んでくる。
そういえばさっきからちっとも地図を確認していないことに気づいた。
「ごめんね、ぜんぜん地図、見てなくて。関越に乗るんだよね」
「大丈夫っす。野生の勘でなんとなくわかるんで」
うしろで志保が大きな声をあげてひとしきり笑い、「なんだその野生の勘ってのは」と言いながら日向の頭をぐりぐりいじりまわす。
「うわちょっと志保さん、危ないっすよ。オレらまだ死にたくないっしょ?」
確かに、と芽衣子はうなずいた。
「野生の勘ってのは冗談で、オレちょっとだけ群馬に住んでたことあるんですよ。だから少しだけ土地勘あるっていうか、行き方は知ってるわけです。つまり帰り方もですけど」
「そうなんだ。親戚か誰かがいるの?」芽衣子はそじたページだらけの地図をバサッと閉じた。
「昔、母ちゃんと一緒に住んでたんですよ。で、母ちゃんが今の父ちゃんと再婚して東京に来たわけです」
後部座席の志保が突然おとなしくなった。志保が今まで聞いたことのない、日向のエピソードだったのだろう。
「それじゃあ10こ年上のハルヤっていうお兄さんは?」志保がまた身を乗り出す。
「兄貴は父ちゃんの連れ子っす。オレが一緒に住み始めた時はもう二十歳で。年が離れてたせいかな、なんていうかかっこよかった。真似ばっかしてたな。オレ以外の家族みんな大人で、オレだけお子さまって感じで、けっこう必死に大人ぶってたんですけどね。まあリアルにガキだから何やってもガキだったけど」
「......あたし、影山日向はカゲなんだかヒナタなんだか、どっちなんだよ親的にはとか言ってたけど......なんかごめん」
志保の気落ちした声を聞いて、芽衣子は静かに振り返った。すると何が面白いのか、日向はうはははと甲高いで笑い出した。
「ていうかね、オレはもともとナカムラヒナタだけど、兄貴なんかすげえっすよ。ハルヤって空が晴れてる晴れっていう字とヤっすから。しかも本当は親父はハレルヤと読ませたかったらしいけど、まわり全員に反対されてカゲヤマハルヤ。ぜんぜんキリスト教でもないし、むしろ臨済宗の寺の檀家だし。アホでしょ、あの親父」
"ヤ"はどの漢字なのかという説明がまったくなかったのが芽衣子は気になったけれど、日向が父親や兄のことを話す顔が穏やかなのを見て、少し微笑んでしまった。きっと穏やかな思い出がたくさんあるのだろう。
どんな状況でも、穏やかに過ごせる種はいくらでも見つけられるのに。
私は雅人との間に、とうとう種を見つけられなかった。雅人の胸の内が読みとれないまま、雅人を手放してしまった。
「お母さんとお父さんは、いいめぐりあわせだったんだね」
気づくと芽衣子はそう言っていた。ありきたりで陳腐な言葉だとは知っていながら。志保が、「そうだねそうに決まってるよ」とごつごつしたシートを叩く。
「それが、今んとこどうなんだかわからないんですよ、オレ。母ちゃんは再婚して5年で死んだんです。胃がんで」
その言葉を聞いた芽衣子の体はこわばった。あの日、雅人の言った言葉が頭の中に響いた。背後で、志保が息をのみこんでいる気配がわかる。
「せっかく再婚したのに5年っすよ?みんな"亡くなった"とか言うけど、オレ的には"死んだ"って感じで。その方が本当に死んだ感じがするじゃないすか。"亡くなった"ってさ、なんか嘘くさいじゃんね」
血のつながった親がいなくなってもなお、この人は家族となった人達と穏やかに過ごしている。そういう生活が成り立っている。それはいったい、どんなつながりなのだろう。愛、情が移る、しがらみ、慈悲、慣れ合い、日常。どれも正解のようで、どれも不正解のように思える。
窓の外を眺めると、街路灯やコンビニやファミレスの明かりが早回しでうしろへ流れていった。信号待ちをしている若い女の子と一瞬目が合ったけれど、彼女とはもう二度と会うことはない。歩道を歩いているカップルを追い越した。こんな夜中に豆芝を連れて散歩をしている。彼らとも二度と会うことはない。
人生の中でほんの一瞬だけ目を合わせた相手でも、何年かのあいだ同じベッドで眠った相手でも、もう会わなければただ記憶の中の人間になってしまう。死んでしまった日向の母親のように、思い出の中だけで生きる人間に。
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