空は曇っているけれど、梅雨前の湿った空気が暑い。いずみはベビーカーのハンドルにかけたミニバッグからハンカチを出して、額の汗をぬぐった。
準急で1駅、10分足らずで高田馬場駅だ。このあたりの車両に乗れば、確かJR線に乗り換えるエレベーターに近かったはず。ベビーカーをのぞきこみ、由香のつぶれた顔を確認する。背もたれにうずまり、朝青竜のような一重の目でじっと遠くを見ている。ご機嫌はいいみたいだ。悠太はベビーカーの脇につかまり、いずみを見上げて、うはっと笑う。
「悠太、電車大好きでしょ。電車乗るんだから、ちゃんとしててね」
「電車好きー。どこ行こっか」
「高田馬場まで行って、違う電車に乗って、原宿で降りるんだよ」
「そこさー、ハンバーグある?」
「ハンバーグはないかもしれないね」
原宿にハンバーグは腐るほどあるけれど、あると言えば絶対に「食べる!」と頑固に言いだすに決まっている。最近の悠太にとって、ハンバーグはこの世で最高の価値を持つ魔法のアイテムらしいのだ。今日はハンバーグを食べる予定はないから、最初にないと言っておいたほうがいい。
いずみは、バッグの中に入れてきた荷物を、頭の中で確認した。
おむつ、おしりふき、タオル、由香用のビン詰め離乳食と飲み物、悠太用のビスケットもあるし、おむつを入れるゴミ袋もある。大丈夫。だいたい電車で移動している時間は30分もないんだから、大丈夫。どうにかなるし、どうにかしてやる。今日は雨が降らないと天気予報も言っていた。それに、原宿に着けば志保と会える。遅刻魔の志保に合わせて、ゆっくりめに家を出た。大丈夫。
由香が生まれてから、電車の乗り換えをする場所へ、いずみはひとりきりで子連れの外出したことがなかった。悠太がベビーカーの頃は電車にも乗ったのだし、やろうと思えばできたのだろうけれど、不安が先に立ってしまい、つい先延ばしにしてきたのだ。今日は意地でも代々木公園まで行ってやる。約束を破った和喜への恨みを晴らさんばかりの勢いだった。
高田馬場駅での乗り換えはうまくいった。
しかし休日の山手線は予想通り混んでいて、いずみは戸惑った。悠太の時にベビーカーの最適なポジションを学んだはずなのに、忘れている。子供の数が倍になっただけで、不安は10倍くらいに膨れ上がったように感じる。うっかりしたらベビーカーを動かせず、おまけに悠太も見失い、原宿駅を乗り過ごしてしまいそうだ。どうしてこんなに人がたくさん乗っているのだ。
まわりが全員、敵に見えてくる......。
ふと、大学時代に「お前はメンタルが弱い」と陸上部のコーチに言われたことを思い出した。だから選手としては伸びない、と宣告されたのも同然だったのに、いずみはその時、なんだかほっとした。自分の記録が伸びない大きな言い訳をもらったような気がしたからだ。自分で作った言い訳ではなく、人から与えられた言い訳なら、甘えてもいいように思えた。
高校生まではさほど努力をしなくても、体が走ってくれた。県大会の記録も持っていた。でも3年生の時に1年生に塗り替えられた。顧問の指導に従ってただ練習をしていたいずみは、どうしたらいいのかわからなくなった。実力がすべてであるスポーツの世界は残酷だ。力のある人が上になり、力の及ばない人は坂を下ってゆく。
降りたところから這いあがれるのは、メンタルの強さを持ち続け、再びトップポジションだった頃の体を呼び戻せる人間だけだ。
いずみにその力がないことは、自分がいちばんよく知っていた。
そもそも、いずみは陸上なんてそれほど好きではなかったのだ。ただ他の人よりも早いから走っていただけ。早く走れば褒めてもらえただけ。おかげで奨学金をもらって高校に入れただけ。それ以上のものではなかった。経済的に余裕のない母子家庭で育ったいずみには、奨学金はありがたかったのだ。
大学も奨学制度を使って通った。ただし、学校からもらっている奨学金ではないから、就職したら返済を始めなければならない。だから安定した仕事に就けるように教職課程を取った。
両親が離婚したのは、いずみがまだ小学校に入る前だ。母がなぜ父と離婚したのか、母は教えてくれなかった。母はあまりオープンな人ではない。いじいじしている。
一度、いずみがふとんに入ったあと、ふすまで仕切られた隣の部屋から、母の涙声や父の押し殺した低いつぶやきが聞こえてきたことがある。ふすまの間から隣の部屋の細い光が差し込んで、いずみはその隙間から両親のいる部屋をのぞいた。夏だったので、ふとんを外したこたつを食卓にしていた。正方形のこたつの上にはなにも載っていなくてつるつるしていた。両親は差し向かいに座り、母はタオルを握ってうつむき、父の姿は、いずみからは背中しか見えなかった。
それからしばらくして、父は家から姿を消した。「お父さんは別のところに行く」とだけ言った母の顔を見て、それ以上のことをきいてはいけないのだと、子供なりにいずみは理解した。
母は華奢でおとなしく、キッチンにゴキブリが出れば青ざめた顔でうろうろし(だから最終的にはいずみが戦う)、ショッピングに行ってもなかなか買う服を選べず(最終的にはいずみが決める)、子供のいずみから見ても頼りない人間だった。
そうして、いずみは自分でできることはなんでも自分でやる子供になった。母の彼氏らしき男に引き合わされた時は、これで頼れる人を手に入れられると喜んだ。いずみが小学校2年生の時と5年生の時で、それぞれ別の男だったが、結局うまくいかなかったらしく、いずみの新しい父親になることはかった。
おそらく2番目の男と破局した後だったのだろう、母が「男運がないのね」とつぶやいたことがあった。
オトコウン。
その時6年生で、外で走ってばかりの浅黒く日焼けしたいずみには、その言葉が妙になまなましく聞こえて、おまけに腹が立った。
オトコウンがなんなんだ。そんなものに頼ってるから、お母さんの人生はうまくいかないんだ。
いずみはそう思った。
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