それから2年ほど経ったけれど、まだ雅人は正式に離婚していない。別れた時に1才になっていなかった娘の未央はもう4才になり、芽衣子が出勤をする土曜日か日曜日に約束をして、雅人は娘に月に一度は必ず会っている。
以前は「明日は未央に会う」と悪びれもせず口にしていたが、ある日芽衣子は堪え切れずにキレた。
「なんでいちいち私に言うの?ひとりでこっそり行けばいいじゃない。子供の話なんて聞きたくないことくらい気づいてよ。どうしてそんな無神経なわけ?」
雅人は驚いた顔をして一瞬動かなくなった。芽衣子が怒るとは想像もしていなかったようだ。
それ以来、未央のことは、芽衣子が話しださない限り話さなくなった。
こんなこともあった。芽衣子の家で一緒に夕食を食べ終え、雅人がテレビを見ている時に、芽衣子の家の電話が鳴った。見知らぬ携帯番号からの着信だったけれど、何か緊急の用事かもしれないと思い、電話に出た。電話の向こうで、少し高めの女の声が丁寧に言う。
「もしもし。望月と申しますが、そちらに望月はおりますでしょうか」
芽衣子は頭の中が真っ白になった。妻に違いない。とっさに思ったものの、動揺しすぎて逆に「はい、います」と普通に答えてしまった。コードレスの電話機を雅人に渡す。雅人はメガネの奥の目を丸くして電話機を取ると、テレビの前に座ったまま話し始めた。芽衣子は気まずくなって立ち上がり、狭いキッチンスペースへ逃げる。
雅人は何食わぬ顔で会話を続けている。もしもし、なによ、携帯そういや充電切れてるわ、忘れてた、でなに、未央の、うん、うん、明日は残業確実だから、はいはい、わかりました。
......なんかおかしくない?どうして私が気まずくならなきゃいけないの?いや、絶対におかしい!
雅人ののんきな声を聞いているうちに、芽衣子は我に返り、怒りと屈辱の入り混じった思いがあふれてきた。こんなに自分が怒るのは久しぶりだ、と冷静に考えた。それでも簡単に泣く女ではないから、涙は流さない。その代り、食器用のスポンジをつかみ、怒りを込めてシンクと排水溝を磨き始める。このスポンジは食器用だったのに、と思いながら。
雅人の電話が終わり、芽衣子は泡だらけの手を水で流し、てきとうにタオルで拭く。
「......どうして奥さんが私の家の番号、知ってるの」
雅人は驚いた顔をして一瞬動かなくなった。こういう雅人の顔は、何度か見ている。芽衣子が怒るとは想像もしていなかった時の顔だ。
「どうしてって、俺が教えたから。夜は芽衣子の家にいるから緊急用の連絡先ってことで」
雅人にはそういうところがあった。あけすけすぎて、腹が立つ。嘘がなさすぎて、逆にすべてが嘘ではないかと疑ってしまう。
「えー!教えちゃまずかった?」
「......最低。ほんと信じられない。まずいに決まってるでしょ。だいたい電話番号って個人情報じゃない......帰ってよ。今すぐ帰れ!自分の家に!」
芽衣子は部屋着のスウェットを着たままの雅人をむりやり立たせ、玄関に押しやり、ドアを開け、靴とバッグと一緒に外へ放り出した。鍵を閉める。
ドアのレンズから外を見ると、左利きの雅人は左手にバッグを持ち、不器用な訪問セールスマンのように通路をうろうろしていた。どうせ歩いて20分もかからないところに持ち家があるんだし、秋口で外は寒くもないんだし、さっさと帰ればいいんだ。芽衣子はドアに背を向けた。
15分ほど経った頃、さすがにもういないだろうとレンズをのぞくと、雅人は腕を組んで背中を丸め、真面目くさった顔でまだ立っている。合鍵を持っているのに、ただ突っ立てるなんてバカじゃないの。そんな顔して立っていれば許してもらえるとでも思ってるの。悔しいけれど、その通りよ。たぶんあと数秒で、私は許してしまう。
芽衣子はドアを開けた。
「ごめん」といきなり雅人は頭を下げる。
「俺、ほんとに、普通は、普通の人だとどうすべきなのかわかるところが、俺にはよくわかんないことがあるんだ。ほんとごめん」
謝ればなんでも済むと思ったら大間違いよと怒鳴ってやりたいと思うものの、芽衣子の怒りはたいてい持続しない。悔しいけれど、負けてしまうのはいつも芽衣子の方だった。
芽衣子はしかめっ面のまま、雅人を部屋に入れた。
「アイス、食べる?サーティーワンの日だったからトリプルをカップで買ったんだけど」
雅人は安心したように少し笑った。
「食べる。何味?」
「ナッツトゥーユーとストロベリーチーズケーキとオレオクッキーアンドクリーム」
「3つともうまそう」
芽衣子は冷凍庫からアイスクリームのトリプルカップを取りだした。芽衣子の横に雅人はぴったりとはりつき、サーティーワンのピンク色のスプーンを握りしめている。雅人はカップの一番上に乗っているオレオのアイスをすくい、芽衣子に食べさせた。
「おいしい?」
「おいしい」
「そっか。ほんとごめん」
「いいよ、もう」
「芽衣子は優しいな」
「別に優しくないよ」
優しいんじゃなくて、ただ小心者なだけよ。そう心の中で思った。
今まで付き合った男の中で、芽衣子がこれほど頻繁にキレている相手はいない。今までの芽衣子は、もっと相手の様子をうかがって、もっと期待を裏切らないようにと努力して、もっとがちがちに気を遣っていた。そういう努力が雅人に通用しないということを、はじめの数ヶ月で心得た。雅人は低反発マットみたいなもので、押さなければへこまないし、押した形はいつまでも残っている。つまり、言わなければわからないし、言えばわかってくれる。芽衣子を怒らせることも、そして笑わせることも、雅人は天才的にうまいのだ。
ふたりでいる時は、芽衣子はぬくぬくと幸せだった。それでもやはり、正式に離婚をしていない男と付き合っていることを、友達や同僚には知られなくはない。もちろん志保やいずみにも秘密にしていた。特にいずみには知られなくなかった。
そのいずみに、雅人と一緒にいる時に偶然出くわしてしまったのだ。志保が整形して目を腫らしていた1か月ほどあとのこと。明治神宮前の歩道を歩いていた時だ。