「いらっしゃいませ」
ロングアイランドアイスティーを飲み、心なしか頭がふらふらしてきた志保が首をまわすと、ドアを開けた芽衣子がけげんそうな顔で店内を見回しているところだった。志保が手を振るといくぶんほっとしたようにカウンターに近づいてくる。夜遊びをするタイプではない芽衣子は、この手の店には来慣れていないらしく、ぎこちなく様子をうかがいながらスツールに座った。
「こんばんは。この人が噂の芽衣子さんすね。志保さんが言うとおり、めっちゃ美人すね」
日向の言葉を聞いて、志保はしまったと息をのみこんだ。合コンでもない限り、女はきれいだったり人目をひいたりする友達と一緒にいるのが案外好きだ。こんな魅力的な友達がいる自分ってけっこうすてきかも、と自己満足できる。いつもなら。
今日はしかし、芽衣子が隣に置くことすなわち、赤いあまおうの載ったふわふわショートケーキの隣に駄菓子屋の串カステラを置くようなものだ。どう考えても見劣りするに決まっている。
芽衣子が「いつもこのバカがお世話になっていて、すみません。あんた何飲んでるの?」と母親のようなことを言うので、さらにむくれていい加減に答える。
「ロングなんとかティー。うまい」
「それってけっこう強いカクテルじゃなかった?」
すると間髪いれず日向が答えた。
「いやあの、大丈夫......かどうかわからないけど、いちおう半分サイズにして間に水飲んでもらってます。芽衣子さんは何にします?」
ドリンクメニューを見たまま考えあぐねている芽衣子に、日向は「じゃあてきとうになんか作りますかね」と手を動かし始める。
たぶんメイ先輩が気に入るようなお酒を作るんだろうな、と心なしか苛立ってきたが、どうして苛立ってるのか自分の反応がよくわからない。
出されたグラスはほのかに琥珀色をしていて、口をつけた芽衣子が美味しそうに顔をほころばせた。やっぱりメイ先輩、かわいいな。あんなぐずぐず離婚しないでいる男となんか付き合わなくても、もっとふさわしい人がいそうなのに。
「ハーブ入りの酒がベースなんすよ。なんとなく疲れてそうだから薬草系の酒で気合入れときました」
ふさわしい人がこの金髪坊主頭だとはどう考えても思えないけれど、こいつはさりげなく気を利かせてメイ先輩にちょうどいいお酒を作っている。これが日向の仕事で、あたしみたいに仕事なんてお金もらえればいいやというスタンスではなく、ちゃんと責任やら何やらを抱えて挑んでいる。そんなところを見せられると、バカの森の住人だった日向が遠い平原に去っていくようで心細い。
いや、そうじゃなくて。心細いとかそういうことじゃなくて。この気持は......。
もしかして、恋、とか?
「そんなわけないっつーの!」
思いがけず大きな声で叫んでしまい、芽衣子と日向がぎょっとして志保を見つめる。
「だ、大丈夫っすか?」
「志保、あんた飲み過ぎなんじゃない?」
飲み過ぎなほど、まだ飲んではいない。志保は「ぜんぜん大丈夫。思い出しつっこみだから気にしないで」とにっこり微笑み、他の話題を探して気持を落ちつけようと、頭の中をぐるぐる回転させた。
そうだ、メイ先輩の不審なほど高揚した返信メール。話題と言ったらそれしかない。というか今日は最初からその理由を探ろうと思っていたのだった。
「絶対に断わられると思ってたのに今日はずいぶん付き合いよくない?なんかあったでしょ?」
「まあね」
「やっぱり、なんかあったんだ」
秘密主義の芽衣子は、たいてい触りの部分だけさらっと流し、詳しいことはあまり喋ってくれない。もったいぶっているわけではなくて、自分のことを話すが苦手なのだろう。たぶん今日も同じ。また「いろいろあったけど別に」とか「たいしたことじゃないから」とか捨てぜりふを残してシャッターを閉めてしまうに違いない。
芽衣子は膝に載せていたバッグを邪魔そうにもてあましていたが、日向に「隣に置いちゃっていいすよ」と言われて隣のスツールに移動させている。そうして座り直すと、こともなげに言った。
「望月君と別れた」
「まじで!」
のっけからストレートなネタばれ告白を投げらつけられて、志保がスツールから転げ落ちそうになりながら反射的にカウンター越しの日向を見ると、「いきなり佳境っぽい会話っすね。オレ聞いちゃってもいいんすか?」と少しあとずさった。芽衣子はグラスに口をつけながら、さもおかしそうにくくくと笑った。
「日向君、なんだか反応が志保に似てて笑える。聞いても別にいいですよ。付き合っていた人と別れたってだけで、たいした話じゃないし」
「つーかメイ先輩、それってたいした話じゃん。だってさ、やっぱり奥さんのところに帰ったとか......」そこまで言って慌てて両手で口をふさぐ。「......ごめん」
「志保ってこういうことにだけは本当に勘がいいんだよね」
芽衣子とイタリアンレストランで食事をした時から半月も経っていない。その間に何があったんだろう。恋人と別れたという割には、芽衣子はそれほど気落ちしているようにも見えない。かといって、ぐずぐず男と縁が切れてすっきりしたという様子にも見えない。悲しそうでもなく嬉しそうでもない。淡々としている芽衣子の表情からは、何も読み取れなかった。不自然なほど明るかったメールのほうが、よほど鬼気迫るものがあってわかりやすかった。
メイ先輩、もう心の中で片をつけちゃったのかな。
「というわけで、この話は終わり」
「は?終わりなの?まだ何も話してないのに?」
「もっと楽しい話しよう」
「楽しい話なんか、別に思いつかないし」
いちど芽衣子が下したシャッターを再び開けてもらうのは、いつだってなかなか難しい。
「たとえば、ふたりが通ってるお絵描き教室の話なんて楽しそうじゃない」
日向がぶはっと笑い「お絵描きって、幼稚園児すか」と言った。
「こういう......なんていうか前衛的な絵を描く教室なの?ごめん、私絵のことはよくわからなくて。志保は確かデッサンを描いてるって」
芽衣子はスツールをくるりと回して壁を向き、日向の描いた原色の動物達を不思議そうな顔で眺めている。どうやらシャッターを開ける気はなさそうだ。志保にはもう別れ話のことを聞き出す勇気がなかった。今話したくないのなら、いつか話せる時が来るまでそのままにしておいた方がいいとぼんやり思うものの、ロングなんとかティーのせいか、思考がうまくまとまらない。
「そうです。デッサン教室。オレやばいくらい下手なんで、いつも志保さんに教えてもらってます。けっこう鋭いアドバイスしてくれるんすよね。ていうかせっかく褒めてんのに、聞いてます?」
とつぜん話題を振られた志保は、驚いてとっさにちぐはぐな返事をしてしまった。
「は?ええとそうそう。なんせ後輩だし、こいつ絵の才能ぜんぜんねーし、オネエな先生にいろいろやられちゃってるし」
「いろいろって、もしかして日向君てゲイなの?」
芽衣子が真顔で問いかけると、日向は否定も肯定もせずにやにや笑いつつCD棚に向かって歩いた。
なに、そのリアクションは。
にやけたまま答えない日向の横顔を目で追いながら、志保の内臓は浮き上がった。まるで絶叫マシーンの最高部からごごごごと落下する瞬間みたいに。
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