恭子の情報はおおいに役立った。夫と連れだって数日前に見舞いに行ったのだそうだ。芽衣子は手帳に病院名を書きつけて、電話を切った。
佳苗は首をかしげてカップに両手を添え、でも眉をひそめていた。今までの芽衣子のやりとり内容から、ある程度の事情は読みとったらしい。
「......あの人、どうかしたんですか?」
「初期の肺ガンで手術をして、明日には退院するそうです」
佳苗はカップに手を添えたまま、一瞬だけ悲しい目をしてつぶやいた。
「そんなこと知らなかった」
知らなかった。きっとそれに続くのは「なのにどうしてあなたが知っているの?」に違いない。そしてもしかしたら「だからいまさら離婚届なんか送ってよこしたのね」かもしれない。その次に続くだろう言葉は......芽衣子にはわからなかった。それでも、わかりたいと思った。あまりにも、佳苗の目が悲しそうだったから。挑戦的な気持ちはとっくの昔に消え、むしろ彼女に同情していた。いや、共感していた。
便宜上でも妻という立場だったにもかかわらず、何も知らされずに薄っぺらい紙だけ郵送されたとしたら。しかも意を決して愛人だった女と会った場でその事実を知らされたら。とてもではないけれどやりきれない。
佳苗は苛立たしげに芽衣子をまっすぐ見つめた。右頬に涙が伝った。
「わからない。どうして私がこんな目に遭わなくちゃいけないのかしら」
強がりなのか、それとも自分への仕打ちに腹を立てているのかわからない。
「タクシーに乗れば病院はここから15分くらいです。一緒に行きません?」
「私がこんなみじめな気持になるのも、ぜんぶあの人のせい。振り回すのもいい加減にしてほしいわ」
佳苗は強がってもいず、仕打ちに腹を立ててもいなかった。心の底から、自分の人生がうまくいかないことを嘆いているのだ。この人の視界には、もう自分と娘のことしか入っていない。雅人の存在は、佳苗の人生をうまく運ばせるためのパーツに過ぎないのだ。芽衣子はむなしさを感じた。佳苗のようになってしまうきっかけは、人生においていくらでも転がっているのかもしれない。でも自分は佳苗のようにはなりたくない。
「今から行って、いい加減にして、と言ってやればいいじゃないですか」
「あなただって、私と同じように思ってるでしょう?」
思っていません。感情をあらわにする佳苗を見て、芽衣子は胸の中で静かに言った。そしてようやく気付いた。自分と雅人が、恐ろしく似ていたことを。
私と雅人はとてもよく似ていた。今までちっとも気付かなかったけれど、都合が悪くなるとすぐにシャッターを下ろしてしまうところや、相手に踏み入っていかないところが、とても似ていた。お互いに殻の中にたゆたっている自分を守りながら、殻と殻をくっつけ合わせていた。それはそれでとても心地が良かった。お互いに"殻を持つ者"としてそれなりのシンパシーを共有できるから。間合いだってよくわかる。
ただ少し、雅人の殻の方が厚かった。それは性別の違いのせいかもしれないし、雅人のほうが頭がよかったからかもしれない。芽衣子は、雅人の殻の頑丈さにすっかり疲れてしまった。それでもいつか殻を破ったり破られたりすることを期待していた。
それが裏切られたからこそ、雅人の去り際に、みっともなく泣き叫んだのだ。自分の人生だけのパーツではなかった。私も雅人の人生のパーツにしてほしかった。
タクシーの後部座席でもたれながら、芽衣子は横を見た。佳苗は指を握りしめて、流れていく窓の外を見つめている。
この人は殻を破ることを、とっくの昔に放棄していたのだろう。もしかしたら放棄する前に、殻の存在を否定していたのかもしれない。
病室は4人部屋で、カーテンの閉められた窓際のベッドで、雅人は半身おこして、見覚えのある表紙の色あせた文庫本を読んでいた。『2001年宇宙の旅』。2001年は過ぎたのにやっぱり新鮮だよな、というのが読み終えた後のいつもの口癖だった。
「どう反応すればいいのかな......」
芽衣子と妻が連れだって来たのを見てさすがに動揺しているらしく、パイプ椅子を探そうと立ち上がる。前開きの和風な寝巻からのぞいた胸元は、もともと痩せていたのにさらに痩せ、それでも元気そうだ。というより、入院する前と変わらずに飄々としている。黒縁のメガネの奥から、突然訪れたふたりの女を交互に視線を移し、言葉を失っているようだった。
「説明してもらえます?」
詰問口調で切り出したのは佳苗だった。雅人は、すぐには質問の意味がわからなかったようで、数秒間きょとんとしてから自分がなぜここにいるのかを、饒舌かつ不親切に話した。状況が把握できる最低限のことは網羅しながら、感情的にはならない説明の仕方は、おなじみの雅人のやり方だった。なにかを説明する時はこういう口調になる。
芽衣子は、その淡々とした声を聞きながら、そうではない時もあることを思い出していた。
たとえば、芽衣子が怒って雅人が謝る時。テレビでサッカー観戦をしていて、雅人がひいきのマンチェスター・シティFCが勝った時。ふたりともが定期的に中毒症状をおこすキャドバリーの甘いチョコレートを、満を持して口に含んだ時。
そういう時の雅人は決して不親切ではなく、ただひたすら饒舌だった。
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