雅人に初めて会ったのは、年下のいとこの結婚式だった。
いとこと言っても、子供のころ遊んだ以来つきあいはなかったので、披露宴まで出て帰るつもりだったのに、きょうだい3人揃って2次会に誘われてしまった。新郎新婦の友達が中心の2次会だから、3人とも乗り気ではなかったけれど、いとこの強力なオファーを断り切れなかった。
2次会は、渋谷のダイニングバーが会場で、予想通り新郎新婦の友人ばかりが集まっていた。ゲームに参加する以外特にやることもないし、披露宴でたっぷり料理を食べたからおなかもすいていない。芽衣子たちは店の隅のソファに座り、誰かに話しかけられれば愛想よく微笑み、そうでない時間はきょうだいでおとなしく、2次会の様子を眺めていた。
見た目の華やかさに反して、このきょうだいは揃って控えめでおとなしいのだ。
司会の男はどうやら新郎側の友達らしかった。
「ではここで、本日の王たる新郎が最も酒を酌み交わしたい相手を指名していただきましょう!」
マイクを向けられた新郎が腕組みをして「そりゃ、望月さんしかないでしょう」と言うと、新郎側の友人たちがにわかに盛り上がった。
やかましい音楽と拍手に迎えられたのは、黒フレームのメガネをかけた細長い男で、はしゃぐわけでもなく真面目な顔をし、かといって不機嫌なわけでもなく飄々としていて、そのあともやたらと酒を飲まされていた。
お笑い芸人とかミュージシャンでこういう感じの人いるな、と芽衣子は思った。
さして面白くもない2次会が終わり、弟と妹とは別れた。芽衣子は乗り換えの明大前駅で、引き出物用のカタログブックとドラジェの入った紙袋を持ち、電車を待つ。土曜日の夜。電車は混んでいるだろうと考えると、憂鬱になる。
あくびをかみ殺す。明日のシフトを遅番にしておいてよかった。深呼吸をして、首をぐるりと回す。そして右へ首を回した瞬間、右隣にいた男と目が合った。
黒フレームのメガネをかけた男は、斜め上から"小さく前ならえ"のように右手で芽衣子を指差す。
「あ、やっぱり。新婦のいとこの方ですよね。これ持ってたからわかった」
メガネの男は真面目くさった顔で、引き出物の紙袋を目の前にかざし、ゆらゆら揺らす。
引き出物を持っているということは、男が披露宴にも来ていたことだ。まったく気付かなかった。
芽衣子は営業用のスマイルを作り「ええ」と答えたところで、電車が来た。各駅停車に乗るつもりはなかったけれど、メガネ男につられて同じドアから乗る。
電車は思ったほど混んでいないおかげで、メガネ男とは気まずくない程度のスペースを取ることができた。メガネ男は意外にも香水の香りがした。芽衣子の嫌いな香りではなかった。
「荷物、上に載せます?」
引き出物の紙袋のことを言っているのだと芽衣子が気づいた時にはもう、メガネ男は芽衣子の荷物を奪い取って網棚に置いていた。
「すみません。ありがとうございます」
どちらかといえば人見知りの芽衣子は、会話の"間"が怖くてつい話しかけてしまう。
「どちらで降りるんですか?」
「調布です」
「そうなんですか。私も調布です」
「そういえば、ごきょうだいは一緒じゃないんですね」
「ええまあ。妹はまだ実家で暮らしていますし、弟は結婚して横浜に住んでいるので」
「えー!あの弟さん結婚してるの!なんか、ライダーとかレンジャーに出てくる俳優みたいな感じだったけど」
「子供もいますよ。ふたり」
メガネ男はしきりに驚き、「一緒に2次会に来ていた会社の女子たちには、脈はないと伝えておきます」とひとりでうなずく。そして思い出したように名刺入れから名刺を取り出し、むりやり芽衣子に渡す。メガネ男は、新郎と同じ会社に所属していた。望月雅人という名前。
「ものすごく、左右対称ですね」
「え?」
左右対称?雅人が何を言っているのか、芽衣子にはさっぱりわからなかった。
「顔が左右対称ですね。ヒトの顔なんて、たいてアシンメトリーなものだけど、今まで僕が見た中じゃ最も左右対称です」
「はあ......」
褒められているのか馬鹿にされているのかわからないけれど、少なくとも悪意はないらしいことはわかる。わざとおかしなことを口にして芽衣子の気引いているような様子もない。きっと、素で変な人なのだろう。そう思うとふわりと気が抜けて、ラクになった。
ふと目を落とすと、雅人の左薬指に指輪があるのが見えた。
なんだ、妻帯者だから余裕があるのか。新郎の様子からすると、メガネ男は新郎の先輩で、確か新郎は私と同じ年と聞いているから、メガネ男はいずみちゃんくらいの年齢かもしれない。そういえば、どうしてあんなに酒を飲まされていたんだろう。
「ああ、あれね。僕、反面教師の教師役に抜擢されたらしく、生徒が飲むときは僕も一緒に飲むのが、ここんとこ仲間うちでのブーム」
「え?」
さっぱりわからない。やはりおかしな人だ。
「僕、奥さんに逃げられたんですよ。子供連れて実家に帰って、1年も戻ってこないの。だから、生徒達は僕の姿を見て、僕のような人間にはなるまいと日々精進するんだそうです。なんだよなあ、それ。意味がわかんないねえ。おかげさまでかなりな勢いの酔っ払いですよ」
雅人が淡々と話すので、芽衣子は不謹慎とは思いつつ笑ってしまった。
「そんな酔っ払いには見えませんけど」
「そうですか。実はもう、かなり酔っ払ってます。かなり、やばいです」
「やばいって、大丈夫ですか?」
「いや、やばいです。吐きそう。ここで降ります!」
電車のドアが開くと、雅人は青白い顔をして人をかきわけ、ホームへ出ていく。調布よりまだひと駅手前だ。
「あの、荷物忘れてます!」
芽衣子は網棚に置き去りにされた荷物に気づき、それを背伸びしてふたりぶんつかみ、あわてて雅人を追う。雅人は3段飛ばしでホームの階段を駆け上がり、あっという間に姿を消した。
どうしよう。芽衣子はふたりぶんの引き出物をかかえたまま、階段の下から上を見上げた。私、なにやってんだろう。メガネ男はそのまま改札を出て戻ってこないかもしれないのに。
下車した人々はもうとっくに階段をのぼりきり、見上げても誰もいない。上なんか見上げても寂しくなるだけだ。
芽衣子だったらもっと上を目指せるんじゃないの、とひとに言われてきた。
芽衣子の整った容姿を見て、他人は勝手に芽衣子の人となりを想像するらしい。性格はきっと高圧的でわがままだろうとか、男に相当貢がせているに違いないとか。
しかし実際の芽衣子はどこにでもいる普通の、むしろ真面目で小心者の女だ。仕事が見つからない人もいる不景気な中で、仕事があるだけ幸せだから頑張ろうと思うような女だった。
想像上の芽衣子と実際の芽衣子が違うことを知り、よく思ってくれる人もいる。でも皮肉まじりのひとことを言う人がいるのも事実だった。たとえば、意外と自己主張しないんだね、けっこう庶民的なのね、などなど。挙句には「美人だから自然体でいればいいとでも思ってるんでしょ」と。
自然体でいることなんてほとんどないのに、と芽衣子は思う。ひとりの時や、会話の間も気にならないごく親しい人と一緒の時ならリラックスしているけれど、そんな時間はめったに訪れない。職場でのテンションは半分演技だし......だいたい自然体という言葉自体が不自然に感じる。本当の自然体なんて、せいぜい爆睡して意識を失っている時くらいだ。
ホームで階段を見上げながらあれこれ考えているうちに次の各駅停車が来て、でも芽衣子はそれを見送った。
私、なにやってんだろう、なにやってるのかなあ。
心細くて、さほど大きくないこの駅のホームが、果てしなく広くて暗い場所のように思えた。まるで真っ暗な大海原の上を、小さなボートで漂流しているみたいだ。
その時、階段の上からすっとんきょうな声が聞こえた。
「あーっ!すみません!降りちゃったんですか!荷物、荷物置いてきたからか!ごめんなさい!」
すっかり顔色の良くなった雅人が、たたんたたん、と小気味よく階段を駆け下りてくる。
戻ってきてよかった、と頬が緩んだ。
暗闇の中で、芽衣子は救助船の明かりを見つけた。
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