芽衣子は漂流中 1

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「こちら、新しいスキンケアラインのサンプルです。ぜひお使いになってくださいね」

 

軽めのメイクを終えた20代後半の客は、結局何も買わず、サンプルだけ嬉しそうにもらっていった。サンプル狙いだな、とは最初からわかっていた。いろいろな店で手に入れたサンプルばかり使っていそうな、定まりのない肌をしていたからだ。

 

芽衣子は営業用の微笑みで客を見送りながら、ふと志保のことを思い出した。もっと整形のこと、ポジティブに言ってあげればよかったかな。いくら志保だって、それなりの決心をして挑んだはずなんだから。

志保のことを考えたのは一瞬だった。次々と客の訪れるここのカウンターは忙しい。芽衣子は背筋を伸ばし、コスメ売り場独特の香りを体に取り込む。このむせかえるような香りの渦が、いつも力づけてくれる。

 

店長が変わってから、以前に増してノルマが厳しくなった。この百貨店でのカウンター勤務がスタッフの中でもいちばん長い芽衣子は、実質上、店長補佐という役割になった。

 

せっかくビューティーアドバイザーになるのなら、ドラッグストアじゃなくて百貨店で働きたい。芽衣子はヘアメイクの専門学校を出ると、社員契約の可能性のある化粧品メーカーの契約社員になり、3年前にやっと正社員に採用された。同期で卒業した友達には、すんなりと正社員採用された人もいたけれど、芽衣子は内定を取れなかった。

 

頑張ったつもりなのに。

 

頑張ってもダメだということは、自分に足りないところがあるということ。それが実力なのか運なのか、それ以外の何かなのか、自分ではわからない。友達にきいてみても「運が悪いだけだよ」くらいの遠慮がちな答えしか返ってこない。だから、努力して手に入れられるものだけでも手に入れよう、と思うのだった。努力で運が手に入らないのなら、せめて実力を得たい。芽衣子はそういう、努力好きで生真面目な人間だ。

でも、芽衣子のことをよく知らない他人は、そう思わないらしい。それは、芽衣子が生まれつき標準以上の容姿を持っているからだ。中学生のころはよく、上級生の女子に嫌がらせをされた。チャラついてんじゃねーよ。どうせ援交とかしてんだろ。モデル狙ってるとか。つーかオーラないから無理っしょ。あはははは。

 

私は何もしていないのに、どうして敵意の対象になるのだろう。芽衣子は悲しかった。自分の容姿が敵意の原因なら、もっと上の人たちがいそうな場所にいけば安心できるかもしれない。芸能人やモデルになる才能はないけれど、そういう仕事以外でも、きれいでいることが当たり前の場所はたくさんあるはずだ。たとえばヘアメイクの世界。

 

芽衣子よりも頭ひとつぶん背の高い新店長は、最初のミーティングで言った。

「立地にそぐわない売上です。ここはまだ伸ばせます。伸ばすつもりですから、努力してください」

彼女は笑顔を浮かべてスタッフの顔をひととおり眺めたあと、芽衣子にだけは厳しい顔を向けた。敵意なのか激励なのか。判断がつかない時は思考を保留にして、しばらく様子を見る。ものごとには、すぐに判断していいことと、そうでないことがある。それに、自分の努力次第で、敵意も激励に変えることができるかもしれない。

芽衣子は店長の厳しい視線に「どうぞよろしくお願いします」と答え、きっちり正しく微笑み、頭を下げた。店長も正しく微笑み、小柄な芽衣子を見下ろして「よろしくね」と答えた。

 

BAは、華やかだけれど、気力と体力がないともたない仕事でもある。土日や祝日も働くし、お客様を満足させなければならないし、いつでも完璧にきれいでいなければならないし、ノルマも達成しなければならない。

「芽衣子の仕事はたいへんだね」

と雅人は言う。

「そうでもないよ。医者とか看護婦とか介護士なんか、もっとたいへんだと思う。雅人君の仕事だって」

 

雅人君。

会ったころは、"望月さん"と呼んでいた。黒フレームのメガネをかけた望月雅人は、食品メーカーの開発室に勤務している。新商品を作る仕事、と本人は言っている。どうやら体に良くて美味しいものを作ろうと、日々研究しているらしい。芽衣子が持ち帰る化粧品も、成分表示をいちいち「へー」だとか「ふーん」だとか面白そうに眺め、でもそれ以上のことは言わない。本人が話さないことは、芽衣子もきかない。それが芽衣子の中になんとなく作り上げられたルールだった。

ふたりの楽しい「今」が壊れないためのルール。

 

芽衣子は、そうして雅人がしげしげと成分表示を見つめている様子が好きだ。妹と弟がまだ子供だったころ、子供の日やクリスマスの前に入るおもちゃ屋の新聞折り込み広告を見て、よくこんな顔をしていた。雅人にとっては、化粧品の成分表示にある「ナイアシナミド」や「酢酸トコフェロール」が、子供のおもちゃみたいなものなのかもしれない。黒フレームのメガネをかけて、本人が選んだにしてはおしゃれなスーツを着て出勤しているくせに、会社に着いたらラボ用の服に着替え、子供みたいな顔で仕事しているのだろう。

 

雅人の会社での服装を、芽衣子は知らない。

そして、雅人の妻と子供の顔を、芽衣子は知らなかった。

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プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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