「なにもここまでしなくてもさあ......携帯もまた鳴ってるし、出て返事してあげたら?」
母は抜かれた電話線をつまんで悲しげな顔をする。そんな顔をしたって、これは私と和喜と子供達の問題なのだから首をつっこまないでほしい。それにあなたがそんなことを言える義理はないはず。夫に捨てられたあなたの言葉に参考になることなどひとつもない。
そう思ったけれど、さすがに口に出すほど冷静さを失っているわけでもないし、そもそも実家に帰ってきておいて「首をつっこむな」とも言えない。
いずみは携帯も母も無視して、悠太をうまく寝かしつけることだけを考えた。ぐずりだした今がチャンスだ。既に眠っている由香も抱いて隣の部屋に用意した布団に連れて行き、一緒に寝ようと誘う。30分ほどぐずぐずした挙句、悠太はこてんと眠りについた。お昼寝もそれほどしないまま長い時間電車に乗ったり慣れない家で暴れたりしたのだから、体はぐたぐたに疲れていたに決まっている。
布団部屋のふすまを開けたまま居間へ戻ると、母が畳の上へ置きっぱなしにしていたいずみの携帯電話を眺めていた。
「何度も鳴ってたよ」
そう言う母をまた無視して携帯の着信履歴を確認した。
ママ友からの着信と留守録が2件あり、和喜がなけなしの連絡先を絞りだしてそのふたりに何かしらの連絡を取ったことが想像できた。
ふたりに「よくある夫婦喧嘩の末に実家に帰ってきている」という内容のメールを出すと、すぐに返信が来た。わかるわ、私もやったことあるから。たまにはガツンと思い知らせてやった方がいいの。戻ってきたら連絡してね、ケーキ食べまくろう、酒もアリかな。ふたりの返信内容を合計すると、そんな感じだった。
その他の着信とメールはすべて和喜からだ。いずみは携帯を閉じて、また畳の上に放り投げた。
台所からコーヒーのいい香りが漂い、母がお盆にカップをふたつ載せて現れる。
「夜なのにコーヒーなんて飲んだら、お母さん眠れなくなるでしょうが」
「大丈夫よ。ハシモトさんから豆をもらってさ、誰かのハワイ土産らしんだけどこれがなっから美味しくて。飲んでみい」
またハシモトさんか、とつぶやいたけれど母には聞こえなかったようだ。
「ねえ、お母さんおっかなくって聞けなかったんだけどさ、いったい何があったん? 何聞いても、お母さん怒りゃしないのに」
うん、と曖昧に答えたところで、また携帯電話に着信があった。沢村芽衣子という名前を見て、いずみは慌てて電話に出た。
―いずみちゃん? ちょっと、どこにいるのよ! え、きこえない。どこ? 実家?
聞こえないのはこっちの方だ、といずみは思った。芽衣子の声の後にはやたらとうるさい音楽が流れている。
―なんで実家にいるの? 悠太と由香も一緒なんだよね? さっきオイちゃんから電話があって、いずみ達のことを探してたの。私だけじゃないよ、志保のところにも電話があった。たぶん他にもいろいろ連絡しているはずよ。
「だろうね」
―だろうねって、何のんきなこと言ってんの。
「だって他にも友達とか知り合いとかから連絡入ってるもん。みんなけっこう心配してくれていて嬉しいっていうか、なんか人気者になった気分だよ。それにしてもあいつ本当にバカだね。誰かに聞けば行き先がわかるとでも思ってるのかな。自分で考えろっての。あ、私達が実家にいること、あいつに教えちゃだめですからね」
―どうして教えちゃだめなの?
「ダメ。絶対にダメ。考える気があれば、私達が他に行き先がないことくらいすぐにわかるはずだから。浮気する脳があるくらいなら行き先くらい簡単にわかるってもんでしょ」
いずみは陽気に笑った。すぐ近くで母が聞いていることも意識しながら会話を進める。こうしていれば、母に面と向かって事の顛末を話さずに済む。
「確実に浮気してるのに、自分は無実だと言い張んのよ。証拠もあがってるのに嘘をつくなんて、ほんと笑っちゃうでしょ。ああいうバカには天罰が下るの。制裁を加えてやるわよ。だから絶対に教えちゃダメだからね、わかった?」
電話を切ると、心拍数が上がっていた。何本も全力疾走をした時のように。ひどく気持ちが高ぶっている。
ハワイ土産だという香りのいいコーヒーは人肌に冷めていて、飲むと少し変わった味が口に広がる。思わず「美味しい」とつぶやいた。母のカップを見ると、褐色の液体は口をつけていないらしく少しも減っていない。
外は車も通らず、昼間はうるさいほど鳴いていた蝉の声もしない。聞こえるのは音量を落としたテレビの音だけだった。膝を崩していた母が、居心地が悪そうにがさごそ動き、テレビに目を向けたまま言った。
「和喜さんは浮気なんてしてないって言い張ってるんだね。そうに言ってる?」
いずみはカップを置いて何度かうなずいた。
「それなら悪くもない。んまあ、もちろんよくもないけど。お母さんが許せなかったのはそこだったいね」
母は少女のように少しはにかんで笑いコーヒーを飲み、話しだした。
それは、いずみが何度も聞いたことのある父と母のエピソード。レポート用紙1枚で収まってしまうくらいに短い話だった。
高校を卒業して就職した母は、ある日、高校時代の2つ上の先輩と再会した。
いずみの切れ長の一重の目は父に似ているらしい。昔の写真を見たことがあるが、確かに似ていた。母は、年を取った今でもそうだが、あまり華はないけれど良く見れば可愛らしい顔立ちをしている。社会人になり少し垢ぬけた母を、父は再発見したのだろう。
若いふたりは恋に落ち、周囲の反対を押し切って結婚した。この時ことさら抵抗したのは祖母で、そのために祖母と母はしばらくの間絶縁状態になった。定職はあるもののあまり誠実には思えない父を、祖母は気に入らなかったのだが、若い母はそんなことは完全に無視した。小さな賃貸アパートでふたりは暮らし、ほどなくして母はいずみを授かった。
いずみの記憶の中にある父は、寝付きの悪いいずみの横で前髪をすくように撫でてくれた。時々かん高い声でへんな歌を歌っていずみは笑い、もういっかい歌ってと何度もせがんだ。それがビートルズの「ミスター・ムーンライト」の出だしの部分だと知ったのはずいぶん後のことだ。
しかし父は別の居場所を作ってしまった。つまり浮気をしたのだ。「いずみのことは本当に可愛がっていたし、いずみが成人するまでは多くはないけれど養育費もきちんと入れていた」と母は言う。繰り返し聞かされてきたせいで、いずみの中では、昔々どこかの国であったおとぎ話のように現実味がなく、他人事みたいな話になっていた。
しかしその日のおとぎ話は少し趣が違った。いずみが初めて聞くくだりが付け加えられていたからだ。
「あの人、嘘もつかずに認めた。取り繕おうともしなかった。だから許せなくて、なんていうかね、もう要らないと思ったの。そういう人はもう要らない。で、こうなったいね」
母はさっぱりしたような顔で、崩した足の膝あたりをさすった。その仕草がまるで老婆じみていて、いずみははっと息をのんだ。母はもう若い頃の母でないのだ。
こうなったいね、なんて簡単に言ってるけど、どうなったっていうのよ。そう文句を言いかけてやめた。自分がなぜ子供を連れてここまで来たのか、その理由にようやく気付いたからだった。
私はここに甘えに来た。唯一、甘えてもいい存在だった和喜に裏切られ、私は甘えられる他の対象を求めていたのだ。やっとそれがわかり、いずみの苛立ちはフライパンの上のバターのようにゆっくりと溶けていく。
「許せないのは当然よ」
いずみがコーヒーの入ったカップを片づけ始めると、母は穏やかに笑い、いずみの片づけを引きづくように立ちあがった。
「まあ、お母さんはこれでいいし、これがいい。後悔してないと言ったら嘘になるけどさあ、こんな人生も私はなっから気に入ってんのよ。子供も寝たことだし東京から来て疲れたろうから、もういずみも寝りい」
カップを奪い取られたいずみは、立ちあがる母の後ろ姿を黙って見つめた。私にはまだ支えてくれる人がいるし、支えなければならない人もいる。
ごめんね。
それはとても小さな声だったせいで、母には届かなかったようだった。
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