雅人の淡々とした解説が終わると、佳苗はパイプ椅子からすっと立ち上がった。
「事情はよくわかりました。では芽衣子さん、そろそろ行きましょうか」
雅人との出来事をあれこれ思い出していた芽衣子は、名前を呼ばれて我に返った。見下ろす佳苗は有無を言わさぬ迫力があり、芽衣子も立ち上がった。なんだか芝居じみていておかしい。自分に起きている出来事なのに、別の自分が観察しているような気さえしてくる。
佳苗はカツカツと廊下にヒールの音を響かせて先導していき、必死に追って行った芽衣子は、食堂にたどりついた。テーブルと椅子だけが並んでいる、シンプルな病院の食堂。
入り口で職員がぶっきらぼうに「食券を買ってください」と言い、佳苗は芽衣子の希望も聞かずにコーヒーのボタンを2回押した。食券が2枚落ちてくる。
佳苗は大股で歩いて気に入った窓際のテーブルに座り、キャメルのケリーバッグを横の椅子にどさっと置いた。芽衣子も遅れて向かいに座る。佳苗はあわただしくバッグから何かを取りだした。
華奢な箱からは小枝のように細い煙草。そして細長いライター。
「死ねばよかったのに、って思ったの」
佳苗は細く煙を吐き出して言った。
「タクシーの中でそう思ってたの。だって、あの人が死ねば死別になる。あの学園では、死別と離婚は違う扱いなの。いっそ死別なら、初等部の入学までこのままでいなくてもいいもの。小学部の審査までは両親が揃っている必要があるのよ」青白い煙が消えていく。「構わないわよ。薄情だと思っても」
「そんなふうには思いません」
芽衣子はためらわずにそう答えた。この人はこの人で苦悩している。この人のようになりたくはないけれど、この人のようになってしまう心は理解できる。この人が持つような価値観は、決して共感はできないけれど、存在することそのものは理解できた。
「そうまでしても大切なんですか。その学園にいることが」
「大切......? そうではなくて当然いるべき場所にいさせてあげないのは、間違っているでしょう」
芽衣子は同意を装って穏やかに微笑んだが、ちっとも同意できなかった。かといって佳苗の価値観を否定する気もなかった。
ただ引っかかるのは、佳苗にとっての雅人が、ただ片方だけからのパーツになっていることだった。生きて喜怒哀楽もある人間を、自分にだけ都合のよい存在にするなんて。それを思うと腹が立つ。
そしてふいに、別の直感がよぎった。
もしかして。
「それ、ただ戸籍上の問題だけですよね。もしかして佳苗さん、好きな方がいるんじゃないですか?」
佳苗の指に挟まっている煙草から、細長い灰がテーブルに落ちた。やっぱり。うなずきはしないが、的を射たことを、芽衣子は表情を見てわかった。
「......突然なにを言いだすの」
「きっとその方は、お嬢さんに関することを理解していますよね。たとえば小学部に入学するには苗字が変わってはいけないこととか」
「ええ」
誘導尋問、成功。
「でしたら、入学した後に離婚して再婚すればいいのでは?」
もっと驚いた顔をするんじゃないかと芽衣子は予想した。しかし佳苗はすましてうなずいた。
「もちろんベストではあるわ。そう簡単にはいかないと思うけれど」
そうか。雅人はこの人にとって、もはや本当に関係ない人なんだ。芽衣子がつぶやいたが、佳苗には聞こえなかったようだ。佳苗にとって、もはや雅人は人生のパーツのひとつでもない。ならば話は簡単だ。私のパーツにしたい、私もパーツになりたい。今と、そして考えられうる未来において、そうしたい。
「簡単ですよ」芽衣子は座りながら背筋を伸ばした。「私は雅人さんが好きで一緒にいたい。佳苗さんは他の人が好きで一緒にいたいし、その人は小学部入学の審査までは現状を維持する覚悟はある。たったの3年少しですよね?」
2001年宇宙の旅。フィクションではずっと先の未来だったのに現実の2001年は到来し、それでもなお新鮮に読み継がれている。たった3年少しなんて、瞬く間にやってくるのだ。きっと新鮮なままで。
佳苗はまだ長いままの煙草の先を、灰皿の上でまわすようにして、器用に火を消した。
「顔に似合わず、すごいこと言いだすのね」
「ものごとをシンプルにしてみただけです。欲しいものを手に入れるために」
「あなた、なにを考えているのかさっぱりわからないわね。あの人と似てる」
「そうですか。ちっとも似ていませんよ」
嘘が口からこぼれて、芽衣子はにっと笑った。いつもの営業スマイルではなく、木の上からアリスを見下ろしたチェシャ猫のように。
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