やっぱり。思ったとおり。私は騙されない。
いずみはキッチンに立ち、右手で椅子の背を触れている。椅子の上には和喜のバッグが無造作に置いてある。左手に持っているのは、和喜の携帯電話。冷え切った瞳で見下ろす。和喜は何も知らずにシャワーを浴びている。悠太と由香は隣の部屋で熟睡している。
バカじゃないの。携帯にロックもかけないなんて。
内藤葉子。登録まで本名のままなんて。
バッグに入れたまま無防備にシャワーを浴びるなんて。
帰宅した頃にメールを送ってよこすなんて。
また会えてよかったです。私ならいつでも遊んであげますよ。連絡するね。
バカじゃないの。
悲しいし、悔しい。普通なら泣きだすのかもしれない。でもなぜか、笑いたくなった。私が何も気づかないと思っているのなら大間違いだ。バスルームから石鹸のにおいが漂ってくる。のんきに体でも洗っていればいいわ。何も気づいていないのは、あんたの方よ。バカじゃないの。
いずみは椅子の背に置いた右手にぎゅっと力を入れ、左手に持った携帯電話から今読んだメールを消去した。そして元通りバッグの中に入れる。
無意識に口をついて出たのは「ラクショウカテル」という言葉だった。陸上部だった頃、スターティングブロックに足を置きながら、いずみが呪文のように唱えていたフレーズだ。自分を鼓舞するための言葉は選手によって違うけれど、いずみはいつもこれだった。まわりの誰よりも早く走れた頃には、呪文なんて必要がなかった。自信を失くし始めたある日、ゴールを見据えながら、気づくとこの言葉を唇の上で繰り返していた。楽勝、勝てる。
和喜はタオルで頭を拭きながらキッチンへやってきて、冷蔵庫から発泡酒を取りだした。いずみは明日の朝に出す可燃ごみを、指定の袋に入れてきゅっとしばる。
「もう飲んできたんじゃないの?」
「それでも風呂上がりのビールは飲みたい」
「それ、ビールじゃなくて発泡酒」
「まあそうだけどさ。どうせ俺が飲むだけなんだからいいんだよ、発泡酒で」
なかなかいい方向にネタを振ってくるじゃない。いずみはほくそ笑みながら、ゴミ袋をもう一回、力強くしばった。スターティングブロックの位置は良好だ。
「そう言われてみれば、お友達を呼んだ時はいつも本物のビールを用意してたもんね。ほら、昔はよく会社の人をうちに呼んだじゃない?ヨコタさんとか、あと名前なんだっけ......若いのにメタボなホリベくんとか、ナイトウちゃんとか。最近ちっとも呼ばないね」
「横田は俺以上に忙しくて余裕なさそうだから、誘っても付き合い悪いんだよ。堀部と内藤は早々にうちの会社に見切りをつけて転職した、って言わなかったっけ」
「あ、そうだったね。忘れてた」
いずみはしっかり覚えていた。
ふたりとも和喜の後輩にあたる契約社員で、内藤葉子は去年の春、堀部はそれよりも前に会社を辞めている。家には由香が生まれる前に2回、いや3回来たことがあった。目鼻立ちも服装も派手な、深夜番組のひな壇タレントのような葉子のことを、いずみははじめ堀部の恋人と勘違いをした。「髪型が変だよ」と酔った堀部の髪をしきりにいじる様子が、とても親密そうに見えたからだ。
しかしすぐに、彼女が誰の体にも必要以上に接触することがわかった。いずみの腕や肩にも、ことあるごとに触れる。いずみさん、なにか手伝いましょうか。いずみさん、片づけは後にしてあっちに行きましょうよ。いずみさん、赤ちゃん抱っこしてもいいですか。
葉子のしっとりとした手のひらに掴まれるたびに、いずみは何とも言えない気持の悪さを感じた。この子は計算高い、といずみは直感した。媚びるように体に触れてくるのは、親しくなりたいからではないだろう。「私はあなたの敵じゃないの。だから油断していてね」というアピールだ。私を油断する方向に導いて、何を画策しているのだろう。
その時はまだ、いずみは気付かなかった。
疑いのきっかけは去年の冬、由香が生まれてしばらく経った頃に訪れた。
出産後はさすがに以前より早く帰ることが多かった和喜が、その日は遅くなると電話をかけてきて、結局午前をまわって帰宅した。既に布団に入っていたいずみが起き出すと、和喜は「仕事がやばいくらい立て込んでいて参った」だの「飲みたくもないのに誰それに誘われて困った」だのと聞きもしないのに喋り出した。酒盛りしたメンバーには内藤葉子の名前も入っていた。それ自体は怪しくもないが、不自然だったのは、参った困ったと文句を並べるわりにはさっぱりとした顔をしていることと、喋り続けるあいだ一度もいずみと目を合わせようとしないことだった。
何か隠している。