いずみは遭難中 1

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どうしていつも直前になって約束を破るのよ。

いずみは悠太に食事をさせながら、イライラしていた。悠太は落ち着きがなく、というか2歳児に落ち着きを求める方が無茶なのだけれど、すぐに立ち上がろうとする。

「もー、ごはん食べるんでしょ。ちゃんと座ってよ」

「赤いのがいいの。赤の」

悠太がニヤついて口答えするので、ますます声を荒げる。

「だからー、これ、このごはんの上にかかってるのが、赤い袋のふりかけでしょ。何言ってんのよ、もう」

悠太は左手を高々と上げながらヒャヒャと笑い、右手でシャツをめくりあげて腹を見せた。以前その仕草を見ていずみが大爆笑したので、悠太の中ではそのポーズがマイブームなのだった。今はぜんぜんおもしろくねーよ、と思いながら、悠太を座らせなおす。

 

夫の和喜は、床の上にマットを敷き、その上で由香のおむつを替えていた。おむつ替え用のマットは悠太を妊娠していた時に、友達からプレゼントされたものだ。悠太のおさがりばかりの由香がちょっとかわいそうになるけれど、あるものはなんでも使うに限る。というか、経済的に余裕があるわけじゃないから、使えるものは使うしかない。

 

「床の上の由香だなー」と言ってポニョの替え歌をのんきに笑っていて、そののんきさがいずみをさらにイライラさせた。

土曜日の朝8時半。

和喜はまだ髪に寝ぐせをつけたままTシャツと短パンを着ているが、今日はこれから出勤することになっていた。ゆうべ帰ってきたのは午前2時近く。酒を飲んできたらしく、帰るとすぐに寝付いてしまった。今日は子供を連れて代々木公園に行く約束をしていたのに、しかも現地で志保と待ち合わせする約束もしているのに、和喜は朝になって言ったのだった。 

「ごめん。うるせークライアントのダメ出しのせいで入稿がギリギリまで押しちゃってさ。今日はどうしても最終作業しなくちゃいけないんだ」

ふざけんな、クライアントだのニューコーだのオスだの、よくわからない単語を使って話すな!と、いずみは頭から火を吹くくらいの怒りに満ちたけれど、文句を言いだすと怒鳴ってしまいそうだったので、深呼吸をして押し殺す。自分の鼻息が、唇の上で熱い。

 

和喜はそれほど大きくないマーケティング会社で働いていた。もともと残業や休日出勤は当たり前の仕事だったが、不景気のあおりを受けアルバイトや契約社員を減らしていくのにしたがって和喜の業務量は増えていき、今は家で顔を会わせる時間の方が少ないほどに出勤している。かといって給料が増えるわけでもなく、飲んで帰る日が減るわけでもなかった。そんなに忙しいなら酒なんか飲まないで帰ってくればいいものを、「これが唯一のストレス発散なんだから許せ」と言って、酒量は変わらない。それどころか増えたくらいだ。

おかげで、出会ったころは体育会出身らしい筋肉質だった腹周りは、今や見る影もなくだぶつき、目の下はいつもクマができている。いずみとしては和喜の健康が心配ではあるけれど、それ以上に腹立たしさが勝ってしまう。

 

おむつを替え終えた和喜は「はい、ポニョニョンのできあがり」と言って由香を抱きあげ、ソファの近くに座らせた。つたい歩きをするようになった由香は「はー」と言いながらソファにつかまり、よろよろと立ち上がった。

あーもう、といずみは思う。由香の動きも気になるし、悠太の暴れ具合も気になる。悠太の朝ごはんは、あとバナナを食べれば終わりだ。早く食べてくれ。

 

和喜がいない時ならそれなりに、いずみは由香の動きをてきとうに無視したり、悠太を暴れるままにさせておいたり、自分ひとりのできる範囲内でのバランスを取るけれど、今ここには和喜がいる。いるんだったらどうにかしてよと、つい思ってしまう。

「ちょっと、由香のことちゃんと見てよ。私、今悠太に食べさせてるんだから」

「見てるよ」

見てやってるじゃないか、といずみには聞こえて、また腹が立った。

「ゆうべ作ったチャーハン、冷蔵庫のタッパーの中にあるから食べて」

「えー。朝からチャーハンはちょっときついでしょ」

「じゃあなんかてきとうに食べてよ」

 

和喜は無言のまま、狭いキッチンへ歩いていく。いずみには見えなかったが、きっと食パンを1枚取ってオーブントースターに入れ、お湯を沸かしているのだろう。トーストとインスタントのコンソメ味カップスープ。これは飲んで帰った翌朝の和喜の定番メニューだった。自分の好きな朝食は自分で作るし、子供のおむつもきちんと替える夫に、いずみは少しうしろめたさを感じ、キッチンを覗こうと立ち上がったふくらはぎに、悠太が「とう!」とグーパンチで攻撃を仕掛けてきた。手加減のない子供のグーパンチは、かなり痛い。いずみの優しい気持がへろへろと萎えた。

「痛い......っつーの。なんでそういうことするの!叩かれたら痛いんだよ?お友達にそういうことしたら、ママ怒るからね!」

にらまれた悠太は、上目づかいにいずみを見上げると、口をへの字にしてもぞもぞ横へ移動していく。そして立ち上がって、キッチンへちょろちょろと走り出した。悠太の行く先には和喜がいて、立ったま焼きあがったトーストをかじり、スープの入ったカップをスプーンでくるくる混ぜている。いずみはため息をついて腕組みをした。

 

「パパが休みだから代々木公園に行く予定だったのに......こんなチビふたりも連れて行けないよ」

「だったらしーちゃんにうちに来てもらえばいいじゃん。いつもそうしてるんだし」

「梅雨になる前に公園に行こうって言ってたでしょ?今日は公園に行く予定で、公園に行く気分で、志保ともそう約束したの!」

「じゃあ妙正寺公園にしたら。代々木より近い」

「妙正寺公園じゃなくて代々木公園に行きたいの。だいたい何度約束破れば気が済むのよ。こないだだって......」

「じゃ、俺そろそろ着替えるわ」

 

和喜はいずみの話を遮って狭い部屋を横断していく。しまじろう絵本を蹴り飛ばしている悠太に「絵本蹴ってもヤタガラスのユニホームは着れないぞ。蹴るならボールにしとけ」と声をかけたが、もちろん2歳児に理解できるわけがない。悠太は和喜を追って「パパどこいくの」と楽しそうにくっついていく。ふたりの声は寝室から洗面台の方へと移りながら、いずみの耳に届いた。「パパは会社に行くんだよ」「ハンバーグは?」「会社にはハンバーグ、ないなあ」「ええーなんで」「なんでかなあ。こんどの休みは公園行こうな、ボール持って」

 

洗面のあたりから出てきた和喜は、寝ぐせも直り、商談のない時に着るゆるい普段着に着替えていた。そして静かに玄関を出て行った。見送らなかったいずみには、ドアの閉まる音しか聞こえなかった。2Kしかない狭い家の中では、振り返ればすぐ玄関が視界に入るのに、約束をドタキャンされたいずみは悔しくて振り返らない。

 

いってきますも、いってらっしゃいも、ただいまも、おかえりもなく、最近はいつもこんな感じだ。

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プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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