いずみは遭難中 3

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大人になったいずみは、自分のオトコウンの良し悪しに思いを馳せることもなく、それなりにいくつかの恋愛をして、30才になる少し前に和喜と出会った。

和喜とは気が合って一緒にいると楽しい。おまけに家事はひととおりできるし、まじめに仕事をして普通に収入がある。どうやら嘘をつかない人のようだし、神経質だったり窮屈だったりするところもなく、なにしろ体が頑丈だ。

結婚するならこの人しかいない、といずみは思った。

 

和喜にプロポーズされたのは、付き合って半年後。「俺の会社、あんまり給料良くないけど、いいかな」という、かなり現実的なプロポーズの言葉だったけれど、その時のいずみは、そんなことは乗り越えられる現実だと思った。

 

なのに今は、不満ばかり口にしている。今のいずみには、あの日の出来事が白くかすんで見えた。まるで吹雪のうずまく山の中で遭難しているようだ。ふもとへ続く道はすぐ近くにありそうなのに、真っ白い雪にはばまれて前が見えない。

 

「ママー!これさー、開くの?」

悠太のばかでかい声で吹雪の妄想から我に返ったいずみは、自分が今ふたりの子供を連れて混んだ電車の中にいることを思い出した。

 

「これってなによ。ドアか。ドアはね、駅についたら開くんだよ」

デニムのショートパンツにふくらはぎくらいまでのブーツを履いた若い女の子が、足元に近づいたベビーカーをよけて、ケータイをいじりながらだるそうに横にずれる。そんなウザそうな顔をしなくてもいいじゃない。「この季節にブーツなんか履いてるおまえは水虫にでもなれ!」といずみは心の中で呪った。

 

電車の中をよく眺めれば、自分以外の女性はみんなおしゃれをしているように見えてくる。近所に散歩に行くような恰好をしている自分にふと気付き、なんとなく寂しくなった。メイクはSPF35の日焼け止め下地にパウダーをはたいた程度。身につけているのはTシャツとジーンズとスニーカー。少し前に、ネットの通販で「激安!この夏のモテワンピ!」と書いてあった、かわいらしい夏用のワンピースを買ったけれど、どう着ていいのかわからず、ハンガーにかけたままになっていた。今日は思い切って着るつもりだったのに、結局やっぱりうまい着方がわからなかった。だいいち、子連れには動きにくくて不便そうな服なのだ。

 

悠太が手を振り回し、スーツ姿の青年にぶつかった。いずみがあやまると、青年は気まずそうに黙って小さく会釈し、そっぽを向いた。

「悠太、ちゃんとまっすぐ立っててよ」

「なんで?」

「なんでじゃないの」

すると、それまでうとうとしていた由香が目を開け、顔をゆがめた。まずい、といずみが思った瞬間、由香は「あー」と奇声をあげ始め、まわりの人々が目線だけをいずみたちに向ける。目線はすぐに、何事もなかったようにそらされたけれど、その一瞬がいずみに重くのしかかる。混んでいるこの車両の中ではかがんで由香を抱きあげることもできないし、悠太は相変わらずふらふら動いている。閉じ込められた車両の中で、いずみはどこへも行けなかった。やっぱりここは吹雪の中だ。吹雪で動けなくなった遭難者のように、私は小さく縮こまるしかない。

 

「まだー?」

手をつないで体をくねらせていた悠太が、不満げな大声をあげる。この様子だとあと3分以内には暴れ始めるな。由香が泣いているうえに、悠太にまで暴れられたら収拾つかなくなる。もうちょっと待ってくれ。

「あんまりゆらゆらしないで。もうすぐ降りるよ。悠太、ゆったんにいいこいいこしてあげて。泣いちゃだめだよーって」

「ゆったん泣かないよ」

悠太はベビーカーにぐにゃりともたれてのぞきこみ、目をぱっちり開いたり口をとがらせたりして「うにゃうにゃ」だとか「だよねえ」だとか、謎の音声で話し始めた。由香は瞳に涙を浮かべたままきょとんとして、あっけにとられたように兄の顔を見つめる。

出た、テレパシー!といずみは思う。

悠太と由香は、ときどきなにやら言語以外のツールで意思疎通を図るのだ。子供と動物には霊が見えるとよく言うけれど、こういう様子を見ていると、本当に大人には感知できない何かを受信しているのではないかと思えてくる。ふたりのやりとりを眺めているうちに、いずみを取り囲んでいた吹雪の妄想はするすると消えていった。

そうだ、私が遭難なんかしていたら、この子達がどうなるかわからない。しっかりしなくちゃ。

テレパシーを操っていた悠太の集中力はすぐに切れる。案の定、すぐにぐずり始めた。

 

「まだー?」

「もうすぐ、駅に着いたら降りるよ。公園にはしーたんも来るんだよ」

「ハンバーグは?」

「ハンバーグはさすがに来ないね。ママゆったんの車おろすから、悠太はママの隣にいてよ。一緒に降りるんだからね。ほら、ドア開くから気をつけて。おい悠太、走らない!」

電車から降りたとたん、湿った熱い空気に包まれる。

暑い。疲れた。メールを打っている時間もなかったけれど、志保と約束した午後1時より15分遅れだ。さすがに志保はもう到着しているだろう。来てなかったら、蹴り入れてやる。

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プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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