私は先に帰るから、目を覚ましたらそう言っといてね。
遠くでそんな声がしている。
志保はだるくて起き上がることができなかった。狭いスペースにむりやり体をねじ込み続けたせいで、いろんなところが痛い。胃もむかむかしている。肌がひんやりしているのはクーラーのせいで、でも太陽の光が当たる腕のあたりは暑い。
少しまぶたを開けるとコンタクトレンズ曇りが目を覆っていたので、頭がくらくらして再び目を閉じた。
「志保さーん。朝ですよー。起きてくださーい」
どれくらい時間が経ったのだろう。うなだれながら体を起こした。脚がむくんでいるのが触らなくてもわかるほどだ。
「ここどこ?」
「ここどこ?じゃないっすよ。うちの裏の駐車場」
「......ていうか、メイ先輩は?」
「駅で降ろして、とっくに帰ったすよ? 何度も言ったじゃん。しかも返事してたし。それじゃまたねー、とか言ってたじゃん」
はあ、そうだったっけ? よく覚えてないけれど言ったかもしれない。それより、体全体が気持ち悪くて、なによりも胃が気持ち悪い。やばい。
「あの......やばいです」
青白い顔でそれだけ言うと、日向は察したらしく「えええ! とりあえず下りて、オレんちで吐いてください!」と車のエンジンを止めた。
どれくらい時間が経ったのだろう。何度目かトイレのレバーをひねった頃、霧でもやもやしていた体の中はすっきりしてきた。
見知らぬユニットバス。便器に汚い染みがないことに気づき、しばらく便器と格闘していた志保としては、きれいなトイレでよかったなとほっとした。
立ち上がって洗面台で口をゆすぎ、手を洗いながら、あたりを見回す。クリーム色のシャワーカーテンには少しカビがあるものの、全体としてはわりあいきれいな空間。バスタブの中に、ドラッグストアで普通に売っているシャンプーとボディーソープのボトルが転がっていた。コンディショナーの類は見当たらない。
そっか、坊主頭だからだ。
そこでようやく、ここが日向の部屋だということに気づいた。今は何時なんだろう。ユニットバスには窓がない。
水を止める。バスルームの外で、規則正しいビートを刻む音楽がループしている。けっこうな音量なのに、今まで耳を素通りしていたようだ。これってもしかして、ゲロゲロ吐いてる音を聞かせたくないかもしれないというあたしへの配慮なの? だとしたらグッジョブでもあるけれど、そんな気配りをさせたあたしってなんなのよ。しかもその用意周到さがムカっとくるんですけど。
手を洗ってみたものの、タオルらしきものはその空間になかったので、鬼の首を取ったかのように志保は勢いよくユニットバスのドアを開けた。
「タオルないじゃん!」
返事はなかった。クーラーの効きすぎた部屋の中、日向は疲労困憊した様子で床の上に丸まり、いびきをかいていたのだ。志保は幽霊のように両手を垂らしたまま、膝をついて日向を覗きこんだ。少し口を開け、間抜けな顔をして寝ている。こんな無防備な顔をしている日向を見たのは初めてだったのでくくっと吹き出し、椅子の背にかけてあったモノクロ格子柄のバスタオルで静かに手を拭った。
ローテーブルの上に500ミリリットルの緑茶ペットボトルが2本置いてある。半分ほど飲んである方はきっと日向の分で、開けていない方は志保の分だろう。お茶じゃなくてコーラみたいなものが飲みたいと思いながら部屋の隅を見ると、自分のバッグが転がっていた。そういえばちゃんと持って車を下りた覚えがある。
バッグをまさぐり携帯を探す。時刻は6時42分。月曜から木曜までならやっと起き出す時間。ポーチを取り出し簡単に化粧を直す。
バッグの中には謎の白い袋も押しこまれていた。コンビニ袋。スミノフ・アイスの空きビンが2本も出てきた。そうだ、コンビニでこれを買って、メイ先輩が止めるのもきかず車の中で飲んだのだ。
「すげえ......よく飲めたな、あたし」
奇妙な真夜中ドライブをしたせいで気分が高揚していた。それでつい飲めもしない酒を買って、飲むなと言われるのが面白くて、飲んでしまったのだ。その結果のひとつが、さっきまでの吐き気とだるさ。でもまあいっか。面白かったし、もうすっかり元気になったから。しかし結果のもうひとつが、なんとも気まずい。
「あたしなんでここにいるんだろ......」
志保はあらためて部屋を眺めた。
日向が寝ていることを逆手に取り、うろうろ動き回ることもできた。備え付けの小さな冷蔵庫を開けて、念願のコーラも飲めた。というか勝手に飲んだ。14型のブラウン管テレビとDVDデッキを繋ぐ配線を見つめ、何が入っているのかわからない段ボール箱に触れ、ステンレススチールで組んだ棚の冷たい匂いをかいだ。そうすることでなにかがわかるかもしれないと思いながら。
探索した結果、片付いてないけれど清潔だった。まさに日向そのもののように。ただし、それは今、志保が抱いている日向の印象だ。本当の日向はもっとぐちゃぐちゃでどろどろかもしれない。それを見てみたい。
洗濯物はベッドの上に雑然と放り投げてあるけれど、床は掃除機がかけられている。CDが床に積み上げられているけれど、それは収納スペース不足のせいだろう。棚はタワレコかと思うくらいに整然とアルファベットのアーティスト順に整理されている。カーテンレールには、ハンガーにかけたTシャツやらが無造作に何枚か下がっているけれど、こっそり開いたクローゼットの中は整理棚と収納ボックスで仕切られていた。
「おまえは"すてきな奥さん"か......」
と小声で叫んだところで、突然思い出した。日向のゲイ疑惑。メイ先輩の問いかけに否定も肯定もしなかったということは、きっとそうなのだろう。だからこうして簡単に私なんかを部屋に上げるのだろう。
転がっている日向をよけて歩くと何かを踏んだ。そのとたんにループしていた音楽が消えた。ステレオのリモコンだ。座ってそれを拾いあれこれいじっていると、ひやりとしたものが二の腕に触れた。
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