2010年1月アーカイブ

いずみは遭難中 4

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「いずみちゃん、おっつー!悠太と由香、ちゃんといい子にしてたか?」

遅刻魔の志保にしては珍しく、いずみよりもずいぶん早い時間に到着していた。サブウェイのサンドウィッチが入ったビニール袋のほかに、いずみの知らないロゴのある紙袋を3つも肩から下げていた。どうやら待ち合わせ前に買い物をしたようだ。たぶんいずみが見ても、どうやって着たらいいのかわからないような服が入っているに違いない。

 

「メールもしないでごめん。もしかして時間ぴったりに来てたの?」

「来てたよ。オイちゃんがドタキャンだっていうから、いちおう遅れないで来たんですけど」

いずみが「及川」という苗字をとって和喜のことをオイちゃんと呼んでいたから、志保や芽衣子もそう言うようになった。気軽にそう呼べる雰囲気が和喜にはあり、そこがいいところでもある。

しかしそのオイちゃんが約束通りに一緒に来なかったせいで、志保はいつものようにのんびり遅刻できなかった。その結果として私は、待たせてごめんと志保に謝るはめになる。

ああイライラする。

志保は少しも怒っていない様子だし、いずみとて志保を待たせたことをさほど悪いとは思っていないのだけれど、それでもイライラするのだ。さらに、なにもかもを和喜のせいにしている自分にもいらだつ。

 

「じゃあ、ずいぶん待たせちゃったね。ごめんね」

「ぜんぜん平気平気。ここでいろいろ観察してたからさ。ほらあたし、観察好きじゃん?ランチは買っといたからね。あとレジャーシートっつーの?敷くのもでかいやつ持ってきた」

「あらあ、ほんとありがと」

「とりあえずオイちゃんいいなくても来れたじゃん。旅、どうよ?」

「旅って......おおげさだなあ。ウチから1時間もかからないんだよ」

志保のまぶたはすっかり腫れもひき、自然な二重になっていた。だからといって自信に満ちた様子でもなく、志保は今までと同じようにつっこまれてヘラヘラしている。この子、意外とたくましいのかもな。電車に乗っている間じゅうびくついていただけに、いずみには志保のたくましさが、いつになく頼りがいのあるものに思えた。

 

「目、落ち着いたらいい感じになったじゃない。なんていうか......よかったと思うよ」

「だろだろ?実はあの後いろいろ大変だったんだけど、まあ後で話すってことで、早く公園行こうよ」

志保は悠太の頭をぐりぐり撫でるけれど、悠太は逃げるようにいずみの後にまわる。さっきまでぐずっていた由香は、移動している間に泣きやみ、目に涙を溜めたまま背もたれにうずまっていた。

いずみたちは人の多い公園の中を歩き、てきとうな木蔭を探してレジャーシートとサンドウィッチを広げる。空は曇っているけれど、このくらいの方が紫外線が少なくて、子供にもシミの気になる30代にもいいに違いない。

 

公園を見渡すと、いたるところにいろいろなことをしている人がいた。

あまりパッとしない容姿の若いカップルが、近くの小さいシートの上に座っていちゃついている。

その向こうでは大学生くらいの大人数のグループがビールを飲みながら騒いでいる。

いずみたちのすぐ横を、ラブラドールを連れた外国人男性がふたり、程よい距離で歩いていく。たぶんゲイのカップルだ。

遠くからはボンゴのような太鼓やアルトサックスの音が聞こえてくる。

ジャグリングの練習をしているグループ、手をつないで芝生を踏みしめる小奇麗な老夫婦、眉間にしわを寄せながらひとりで文庫本を読んでいるヒッピーみたいな女の子、目の覚めるような赤いワンピースを着た子供を遊ばせている外国人家族。

 

いずみは座って由香を抱き、思い切り深呼吸をした。ぬるぬるした空気だけれど、広い芝生の上での深呼吸は気持がいい。外は広く、たくさんの人がそれぞれに生きていて、自分のいらだった日々なんて些細なものに思えてくる。

だからいずみは、ここに来たかったのだ。

 

志保が手に取ったアボカドとエビのサンドウィッチに悠太が手を伸ばし、しきりに「パンじゃない」と言う。どうやら中身だけ食べたいらしい。

「中身だけかよ。ていうか、これ食べさせても大丈夫?アレルギーとかないの?」

「いいよ。この子、アボカドもエビも大好きだから。でも今いちばん好きなのはハンバーグみたいだけどね」

「そっか。ほら悠太、ハンバーグじゃないけど好きなだけ食え。由香はなんか食べないの?」

「うーん、まだいいよ。離乳食は持ってきてあるし。ほら、これ」

「へー、ビン詰めなんだ。雑炊って書いてあるけど、なんか......見た目リンゴジャムっぽくね?」

「けっこうおいしいんだよ。高いからお出かけの時くらいしか買わないけどね」

「へー、高いんだ。なんかそういう話聞くとさ、あたしって何にも知らねーな、って思うよ。子供がいてもいい年なのに、自分の頭の中がまだ子供だし。ていうか子供どころか結婚してないし。つーか彼氏すらいない?みたいな」

志保は手をぱちんと叩いて、だははと笑った。芽衣子もつられて吹きだす。

 

確かに志保は、高校生の教え子だった頃とあまり変わっていない。でもいずみは思うのだ。人なんて、そうそう変わるものではないし、変わりたいのに変われなくて苦しくなることの方が多い。特に、自分の嫌いな部分や消したい部分に限って、しつこく体に染みついて、変わろうとする自分の足を引っ張る。自分の変化に気づくのは、たいてい何かを失った時ばかり。たとえば、肌のハリがなくなったとか、体力がなくなったとか、朝まで友達と騒いだりしなくなったとか、そんな時ばかりだ。

 

「結婚したり子供がいるからって、頭の中が大人になるわけじゃないよ」

「そお?あたしさ、また親に怒られた。27才にもなって何やってるの、先のことを考えなさい、って」

「もしかして整形のことで?」

「そうそう」と志保が答えたところで、悠太が別のサンドウィッチをつかんだ。

「そのまま食べるんかい。悠太にはでかいんじゃないの。今切ってあげるから、ちょっと待って」

と、志保がバッグの中からフルーツナイフを取り出し、器用にサンドウィッチを切り分けた。一口サイズになり食べやすくなったせいか、雄太は中身だけではなく、パンごとつかんでかぶりつく。

ナイフ持参で来る気の利きようにいずみは驚いた。たったそんなことなのに、志保が自分よりずっと大人であるように感じてしまう。なんだか寂しい。なんだろう、この寂しさ。あーだめだ、せっかく公園に、明るく広い外に来たんだから、頭を切り替えて楽しまなくちゃ。いずみは意識して笑顔を作り、言った。

「いろいろ準備してくれて、ありがとうね」

ありがとう。それは、ここのところ和喜に対して使っていない単語だった。

いずみは遭難中 3

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大人になったいずみは、自分のオトコウンの良し悪しに思いを馳せることもなく、それなりにいくつかの恋愛をして、30才になる少し前に和喜と出会った。

和喜とは気が合って一緒にいると楽しい。おまけに家事はひととおりできるし、まじめに仕事をして普通に収入がある。どうやら嘘をつかない人のようだし、神経質だったり窮屈だったりするところもなく、なにしろ体が頑丈だ。

結婚するならこの人しかいない、といずみは思った。

 

和喜にプロポーズされたのは、付き合って半年後。「俺の会社、あんまり給料良くないけど、いいかな」という、かなり現実的なプロポーズの言葉だったけれど、その時のいずみは、そんなことは乗り越えられる現実だと思った。

 

なのに今は、不満ばかり口にしている。今のいずみには、あの日の出来事が白くかすんで見えた。まるで吹雪のうずまく山の中で遭難しているようだ。ふもとへ続く道はすぐ近くにありそうなのに、真っ白い雪にはばまれて前が見えない。

 

「ママー!これさー、開くの?」

悠太のばかでかい声で吹雪の妄想から我に返ったいずみは、自分が今ふたりの子供を連れて混んだ電車の中にいることを思い出した。

 

「これってなによ。ドアか。ドアはね、駅についたら開くんだよ」

デニムのショートパンツにふくらはぎくらいまでのブーツを履いた若い女の子が、足元に近づいたベビーカーをよけて、ケータイをいじりながらだるそうに横にずれる。そんなウザそうな顔をしなくてもいいじゃない。「この季節にブーツなんか履いてるおまえは水虫にでもなれ!」といずみは心の中で呪った。

 

電車の中をよく眺めれば、自分以外の女性はみんなおしゃれをしているように見えてくる。近所に散歩に行くような恰好をしている自分にふと気付き、なんとなく寂しくなった。メイクはSPF35の日焼け止め下地にパウダーをはたいた程度。身につけているのはTシャツとジーンズとスニーカー。少し前に、ネットの通販で「激安!この夏のモテワンピ!」と書いてあった、かわいらしい夏用のワンピースを買ったけれど、どう着ていいのかわからず、ハンガーにかけたままになっていた。今日は思い切って着るつもりだったのに、結局やっぱりうまい着方がわからなかった。だいいち、子連れには動きにくくて不便そうな服なのだ。

 

悠太が手を振り回し、スーツ姿の青年にぶつかった。いずみがあやまると、青年は気まずそうに黙って小さく会釈し、そっぽを向いた。

「悠太、ちゃんとまっすぐ立っててよ」

「なんで?」

「なんでじゃないの」

すると、それまでうとうとしていた由香が目を開け、顔をゆがめた。まずい、といずみが思った瞬間、由香は「あー」と奇声をあげ始め、まわりの人々が目線だけをいずみたちに向ける。目線はすぐに、何事もなかったようにそらされたけれど、その一瞬がいずみに重くのしかかる。混んでいるこの車両の中ではかがんで由香を抱きあげることもできないし、悠太は相変わらずふらふら動いている。閉じ込められた車両の中で、いずみはどこへも行けなかった。やっぱりここは吹雪の中だ。吹雪で動けなくなった遭難者のように、私は小さく縮こまるしかない。

 

「まだー?」

手をつないで体をくねらせていた悠太が、不満げな大声をあげる。この様子だとあと3分以内には暴れ始めるな。由香が泣いているうえに、悠太にまで暴れられたら収拾つかなくなる。もうちょっと待ってくれ。

「あんまりゆらゆらしないで。もうすぐ降りるよ。悠太、ゆったんにいいこいいこしてあげて。泣いちゃだめだよーって」

「ゆったん泣かないよ」

悠太はベビーカーにぐにゃりともたれてのぞきこみ、目をぱっちり開いたり口をとがらせたりして「うにゃうにゃ」だとか「だよねえ」だとか、謎の音声で話し始めた。由香は瞳に涙を浮かべたままきょとんとして、あっけにとられたように兄の顔を見つめる。

出た、テレパシー!といずみは思う。

悠太と由香は、ときどきなにやら言語以外のツールで意思疎通を図るのだ。子供と動物には霊が見えるとよく言うけれど、こういう様子を見ていると、本当に大人には感知できない何かを受信しているのではないかと思えてくる。ふたりのやりとりを眺めているうちに、いずみを取り囲んでいた吹雪の妄想はするすると消えていった。

そうだ、私が遭難なんかしていたら、この子達がどうなるかわからない。しっかりしなくちゃ。

テレパシーを操っていた悠太の集中力はすぐに切れる。案の定、すぐにぐずり始めた。

 

「まだー?」

「もうすぐ、駅に着いたら降りるよ。公園にはしーたんも来るんだよ」

「ハンバーグは?」

「ハンバーグはさすがに来ないね。ママゆったんの車おろすから、悠太はママの隣にいてよ。一緒に降りるんだからね。ほら、ドア開くから気をつけて。おい悠太、走らない!」

電車から降りたとたん、湿った熱い空気に包まれる。

暑い。疲れた。メールを打っている時間もなかったけれど、志保と約束した午後1時より15分遅れだ。さすがに志保はもう到着しているだろう。来てなかったら、蹴り入れてやる。

いずみは遭難中 2

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空は曇っているけれど、梅雨前の湿った空気が暑い。いずみはベビーカーのハンドルにかけたミニバッグからハンカチを出して、額の汗をぬぐった。

 

準急で1駅、10分足らずで高田馬場駅だ。このあたりの車両に乗れば、確かJR線に乗り換えるエレベーターに近かったはず。ベビーカーをのぞきこみ、由香のつぶれた顔を確認する。背もたれにうずまり、朝青竜のような一重の目でじっと遠くを見ている。ご機嫌はいいみたいだ。悠太はベビーカーの脇につかまり、いずみを見上げて、うはっと笑う。

 

「悠太、電車大好きでしょ。電車乗るんだから、ちゃんとしててね」

「電車好きー。どこ行こっか」

「高田馬場まで行って、違う電車に乗って、原宿で降りるんだよ」

「そこさー、ハンバーグある?」

「ハンバーグはないかもしれないね」

 

原宿にハンバーグは腐るほどあるけれど、あると言えば絶対に「食べる!」と頑固に言いだすに決まっている。最近の悠太にとって、ハンバーグはこの世で最高の価値を持つ魔法のアイテムらしいのだ。今日はハンバーグを食べる予定はないから、最初にないと言っておいたほうがいい。

 

いずみは、バッグの中に入れてきた荷物を、頭の中で確認した。

おむつ、おしりふき、タオル、由香用のビン詰め離乳食と飲み物、悠太用のビスケットもあるし、おむつを入れるゴミ袋もある。大丈夫。だいたい電車で移動している時間は30分もないんだから、大丈夫。どうにかなるし、どうにかしてやる。今日は雨が降らないと天気予報も言っていた。それに、原宿に着けば志保と会える。遅刻魔の志保に合わせて、ゆっくりめに家を出た。大丈夫。

 

由香が生まれてから、電車の乗り換えをする場所へ、いずみはひとりきりで子連れの外出したことがなかった。悠太がベビーカーの頃は電車にも乗ったのだし、やろうと思えばできたのだろうけれど、不安が先に立ってしまい、つい先延ばしにしてきたのだ。今日は意地でも代々木公園まで行ってやる。約束を破った和喜への恨みを晴らさんばかりの勢いだった。

 

高田馬場駅での乗り換えはうまくいった。

しかし休日の山手線は予想通り混んでいて、いずみは戸惑った。悠太の時にベビーカーの最適なポジションを学んだはずなのに、忘れている。子供の数が倍になっただけで、不安は10倍くらいに膨れ上がったように感じる。うっかりしたらベビーカーを動かせず、おまけに悠太も見失い、原宿駅を乗り過ごしてしまいそうだ。どうしてこんなに人がたくさん乗っているのだ。

まわりが全員、敵に見えてくる......

 

ふと、大学時代に「お前はメンタルが弱い」と陸上部のコーチに言われたことを思い出した。だから選手としては伸びない、と宣告されたのも同然だったのに、いずみはその時、なんだかほっとした。自分の記録が伸びない大きな言い訳をもらったような気がしたからだ。自分で作った言い訳ではなく、人から与えられた言い訳なら、甘えてもいいように思えた。

 

高校生まではさほど努力をしなくても、体が走ってくれた。県大会の記録も持っていた。でも3年生の時に1年生に塗り替えられた。顧問の指導に従ってただ練習をしていたいずみは、どうしたらいいのかわからなくなった。実力がすべてであるスポーツの世界は残酷だ。力のある人が上になり、力の及ばない人は坂を下ってゆく。

降りたところから這いあがれるのは、メンタルの強さを持ち続け、再びトップポジションだった頃の体を呼び戻せる人間だけだ。

いずみにその力がないことは、自分がいちばんよく知っていた。

 

そもそも、いずみは陸上なんてそれほど好きではなかったのだ。ただ他の人よりも早いから走っていただけ。早く走れば褒めてもらえただけ。おかげで奨学金をもらって高校に入れただけ。それ以上のものではなかった。経済的に余裕のない母子家庭で育ったいずみには、奨学金はありがたかったのだ。

大学も奨学制度を使って通った。ただし、学校からもらっている奨学金ではないから、就職したら返済を始めなければならない。だから安定した仕事に就けるように教職課程を取った。

 

両親が離婚したのは、いずみがまだ小学校に入る前だ。母がなぜ父と離婚したのか、母は教えてくれなかった。母はあまりオープンな人ではない。いじいじしている。

一度、いずみがふとんに入ったあと、ふすまで仕切られた隣の部屋から、母の涙声や父の押し殺した低いつぶやきが聞こえてきたことがある。ふすまの間から隣の部屋の細い光が差し込んで、いずみはその隙間から両親のいる部屋をのぞいた。夏だったので、ふとんを外したこたつを食卓にしていた。正方形のこたつの上にはなにも載っていなくてつるつるしていた。両親は差し向かいに座り、母はタオルを握ってうつむき、父の姿は、いずみからは背中しか見えなかった。

それからしばらくして、父は家から姿を消した。「お父さんは別のところに行く」とだけ言った母の顔を見て、それ以上のことをきいてはいけないのだと、子供なりにいずみは理解した。

 

母は華奢でおとなしく、キッチンにゴキブリが出れば青ざめた顔でうろうろし(だから最終的にはいずみが戦う)、ショッピングに行ってもなかなか買う服を選べず(最終的にはいずみが決める)、子供のいずみから見ても頼りない人間だった。

そうして、いずみは自分でできることはなんでも自分でやる子供になった。母の彼氏らしき男に引き合わされた時は、これで頼れる人を手に入れられると喜んだ。いずみが小学校2年生の時と5年生の時で、それぞれ別の男だったが、結局うまくいかなかったらしく、いずみの新しい父親になることはかった。

 

おそらく2番目の男と破局した後だったのだろう、母が「男運がないのね」とつぶやいたことがあった。

オトコウン。

その時6年生で、外で走ってばかりの浅黒く日焼けしたいずみには、その言葉が妙になまなましく聞こえて、おまけに腹が立った。

オトコウンがなんなんだ。そんなものに頼ってるから、お母さんの人生はうまくいかないんだ。

いずみはそう思った。

いずみは遭難中 1

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どうしていつも直前になって約束を破るのよ。

いずみは悠太に食事をさせながら、イライラしていた。悠太は落ち着きがなく、というか2歳児に落ち着きを求める方が無茶なのだけれど、すぐに立ち上がろうとする。

「もー、ごはん食べるんでしょ。ちゃんと座ってよ」

「赤いのがいいの。赤の」

悠太がニヤついて口答えするので、ますます声を荒げる。

「だからー、これ、このごはんの上にかかってるのが、赤い袋のふりかけでしょ。何言ってんのよ、もう」

悠太は左手を高々と上げながらヒャヒャと笑い、右手でシャツをめくりあげて腹を見せた。以前その仕草を見ていずみが大爆笑したので、悠太の中ではそのポーズがマイブームなのだった。今はぜんぜんおもしろくねーよ、と思いながら、悠太を座らせなおす。

 

夫の和喜は、床の上にマットを敷き、その上で由香のおむつを替えていた。おむつ替え用のマットは悠太を妊娠していた時に、友達からプレゼントされたものだ。悠太のおさがりばかりの由香がちょっとかわいそうになるけれど、あるものはなんでも使うに限る。というか、経済的に余裕があるわけじゃないから、使えるものは使うしかない。

 

「床の上の由香だなー」と言ってポニョの替え歌をのんきに笑っていて、そののんきさがいずみをさらにイライラさせた。

土曜日の朝8時半。

和喜はまだ髪に寝ぐせをつけたままTシャツと短パンを着ているが、今日はこれから出勤することになっていた。ゆうべ帰ってきたのは午前2時近く。酒を飲んできたらしく、帰るとすぐに寝付いてしまった。今日は子供を連れて代々木公園に行く約束をしていたのに、しかも現地で志保と待ち合わせする約束もしているのに、和喜は朝になって言ったのだった。 

「ごめん。うるせークライアントのダメ出しのせいで入稿がギリギリまで押しちゃってさ。今日はどうしても最終作業しなくちゃいけないんだ」

ふざけんな、クライアントだのニューコーだのオスだの、よくわからない単語を使って話すな!と、いずみは頭から火を吹くくらいの怒りに満ちたけれど、文句を言いだすと怒鳴ってしまいそうだったので、深呼吸をして押し殺す。自分の鼻息が、唇の上で熱い。

 

和喜はそれほど大きくないマーケティング会社で働いていた。もともと残業や休日出勤は当たり前の仕事だったが、不景気のあおりを受けアルバイトや契約社員を減らしていくのにしたがって和喜の業務量は増えていき、今は家で顔を会わせる時間の方が少ないほどに出勤している。かといって給料が増えるわけでもなく、飲んで帰る日が減るわけでもなかった。そんなに忙しいなら酒なんか飲まないで帰ってくればいいものを、「これが唯一のストレス発散なんだから許せ」と言って、酒量は変わらない。それどころか増えたくらいだ。

おかげで、出会ったころは体育会出身らしい筋肉質だった腹周りは、今や見る影もなくだぶつき、目の下はいつもクマができている。いずみとしては和喜の健康が心配ではあるけれど、それ以上に腹立たしさが勝ってしまう。

 

おむつを替え終えた和喜は「はい、ポニョニョンのできあがり」と言って由香を抱きあげ、ソファの近くに座らせた。つたい歩きをするようになった由香は「はー」と言いながらソファにつかまり、よろよろと立ち上がった。

あーもう、といずみは思う。由香の動きも気になるし、悠太の暴れ具合も気になる。悠太の朝ごはんは、あとバナナを食べれば終わりだ。早く食べてくれ。

 

和喜がいない時ならそれなりに、いずみは由香の動きをてきとうに無視したり、悠太を暴れるままにさせておいたり、自分ひとりのできる範囲内でのバランスを取るけれど、今ここには和喜がいる。いるんだったらどうにかしてよと、つい思ってしまう。

「ちょっと、由香のことちゃんと見てよ。私、今悠太に食べさせてるんだから」

「見てるよ」

見てやってるじゃないか、といずみには聞こえて、また腹が立った。

「ゆうべ作ったチャーハン、冷蔵庫のタッパーの中にあるから食べて」

「えー。朝からチャーハンはちょっときついでしょ」

「じゃあなんかてきとうに食べてよ」

 

和喜は無言のまま、狭いキッチンへ歩いていく。いずみには見えなかったが、きっと食パンを1枚取ってオーブントースターに入れ、お湯を沸かしているのだろう。トーストとインスタントのコンソメ味カップスープ。これは飲んで帰った翌朝の和喜の定番メニューだった。自分の好きな朝食は自分で作るし、子供のおむつもきちんと替える夫に、いずみは少しうしろめたさを感じ、キッチンを覗こうと立ち上がったふくらはぎに、悠太が「とう!」とグーパンチで攻撃を仕掛けてきた。手加減のない子供のグーパンチは、かなり痛い。いずみの優しい気持がへろへろと萎えた。

「痛い......っつーの。なんでそういうことするの!叩かれたら痛いんだよ?お友達にそういうことしたら、ママ怒るからね!」

にらまれた悠太は、上目づかいにいずみを見上げると、口をへの字にしてもぞもぞ横へ移動していく。そして立ち上がって、キッチンへちょろちょろと走り出した。悠太の行く先には和喜がいて、立ったま焼きあがったトーストをかじり、スープの入ったカップをスプーンでくるくる混ぜている。いずみはため息をついて腕組みをした。

 

「パパが休みだから代々木公園に行く予定だったのに......こんなチビふたりも連れて行けないよ」

「だったらしーちゃんにうちに来てもらえばいいじゃん。いつもそうしてるんだし」

「梅雨になる前に公園に行こうって言ってたでしょ?今日は公園に行く予定で、公園に行く気分で、志保ともそう約束したの!」

「じゃあ妙正寺公園にしたら。代々木より近い」

「妙正寺公園じゃなくて代々木公園に行きたいの。だいたい何度約束破れば気が済むのよ。こないだだって......」

「じゃ、俺そろそろ着替えるわ」

 

和喜はいずみの話を遮って狭い部屋を横断していく。しまじろう絵本を蹴り飛ばしている悠太に「絵本蹴ってもヤタガラスのユニホームは着れないぞ。蹴るならボールにしとけ」と声をかけたが、もちろん2歳児に理解できるわけがない。悠太は和喜を追って「パパどこいくの」と楽しそうにくっついていく。ふたりの声は寝室から洗面台の方へと移りながら、いずみの耳に届いた。「パパは会社に行くんだよ」「ハンバーグは?」「会社にはハンバーグ、ないなあ」「ええーなんで」「なんでかなあ。こんどの休みは公園行こうな、ボール持って」

 

洗面のあたりから出てきた和喜は、寝ぐせも直り、商談のない時に着るゆるい普段着に着替えていた。そして静かに玄関を出て行った。見送らなかったいずみには、ドアの閉まる音しか聞こえなかった。2Kしかない狭い家の中では、振り返ればすぐ玄関が視界に入るのに、約束をドタキャンされたいずみは悔しくて振り返らない。

 

いってきますも、いってらっしゃいも、ただいまも、おかえりもなく、最近はいつもこんな感じだ。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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