「いらっしゃい。オダさん、今日はなんか疲れてないっすか?」
オダさんと呼ばれた男は、右手を上げ口をへの字にして何度かうなずいただけで、なにも喋らない。
日向は「なんにします?」と言いながら、カウンターにギネスとスーパードライの瓶を置く。
なんにしますって、もう酒出してるじゃん。そう思いながら志保が見つめていると、男は自分でグラスに茶色い液体と金色の液体を注ぎ「ベガーズバンケット」と小さな声でつぶやいた。日向は、ういっすと返しながらレコード棚の中から1枚をひきだし、ターンテーブルに載せた。
「あ、音楽のことか!」
志保が言うと、男はにやりと笑ってうなずいた。それきり喋らない。カウンターの中の日向も無理に話しかけようとせず、そそくさと志保の正面に戻ってきた。
「というわけで、辞めるっす」
そうだ、カルチャースクールの話をしていたのだった。
理由のわからない動揺がまた志保の胸に戻ってきた。というか、あのお客さんのことを放っておいてそんな話を続けていてもいいのだろうか。日向はいっこうに気にしていない様子でべらべらと喋り続けるので、志保も気にしないことにした。
「正直、オレには絵は無理っすね。いけるかと思ったのは錯覚。また余裕ができたらやってみるけど、しばらく仕事に専念っすね。絵もあの講座も面白かったんだけどな。講師のおじいちゃんもすげえ面白かったし」
「先生にはだいぶ気に入られてたじゃん。なんかあやしいことされなかった?」
そんな他愛のないつっこみじゃなくて、もっと言いたいことがあるような気がするのに。どうして辞めんのよ、とか?でも理由は今聞いたばかりだ。せっかく気が合いそうな受講生が入ったのに残念、とか?それも少し違うように思える。
「うはは。あやしいことなんかされないっすよ。だいたいあの人ゲイじゃないっすよ。オレ聞いたんだけど......」
「聞いたって、先生に直接?」
「そう。ゲイですかって。そしたら、違うわよー女の人が好きですよーみんないろいろ噂しているけれどもそれも楽しいじゃない、って言ってたし。あの人なんでも楽しいんすよね。うらやましいよね、ああいう人生。オレ知らなかったんだけど、けっこう有名な画家なんすよね?兄貴に講座のことを話したら、その人はいろんな本の装丁画を描いてるって。オレ小説とかあんまり読まないからな」
あの先生に核心を突く質問をしたとは。今まで誰も触れなかったのに、しかも回答を引き出すとは。怖いもの知らずだ。
それはまあいいとして、あたしはいったい今、何を言いたいと思っているんだろう。とりあえず思いついたことを口にしてみる。
「お兄さんがいるんだ。いくつ違い?」
言いたいのはそんなことじゃないはずだ。
瞳をぐるりと天井に向けて考えると、糸で縫ったまぶたが少しひきつれた。
するとカウンターの端で音楽に合わせ足首をかたかた動かせていた男がいきなり「10才年上」と言った。思考を遮られた志保が眉をひそめてとっさに横を向くと、男は「日向君のお兄さんはハルヤ君という名前でここのオーナー。他に西荻と吉祥寺に店持ってる。ちなみに親父は池袋で焼き鳥屋」と付け加えた。
なんなんだ、このおっさんは。
「さすがオダさん。オープンからこの店の常連ですもんね。オレらのことはなんでも知ってるんすよ、オダさんは」
日向が屈託なく笑うと、男は満足げにうなずいて琥珀色のグラスに口をつけた。志保は少し戸惑った微笑みを浮かべ「常連なんですか」と言ったが、男の反応はなかった。
「つーわけで、今のオダさんの説明どおり、オレは兄貴に雇われてるんす。親父の店も兄貴の店もそこそこ繁盛してて、まあオレは見習いってことでここを任されてる。ここはあんまり立地が良くないから、見習いが格闘するにはちょうどいいんでしょうね。売上伸ばせるか伸ばせないか、家族とはいえ結構シビアで」
「伸ばせなかったらどうなるわけ?」
「うーん......解雇っすね。負債抱えたら自力で返せ、面倒は見ねえと言われてるし」
まじで?
日向とカウンターの奥の男を交互に見ると、男は渋い顔をしてうんうんとうなずいた。
ただの"ゆとり"だと思っていたのに、案外厳しいところで生きてるんだ。もちろんただの"ゆとり"ではなさそうなことくらい、意外と律儀なところや人へのこなれた接し方を見ていて、ずいぶん前に気づいていたけれど、志保はあえてただの"ゆとり"扱いをしてきた。
ふいに店内に流れていた音が切れ、男が立ちあがる。レコードのB面が終わったのだ。日向は途中でターンテーブルの上のレコードをひっくりかえしていた。薄くて黒い板の両端を手のひらではさんで、くるっと手際よく回転させていた。CDしか扱ったことのない志保は、日向を手つきをじっと見た。今まで見たことない日向の動作が新鮮だった。
「オダさんお帰りですか。いつもありがとね」
男はうなずきながら1000円札を2枚カウンターに置いて出口に向かったが、ドアを半分ほど開けたところで突然振り返る。志保を見ている。ほんとになんなのよ、このおっさん。
「あなた、日向君の彼女かなにか?」
鋭い目線に射ぬかれ、志保は愛想笑いもできずに両手を顔の前で振り、必要以上の完全否定をした。
「ち、違いますよ!ただの友達!友達だよね、日向?」
男は表情を変えずに、ああそうと満足そうに言い残して店を出て行った。
日向はうははは、と笑いながら棚から別のCDを取り出してセットした。こんどは志保がクラブで聴いたことのあるエレクトロだったおかげで、酸素を得たように呼吸が楽になった。
「オダさん、変わってるでしょ。でもいい人なんすよ。息子が5才で亡くなったんだって。生きてりゃオレと同い年だって、オレのこと息子くらいに思ってんの。しかも奥さんにロックの古いレコードみんな捨てられちゃったそうで、会社帰りにここに聴きにくるわけっすよ。で、酒そんなに飲めないくせにギネスとスーパードライのハーフにして、ほとんど飲まないで2000円置いてくの。ほんとは1500円なのに」
「いつもあんななの?喋らなかったのは、あたしがいたから?」
「いや、いつもあんなっすよ。喋るの嫌いみたいだし、手酌させないと怒るし。家とか会社でどんなふうに過ごしてるか知らないけど、せっかくこういう場所に来たんだから、こういう時くらいは好きにさせてあげたいじゃん?」
そう言いながら日向はオダさんの飲み残しを片づけ、洗い物をしている。志保から少し離れたカウンター越しのシンクに向かっている金髪坊主頭を見ながら、むがかゆいような気持になった。
何度かふざけて頭をぐりぐり触ったことがあるけれど、もう気軽に触ってはいけないような気がする。
聡史の結婚式の二次会でせしめた2万8500円の一部を、あのエピソードをつまみに飲もうと思っていた自分が、とても小さい人間のように思える。
後を向いて壁画を見ると、最初は笑ってしまったヘソ付きのカエルも独創性豊かなものに思えてくる。滅入る。おいしかったモヒートもなくなった。
次、頼もう。メニューを見ると、酒をあまり飲まない志保にとっては何が入っているのかわからないカクテルがずらっと並んでいた。
「日向が勘当されないように売上に貢献するからさ。次、これにする。ロングなんとか」
指をさした箇所をカウンター越しにのぞきこんだ日向は、首を横に振った。
「これはやめた方がいいっすよ。名前はティーでもティーじゃなくて酒をばかばか入れた酒ミックスだから」
「いいから作れ」
「ていうか違うのにしません?」
「違うのじゃなくてこれがいいの。解雇されないように貢献するんだから、ちゃんとリクエストに答えろっての。そうそう、もうすぐ友達が来るから。その人、高校の先輩なんだけどいくら飲んでもぜんぜん酔っ払わないの。しかもあたしより金持ち。しかも超美人。がっつり飲ませて今日の売上稼いどきなよ」
「いや、そこまで経営状態悪くないんで......」
苦笑いをする日向を尻目に、志保は「早く来い」とメールを打った。
待ち合わせをしているのは芽衣子だ。普段なら絶対に断るはずの芽衣子が、今日に限ってはすんなりと誘いに乗ってくれた。仕事が早番で明日が休みだからというのが理由らしいけれど、これほどごねずに付き合ってくれるとは思っていなかったのでいくらか拍子抜けした。
そして、なにかがおかしいと思った。普段は腹が立つほどローテンションの芽衣子の返信メールが、今回は妙に高揚していた。
こういう時ばかり勘の働く志保は、きっと望月さんがらみでなにかあったのだろうと踏んだ。
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