「私もわからない。今のところどうなんだかわからないの。自分のしたことが良かったのか、悪かったのか」
関越道を走りだした頃、芽衣子はためらいながら、たどたどしく、少しずつ、話し始めた。鍵のかかった日記帳を開いてページを繰るように。
自分のことを話すのが苦手な芽衣子は、そういうやり方でしか話せない。家族のことを穏やかに笑い飛ばした日向や、元彼の結婚式の2次会で2万8500円を勝ち取った物語を、喜怒哀楽を交えて喋り倒した志保のようにはいかない。
あの日、雅人は他人事のように言った。
「おれ、肺ガンらしいんだよ。まいった。アンラッキーも甚だしい」
芽衣子は数秒のあいだ呼吸を忘れ、その場に立ちつくした。まるで昨日観た映画のあらすじについて語っているかのようで、少しも実感がわかない。
もういちど言って。それはどういうことなの。よくわからないからちゃんと説明して。胸のあたりからはいろいろな言葉が生まれてくるものの、喉をふさがれたように口より外に出ていかなかった。
明かりのつけていないキッチンスペースの入り口に立っている雅人は、部屋の蛍光灯をうしろから受けて影になっていた。どんな表情をしているのか芽衣子にはよく見えない。
「まあ肺ガンと言っても初期の初期だから、5年生存率は80%くらいあるんだ」
ゴネンセイゾンリツ。ハチジュッパーセント。芽衣子は口の中で声にならないおうむ返しをした。
「とりあえず入院して手術、することになったんだよ。で、そのあとはもしかしたら抗がん剤」
影になって表情のわからないままの雅人は、うん、とひとりでうなずくとまたソファに座りなおした。チャンピオンズリーグの録画が映し出されたテレビから、誰かがゴールを決めたらしい英語の実況が聞こえてくる。芽衣子はシンクに体を預けながらようやく明かりのついた居間に戻り、雅人の隣に座った。
「別の病院でもう一回検査してもらおうよ。間違いってことも......」
「それがさ、検査はもう十分やったんだ」
雅人とは毎日会っているわけではないし、その日何をしていたのかを事細かに報告し合うような習慣もなかった。健康診断があったという話題はしばらく前の夕食時に聞いていた。その日の夕食に何を食べたすら覚えていないほどの些細な日常のひとこまだった。芽衣子にとっては普段どおりの日々の中で、雅人は再検査を受け、肺にファイバースコープを入れ、ひとりでがんの告知を受けていた。何も知らずに過ごしていた日々を振り返り、芽衣子は自分を責めた。何も教えてくれなかった雅人のことも、心のどこかで責めていた。
「でも、だって煙草も吸わないし......」
「喫煙者じゃなくても肺ガンにはなるんだよ。うちの親父と伯父がそうだからね。いわゆるガン家系ってやつなんだろうな。とりあえず親父よりは長生きできるとは思ってるんだけど」
雅人の父親は40代半ばで、伯父にあたる人はもっと早くに亡くなったことを、芽衣子は思い出した。あまり家族のことを話さない、というより芽衣子も積極的には聞かなかったからなのだが、一度だけ雅人がそういう話をしたことがあった。
黒縁メガネの奥を見つめると、雅人はいつもと変わらず飄々とした顔でこちらを見つめ返した。雅人が平然としているのが、芽衣子にとっては少しだけ救いだった。これで雅人まで取り乱していたら芽衣子は話し続けることすらできなかっただろう。
「手術はいつ?いつからどの病院に入院するの?そうだ、入院するならいろいろ準備が必要でしょ。下着とかパジャマとか......パジャマより寝巻みたいなものの方がいいのかな」
とても落ち着いてなどいられず立ち上がった芽衣子の腕を、雅人はやんわりとつかんだ。振り返って見下ろすと、雅人は首をゆっくり横に振り、小さな子を諭すように言った。
「準備はしなくていいんだ。それは自分でやるから大丈夫。芽衣子は」雅人はそこで少し言葉を切った。「芽衣子は何もしなくていいんだよ」
なぜそんなことを言うの。そう思い振り払おうとした芽衣子の手首を、雅人は強い力でつかみ、芽衣子は崩れるようにソファに体を落とした。
その時にようやく気付いたのだった。雅人はただいつものように飄々としているのではなかった。低く響く声が、砂を含んだようにざらついている。たぶん、私が最も聞きたくないようなことを、これから聞くことになる。芽衣子は予感した。
「俺達、2年ほどしか一緒にいないよね。2年というのは短くもないけど、そう長くもない。仮に芽衣子が80才まで生きるとすると、2年なんて人生のうちのたった40分の1だ。芽衣子が学校に通っていた14年間やこれから先の50年に比べれば、ほんの短い時間だよ。だからまだまだ修正の余地がある。忘れてしまえる程度の月日だと思うんだ。だから終わりにしたい」
芽衣子はどんどん早くなる自分の呼吸に戸惑いながら、雅人をにらんだ。
「どうして、今、こんな状況で、そういうことになるのよ」
「勝手なのはわかってる。でも考えてみて。俺がその、女の人から見ればダメな人間だというのは自分でもわかってる。きちんと離婚もせずにずるずるそのままでいたり、自分のことしか考えずに行動したり、怒られてからじゃないと芽衣子の気持ちがわからなかったり。そのうえ健康でもない。以前話したと思うけど、親父は44才で死んだんだ。同じ肺ガンでね。俺だってそれほど長く生きていないかもしれない。今回の入院期間中は病休が取れるけど、もし再発でもしたら失業する可能性もある。そのうえ子供の養育費も払っているし、この先も必ず払い続けるだろう。そんな人間と一緒にいたい?」
いつかこんな日が来ることを考えなかったわけではない。ただ、すべてが唐突すぎるせいで、体から心がすっと離れていきそうだ。芽衣子は力任せに雅人に掴まれていた手を振りほどき、雅人の足を蹴り、開いた手で頭を上から殴った。雅人は避けずに殴られたままになっていたが、震える手はうまく当たらず、耳のあたりを無様にかすっただけだった。
手のひらに感じた痛みが、今にも離れようとしていた心を体に呼び戻した。芽衣子はもうそれ以上雅人の顔を見ていられず、浅い呼吸をしながらうつむいた。
「そうやって私のことを気遣ってるようなこと言って、どうせ帰るんでしょ。家族のところに」
雅人は答えない。泣くのは見苦しいと思っていた芽衣子の頬を、涙がつたった。いちど溢れるともう取り返しがつかないから、泣くのは嫌なのだ。
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