スペース・オデッセイ 1

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電話がかかってきたのは、あの奇妙なドライブから間もない夜だった。家電にかけてくる人はめったにいない。だから今までも知っていて受話器を取っていた。表示されているのは望月の妻の実家なり携帯電話の番号ということを。記憶しようとしたことは一度もないけれど。

いちど会ってお話をしたいんです。唐突に彼女は言った。もう連絡も取ってないことを告げると、受話器の向こうがしんとしばらく静まった。芽衣子が注意深く次の言葉を待っていると、相手は同じ言葉を繰り返す。

「会ってお話をしたいんです。場所と時間はこちらで都合をつけますから」

 今の状況で話すことがあるとも思えないけれど、話したいならどうぞ。

「構いませんよ」

芽衣子は少なからず挑戦的な気分にもなった。どこかで聞き覚えのあるような声だということも、なぜか気持ちに火をつけた。この声は知っている。どうして知っているんだろう。

場所は調布駅近くのファミリーレストラン。万が一トラブルになったことを考え、なるべく人間が多くいそうで凡庸な場所を指定した。

 

 火曜日。その週の休みは火曜日だった。芽衣子は早番の日と同じ時間に起きてしっかりと身支度を整えた。リラックスするためにテレビをつけたが、なじみのない時間のバラエティー番組が違和感を増長したので、消した。だから時間をもてあまして掃除をした。丁寧に掃除機をかけ、カーペットの上の髪の毛やらを一本残らず粘着テープで取り、バスルームとキッチンを気が済むまで磨いた。すっきりして玄関に立ち、ふと思い出した。

 雅人の赤いコンバースが、確かここにまだある。

時間をもてあますように掃除をしたのは、本当は雅人の形跡を消したかったからだ。塵ひとつ、髪の毛ひとつ残さず、気配さえも消してしまいたかった。消してしまえば、もう誰にも負い目を感じなくて済む。今までの思い出もどこかへ消し去ることができる。

「さすがに記憶は消せないよね」

 つぶやきながら、シューズボックスの奥にあったコンバースを手に取った。私には履けないサイズ。こんなものを置き去りにしたくせに、姿を消しきったとでも思っているのだろうか。芽衣子はコンバースを玄関の隅に置き、高いヒールの靴を選んで履いた。できるだけ背が高く見えるように。そして筋を伸ばして、目的の場所へ歩いた。

 

「待ち合わせをしているのですけど」

 ファミレス以上の慇懃さで芽衣子が言うと、エプロンをつけたウェイトレスがマニュアル通りに微笑んで「どうぞ」と手のひらをかざす。店内を見渡しながら、仕事中の私もあんな顔で微笑んでいるのかな、と芽衣子は思う。しかしそんな悠長なことを思えていたのは、彼女と目が合うまでの数秒間だけだった。

窓際に座っている女と目が合った。この暑さの中でちっとも化粧崩れをしていない、切れ長で涼しい目をした女。1ヶ月ほど前にカウンターに来た、あの客だ。

私のことを知っていて、あの日わざわざ職場に出向いてきたのだ。客を装って。芽衣子は悔しさのあまり、反射的に背筋を伸ばして顔に笑みをたたえた。窮地に陥るほど顔をほころばせてしまうのは、ある意味で職業病だった。女は芽衣子を確かめると、あの日と同じく空虚な目を漂わせて立ち上がった。お互いに離れた場所から会釈をする。

「はじめまして、じゃないですよね」

 

 席に近づいて、芽衣子はとっておきの営業スマイルで言った。本当は素直に動揺してしまいたい。それなのに、ひどい状況であるほどシャッターを下ろしてしまう。中ではあれこれ忙しく動き回っているのに、その見苦しさを隠したくて平静を装ってしまう。

芽衣ちゃんはいちばんお姉ちゃんだから。芽衣ちゃんはほんとにしっかりしてるねえ。そのうえ笑うとこんなに可愛くて、まるで天使のよう。

子供の頃は、まわりの大人の期待に沿えるのが嬉しかった。いつも落ち着いて弟と妹を世話し、嫌な時にでもにこにこ笑っていれば誰にでも好かれた。思春期になると、笑っているだけでは「美人だからって気取っている」と中傷されることを知り、シャッターの厚みを強化した。怒りや悲しさややりきれなさを隠すために。きっと今このありふれたファミレスで私は、この場には不必要なくらいのスマイルを作っているんだろうな、と芽衣子はぼんやり考えた。

 

「お忙しいところ申し訳ありません」女はわずかに頭を下げる。「私、望月の妻の佳苗と申します」

 そういえばそんな名前だったかもしれない、と芽衣子は思った。ふたりは赤いベンチシートに差し向かいに座る。

「もう何か注文されました?」

「いいえ」

「じゃあ、呼びましょうか」

 芽衣子がボタンを押すと、どこかでピンポンと間抜けな音が鳴り、ウェイトレスがやってきた。佳苗はハーブティー、芽衣子はブレンドコーヒーを注文する。芽衣子はこの問題を早く片付けてしまいたかった。何を言いだされるのか想像もつかないが、それなりに質疑応答の対策は練ってきた。なにしろもう雅人とは会っていない。それだけが芽衣子の心の拠り所でもある。あの日どうして私の職場に来たのか、まず聞いてみた気もするが、相手の出方を待った。

 

「お呼び立てして申し訳ありません」言葉尻は丁寧だが、よく聞くとなんとなく投げやりな雰囲気がある。「唐突なんですけれど、妊娠してます?」

 唐突すぎて、芽衣子は目を丸くしてしまった。

 

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プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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