小山駅に到着する直前で、ベビーカーにうずまって眠っている由香と、長旅に飽きていずみの膝につっぷして不機嫌そうにもにゃもにゃ動いている悠太を見て、はたと気がついた。
そういえば母親は車で迎えに来ると言っていた。電車じゃなくて車で。
母が乗っている車の名前は忘れたけれど、チャイルドシートなんてついていない軽車両だ。どうしてこんな重要なことを忘れていたんだろう。そんな車に子供達を乗せるわけにはいかじゃない。
いずみは慌てて母親にメールを送ったが、いっこうに返信が来ないまま電車はスピードを落とし始めた。仕方なくいずみは携帯電話をジーンズのポケットにねじ込み、バックパックを背負うと、悠太を立たせてベビーカーのハンドルを握った。
ドアを抜けてホームに降り立ち、ため息をついて顔をあげると、遠くのベンチに座っている母親と目が合った。母は相変わらず華奢で、もう五十代も半ばになるというのにいずみを見つけたとたん少女のように笑った。ひらひらギャザーの入ったスカートで可憐に微笑みながら近づいてくる母親に、いずみはむしょうに腹が立った。昔からそうだ。何にも考えてない。実行能力があるばかりで計画性がまるでない。母が口を開く前にいずみはまくしたてた。
「どうやって車で桐生まで行くのよ。チャイルドシートは? メール見てないの? どうしていつもそうやって......」
「メール? あらあほんと」
母はおっとりとバッグから携帯電話を取り出し、顔から40センチくらい離して眺めた。年甲斐もなく少女ぶってはいるものの体は正直に衰えているのが垣間見えて、いずみはそれ以上まくしたてる気が失せた。口をぎゅっと結んで怒りを抑えつける。目を覚ました由香が、んくんくと泣きだす前の呼吸を始めた。いいよなあ、子供って。不愉快な時は泣けばいいんだから。泣きたきゃ好きなだけ泣いてればいいわ。本当は私だって泣きたいくらい切羽詰まってるのよ。
母は携帯電話を丁寧にバッグにしまうと、膝を折って由香の相手をし始めた。悠太は祖母の顔を忘れてしまったのか、にやついた顔をしていずみの足の後に隠れている。母はなぜいずみが子連れで故郷へ帰ってきたのか問い正す様子も見せず、ただ楽しそうに悠太の手を取ったり、帽子をかぶりなおさせたりしている。しゃがんだ母はいずみを見上げた。
「遠かったもんねえ。車はさあ、運転手がいてチャイルドシートもあるだいね。ほら悠ちゃん、ばばちゃんと手繋いで行ぐ? 由香はいずみが抱っこした方がいいんじゃないかしら」
方言と標準語が入り混じっていて、そのことも今のいずみには気に入らない。娘がこんなに傷ついているのに、どうしてそうやって呑気にしていられるのだ。
「運転手ってどういうことよ」
「運転手? ああ、お友達だいね」
母は悠太の手を引いてすたすたと歩き、いずみはベビーカーを押して後をついて行った。駅を出ると母は迷うことなく白いミニバンに近づいていった。運転席に見える人影が動き、ウインドウが降りる。丸顔で額の禿げあがった男が満面の笑みで手を振り始めた。
「ちょっとお母さん、誰なのよ、あの人」
「誰って、ハシモトさんだがん」
「だからそのハシモトさんて誰なのよ?」
いずみの戸惑いは完全に無視された。ハシモトさんなる男が車から出てくるやいなや、いずみ達はその見知らぬ男に紹介された。小柄で小太りのハシモトさんは、よく見れば肌つやも良く母よりいくらか若いように思える。いったいこの人は誰なのだ。どうしてこの人が私達を家まで送ろうとしているのだ。いずみが由香をしっかり抱えて固まっている間に、ハシモトさんはベビーカーやらをトランクに詰め、不安げな顔をした悠太をチャイルドシートにくくりつけようとした。チャイルドシートはご丁寧にも2つ装備してある。
「ちょっと待ってよ。その前に2人のおむつ、替えさせてもらいますから」
いずみは挑戦的に吐き捨てると、手際良く由香と悠太のおむつを替えてシートに2人を固定し、自分も車に乗り込んだ。車が動き出すとハシモトさんの運転は柔らかく快適なので、それが気に入らない。
「いやあ、いずみちゃんは写真で見るよりもなっから美人でぶったまげたいなあ。今日は寿司でも取るようだね」
しらじらしくお世辞なんか言うのも気に入らない。だいたいなぜ私が帰ってきたのかと心配するでもない、この不自然に和やかな雰囲気はなんなのだ。帰ってこなければよかった、といずみは思った。この車の中には5人も人間がいるのに、味方はそのうちの2人だけだ。
「お寿司ねえ。悠ちゃんはお寿司は好きかい?」
助手席の母が振り返ったが、悠太はいずみを見たまま答えず、いずみはいい気味だとほくそ笑んだ。
「悠太が好きなのはハンバーグだよね」
「うん。ハンバーグ。ふりかけ」
「ふりかけも好きだよね。悠太の好きなふりかけ、ちゃんと持ってきたんだよ」
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