2010年11月アーカイブ

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小山駅に到着する直前で、ベビーカーにうずまって眠っている由香と、長旅に飽きていずみの膝につっぷして不機嫌そうにもにゃもにゃ動いている悠太を見て、はたと気がついた。

そういえば母親は車で迎えに来ると言っていた。電車じゃなくて車で。

母が乗っている車の名前は忘れたけれど、チャイルドシートなんてついていない軽車両だ。どうしてこんな重要なことを忘れていたんだろう。そんな車に子供達を乗せるわけにはいかじゃない。

 

いずみは慌てて母親にメールを送ったが、いっこうに返信が来ないまま電車はスピードを落とし始めた。仕方なくいずみは携帯電話をジーンズのポケットにねじ込み、バックパックを背負うと、悠太を立たせてベビーカーのハンドルを握った。

ドアを抜けてホームに降り立ち、ため息をついて顔をあげると、遠くのベンチに座っている母親と目が合った。母は相変わらず華奢で、もう五十代も半ばになるというのにいずみを見つけたとたん少女のように笑った。ひらひらギャザーの入ったスカートで可憐に微笑みながら近づいてくる母親に、いずみはむしょうに腹が立った。昔からそうだ。何にも考えてない。実行能力があるばかりで計画性がまるでない。母が口を開く前にいずみはまくしたてた。

「どうやって車で桐生まで行くのよ。チャイルドシートは? メール見てないの? どうしていつもそうやって......」

「メール? あらあほんと」

母はおっとりとバッグから携帯電話を取り出し、顔から40センチくらい離して眺めた。年甲斐もなく少女ぶってはいるものの体は正直に衰えているのが垣間見えて、いずみはそれ以上まくしたてる気が失せた。口をぎゅっと結んで怒りを抑えつける。目を覚ました由香が、んくんくと泣きだす前の呼吸を始めた。いいよなあ、子供って。不愉快な時は泣けばいいんだから。泣きたきゃ好きなだけ泣いてればいいわ。本当は私だって泣きたいくらい切羽詰まってるのよ。

母は携帯電話を丁寧にバッグにしまうと、膝を折って由香の相手をし始めた。悠太は祖母の顔を忘れてしまったのか、にやついた顔をしていずみの足の後に隠れている。母はなぜいずみが子連れで故郷へ帰ってきたのか問い正す様子も見せず、ただ楽しそうに悠太の手を取ったり、帽子をかぶりなおさせたりしている。しゃがんだ母はいずみを見上げた。

「遠かったもんねえ。車はさあ、運転手がいてチャイルドシートもあるだいね。ほら悠ちゃん、ばばちゃんと手繋いで行ぐ? 由香はいずみが抱っこした方がいいんじゃないかしら」

方言と標準語が入り混じっていて、そのことも今のいずみには気に入らない。娘がこんなに傷ついているのに、どうしてそうやって呑気にしていられるのだ。

「運転手ってどういうことよ」

「運転手? ああ、お友達だいね」

母は悠太の手を引いてすたすたと歩き、いずみはベビーカーを押して後をついて行った。駅を出ると母は迷うことなく白いミニバンに近づいていった。運転席に見える人影が動き、ウインドウが降りる。丸顔で額の禿げあがった男が満面の笑みで手を振り始めた。

「ちょっとお母さん、誰なのよ、あの人」

「誰って、ハシモトさんだがん」

「だからそのハシモトさんて誰なのよ?」

いずみの戸惑いは完全に無視された。ハシモトさんなる男が車から出てくるやいなや、いずみ達はその見知らぬ男に紹介された。小柄で小太りのハシモトさんは、よく見れば肌つやも良く母よりいくらか若いように思える。いったいこの人は誰なのだ。どうしてこの人が私達を家まで送ろうとしているのだ。いずみが由香をしっかり抱えて固まっている間に、ハシモトさんはベビーカーやらをトランクに詰め、不安げな顔をした悠太をチャイルドシートにくくりつけようとした。チャイルドシートはご丁寧にも2つ装備してある。

 

「ちょっと待ってよ。その前に2人のおむつ、替えさせてもらいますから」

いずみは挑戦的に吐き捨てると、手際良く由香と悠太のおむつを替えてシートに2人を固定し、自分も車に乗り込んだ。車が動き出すとハシモトさんの運転は柔らかく快適なので、それが気に入らない。

「いやあ、いずみちゃんは写真で見るよりもなっから美人でぶったまげたいなあ。今日は寿司でも取るようだね」

しらじらしくお世辞なんか言うのも気に入らない。だいたいなぜ私が帰ってきたのかと心配するでもない、この不自然に和やかな雰囲気はなんなのだ。帰ってこなければよかった、といずみは思った。この車の中には5人も人間がいるのに、味方はそのうちの2人だけだ。

「お寿司ねえ。悠ちゃんはお寿司は好きかい?」

助手席の母が振り返ったが、悠太はいずみを見たまま答えず、いずみはいい気味だとほくそ笑んだ。

「悠太が好きなのはハンバーグだよね」

「うん。ハンバーグ。ふりかけ」

「ふりかけも好きだよね。悠太の好きなふりかけ、ちゃんと持ってきたんだよ」

いずみは帽子の後がついた悠太の額をなで、由香のみっちりした太ももをなでた。よく知っている、いつもの感触。やっぱり帰ってこなければよかった。そう思ううちに、車は実家へ到着した。
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雅人との出来事をかいつまんで話すと、志保が前のシートの背中を、後からどすんどすんとパンチし始めた。

「その店長、鋭い! 嘘だよ、ぜーーーったい嘘ついてたんだって。なんでメイ先輩があんな望月ごときに騙されんだよ。どうしてもっと怒らないわけ?」

どうやら志保はとてつもなく怒っているようだ。芽衣子にも、なぜありきたりな普通の怒りが湧いてこないのか不思議だった。

「あんな望月ごときとさっさと別れられて良かったっつの! 次いこう次! おい日向、あんた友達いっぱいいるじゃん。メイ先輩に誰か紹介してやってよ!」

 

ハンドルを握っていた日向は、前方を見たまま苦笑した。

「ちょっと志保さん、暴れないでくださいよ。ていうかオレ思うに、その望月って人、半分くらいは本当のこと言ってるんじゃないですかね。オレのかあちゃんもよく、病気になること知ってたら結婚しなかった、今からでも離婚してくれていい、ってとうちゃんに言ってたからな」

「なんだよおまえ、あいつの肩持つ気かよ?」

「いやそうじゃなくて。早期発見とはいえ、肺ガンっていったら重病でしょ。将来の保証もできないって思ったら、迷惑かけないうちに消え去りたいと思う人もいるっしょ」

「ぜんぜんわかんねえよ!」

「そういう人もいるし、思わない人もいて、いろいろいるんすよ、たぶん。オレだったらやっぱり心細いから誰かと一緒にいて面倒見てほしいすけどね」

 

だからその"誰か"が私ではなかったってことなのよ、と芽衣子は言いかけたがのみこんだ。すべてが嘘だったと考えるのも、半分くらいは本当だったのに結局自分は選ばれなかったと考えるのも、どちらもやりきれない。そもそも志保と日向の前で、どうしてこんな話を始めてしまったのだろう。どうせ他人は、自分と同じやりきれなさや悲しさを感じることはできないのに。共感や同情はあくまでも共感や同情で、私があの時に味わった苦しい気持そのものを分かち合えることなんてできない。だからシャッターを下ろすのだ。

それでも芽衣子は、何かを期待して打ち明けてしまった。打ち明けることで前に進めるような気がした。たとえ共感や同情や、見当違いの意見でも、自分ひとりで考えているよりいい。怒りの湧かない自分の代わりに、こうして怒ってくれる人がいると救われる。

 

「そろそろ目的地に到着なんで、もういちど住所教えてくれません? それからもうすぐ着くって連絡しといたほうがいいっすね」

芽衣子は携帯電話に登録したいずみの実家の住所を探した。以前いずみの母親にお礼の贈り物をしたことがあるから知っているだけで、今まで一度も来たことのない場所。最近は仕事ばかりで旅行に行くこともなかった。思いつきで始めた夜のドライブは、ずいぶん遠い場所へ連れてこられたような錯覚に陥る。

日向は一度だけ曲がり角を間違えただけで、首尾よく目的の住所に到着した。静かな住宅地の路地を入ると、アスファルトの上に座っている人影があった。月を見上げながら、恐ろしく無防備だ。いずみだった。

 

「さっきのさっきまで嘘だと思ってたよ。由香が泣きまくってたんだけどちょうど寝たところ。みんなタイミング良すぎ」

立ち上がったいずみは思いのほか元気そうで、志保が心配したような岬や樹海に行くことすら思いつきもしなかった様子だ。元気そうな顔が見られただけでも、芽衣子と志保は満足だった。家にあがっていけとしきりにすすめたけれど、三人とも遠慮した。

「ほら、こいつは明日も仕事だからさ。夕方からだけど」

 志保に小突かれた日向が、うっすと気の抜けた返事をする。

「しーちゃんからいろいろ噂は聞いてたけど、こんなところで会えるとは思ってなかったよ。帰りもまた日向君が運転するの? そういえばお絵かき教室はまだ通ってるの?」

 またお絵描き呼ばわりっすか、と日向が苦笑した。

「お絵描き教室は、今の講座でやめるつもりなんすけどね」

「なんでよ。せっかくしーちゃんが、ヘンな友達ができたって張り切ってたのに」

ヘンな友達っすか、とまた日向は苦笑した。なんだかこの子は苦笑が似合う、と芽衣子は少し笑ってしまった。

 

思いつきで、初めて会った友達の友達の車で夜中に出かけ、知らない場所で知っている人に会って。月はきれいで、夏の夜の空気は生温かく、それに誘われて普段では考えられないような打ち明け話をして。

これをなんて言うんだろう。たぶん、非日常と言うのだろう。

芽衣子は、そしておそらく他の三人も、非日常的な出来事のせいで体がほんわりと浮いたように感じていた。こんな時間の中にいると、日々の良いことも悪いことも、数十年の人生なんてすべて幻のように思えてくる。何十億年もある地球の歴史の中の、ほんの些細な時間。それでも怒ったり傷ついたり喜んだりする気持ちは、決して幻ではなくその人その人の上に重くのしかかるのだ。

「心配かけてごめんね。みんなわざわざ来てくれてありがとう。というか、わざわざこんな田舎まで来る人なんてあんた達くらいだよ」

 

いずみとはほんの30分ほど話をして、三人はまたドライブを始めた。すぐに志保がアイスを食べたいと言い出し、コンビニに寄った。アイスの並んだ冷凍ケースを覗きこみながら、志保と日向があれこれ言いあっている様子に呆れながら、芽衣子がふとドアの方を向くと、紺色のポロシャツを着た男の後ろ姿が目に入った。なんとなく見覚えがあるような気がしたが、すぐに忘れてレジに向かった。車に乗り、「超うめぇ」と言いながらガリガリ君を食べ終わった志保はおとなしくなった。眠ってしまったようだ。

 

盛り上げ係の志保が撃沈し、エンジンとラジオの音しかなくなった頃、日向が突然言った。

「さっき、ていうかずいぶん前の話の続きなんすけど」

「うん」

「上とか下とか」

「ああ、店長が言ったことね」

「上とか下とか、オレよくわかんないすけど、上見たら憧れて努力しなくちゃいけなくてうるせえよって感じだし、下見たら自分は幸せだって満足して努力しないし。上見ても下見てもキリないじゃん?」

「うん」

「でさ、あの標識って上向いてるじゃないですか」

日向が左手で指す方向のはるか先に、ブルーの道路標識があった。白で矢印が描かれている。一方は左へ、一方は上を向いていた。標識は瞬く間に車の上を通り過ぎ、芽衣子は思わず開け放した窓の外に首を出した。

「あれって平面上の表現だから上向きに描いてあるけど、前方っていう意味じゃないすか」

「うん」

「ってことは、上とか言われても、"前へ進め"でいいんじゃないすか? よくわかんないすけど、前に進めばいいんすよ」

 

ああそうか、と芽衣子は納得した。日向が、肉親である母親がいなくなってもなお、親の再婚相手と連れ子を屈託なく家族と呼んでしまえるつながりの正体がわかった気がした。愛でもしがらみでも日常でもない。前へ進む。進んだ未来には、諍いや葛藤や別離が待ち受けているかもしれないけれど、前へ行く意志があるのならすべてを引き受けて進む。そういうことなのだ。

 それがわかったとたん、コンビニで後ろ姿を見た男が誰なのか、記憶の中で繋がった。オイちゃん、いずみの夫だ。

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「一緒にいて芽衣子が得する未来なんてひとつもないんだよ。芽衣子はまだ若いし健康できれいで、しかも人好きのする人間じゃないか。芽衣子の持っている未来は安定した穏やかな未来に違いなのに、たった2年間のためにわざわざ苦労を背負いこむ意味があるの?」

 知り合ってからの間、雅人がこんなふうに自分の思いを吐き出すのは初めてだった。自分の思いのはずなのに、この人はまるで他人事のように自分を語る。目の前に現れた状況を、他人事に振りかかった出来事のように処理していく。

 志保がよく芽衣子のことを秘密主義と言うけれど、この人はそれ以上だ。鼻先でシャッターを下ろされた気分を、いつもは下ろす方の芽衣子が痛いほど味わった。そして雅人の閉ざしたシャッターはよく磨かれた鋼鉄製のように、厚過ぎ、硬過ぎて、手を触れても冷たい感触しか伝わってこない。再び触れるのが怖くなるほど冷たかった。

 もう何を言っても冷たい扉を開けてはもらえないだろう。

 涙が出てくるのは悔しさからなのか、怒りなのか、悲しみなのか。涙を流させている感情が何なのかなんて、こんな時はわからない。

 少なくともわかったことは、もはや自分が必要のない人間ということだった。

 

「どうしてそんなに自分勝手なことができるのよ」

「ごめん」

「勝手に手術でもなんでもして死んじゃえばいいよ」

「ごめん」

 なにを言っても静かに謝るだけの雅人に、もう食い下がっていく勇気はなかった。芽衣子は涙で時々咳き込み、ふらふらと立ち上がると、雅人が持ちこんでいたスポーツバッグをクローゼットの中から探し出し、ネクタイやTシャツ、下着などを乱暴に詰め始めた。

 

 2年間の間に、芽衣子は何度か、思いつく数々の未来をシミュレートしてきた。雅人がいつか離婚届を出して自分と一緒に生活する未来。離婚が成立しないまま奇妙なバランスの中でいつまでも過ごす未来。不安定な毎日にうんざりして芽衣子自身が去っていく未来。雅人か芽衣子が他の相手に惹かれ、どちらかが傷つけ、どちらかが傷ついて別れる未来。他の相手の介在もなくお互いに興味を失って他人になる未来。

 いろいろなハッピーエンディングやバッドエンディングを思い描きてきたのに、目の前の現実はシミュレーションの中にはないものだった。

 

 芽衣子は荷物でふくれたスポーツバッグを、雅人の目の前にどすんと投げ出し、右手を広げた。

「鍵、返してよ。早く着替えていなくなって。私の前からいなくなってよ」

 ソファに座ったままの雅人は、しばらく考え込むようにうつむいていたが「ごめん」とつぶやくと、立ちあがって着替え、合鍵をテーブルの上に置き、バッグを持って出て行った。芽衣子はその間ずっと背中を向け、鍵が揺れる音とドアの閉まる音を聞いていた。

 

 翌日のまだ暗い時間、目覚ましのアラームが鳴る前に目が覚めた。

 部屋は眠る前と何も変わっていず、タオルケットの中で頭がぼんやりとかすんでいた。重い体をひきずるように起き出し、テーブルの上の合鍵を見てようやくゆうべの出来事が現実であることを思い知った。洗面台に置き忘れているそじた歯ブラシは、プラごみの袋に捨てた。携帯電話から雅人の番号と過去の受信メールをきれいに消した。朝日がカーテンの隙間から差し込む間も、ただ機械的に作業を進めた。

 もう連絡を取ることはないだろう。これは修復可能な諍いなどではなく別れなのだ。

 

 私生活のごたごたを職場には持ち出さないと決めている芽衣子は、自分でもよくやっていると褒めたいほどに平然と仕事をこなしていたが、店長だけはあざむけなかった。

「何かあったみたいね。ここんとこブスになってるわよ」

 ある日の昼前、カウンターの客がひけた時に店長が小声で言った。芽衣子はできるだけ明るく微笑み、小声で返した。

「さすが店長、するどいですね。実は何日か前に男と別れたんです」

「なるほどね。あなたあんまりいい恋愛してなさそうだったもの」

 芽衣子は左右を見回して他のスタッフに聞こえないことを確認してから、唇に人差し指をあてた。

「これ店長以外は内緒ですけど、相手は妻と別居してる子持ちだったんです。2年くらい付き合ったんですけど、早期ガンに罹ってもう未来はないから別れてくれって。病院も教えてくれないままいなくなったんです」

 店長は眉根を寄せて驚いたように芽衣子をじっと見た。その時、客の気配を感じ、芽衣子は接客を始めた。小一時間が過ぎ、またカウンターに静寂が訪れた頃、メイクブラシの整理をしていた芽衣子に店長が近づいてささやいた。

「こう言っちゃなんだけど、本当に病気のせいなのかちゃんと確認したの? 相手は家庭のある人だったのよね? あなたと別れる体の良い嘘かもしれないじゃないの」

 それは芽衣子が考えもしなかった見方だった。そもそもすべてが嘘という可能性も、あったのだ。

「嘘だなんて考えもしなかった、っていう顔ね。でも私、性格悪いからそういうこと考えちゃうわけよ。あなただって何が何でも追いすがってつなぎとめようとはしなかったのよね? ということはそもそもその程度のつながりだったってこと。もう忘れちゃいなさい。あなたならもっと上の男が見つかるって」

 店長はぽんぽんと芽衣子の背中を叩いて、営業顔に戻った。芽衣子は当たり障りのない表情でうなずいたが、上ってなんだろうという違和感は拭えなかった。

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「私もわからない。今のところどうなんだかわからないの。自分のしたことが良かったのか、悪かったのか」

 関越道を走りだした頃、芽衣子はためらいながら、たどたどしく、少しずつ、話し始めた。鍵のかかった日記帳を開いてページを繰るように。

 自分のことを話すのが苦手な芽衣子は、そういうやり方でしか話せない。家族のことを穏やかに笑い飛ばした日向や、元彼の結婚式の2次会で28500円を勝ち取った物語を、喜怒哀楽を交えて喋り倒した志保のようにはいかない。

 

 あの日、雅人は他人事のように言った。

「おれ、肺ガンらしいんだよ。まいった。アンラッキーも甚だしい」

 芽衣子は数秒のあいだ呼吸を忘れ、その場に立ちつくした。まるで昨日観た映画のあらすじについて語っているかのようで、少しも実感がわかない。

 もういちど言って。それはどういうことなの。よくわからないからちゃんと説明して。胸のあたりからはいろいろな言葉が生まれてくるものの、喉をふさがれたように口より外に出ていかなかった。

 明かりのつけていないキッチンスペースの入り口に立っている雅人は、部屋の蛍光灯をうしろから受けて影になっていた。どんな表情をしているのか芽衣子にはよく見えない。

「まあ肺ガンと言っても初期の初期だから、5年生存率は80%くらいあるんだ」

 ゴネンセイゾンリツ。ハチジュッパーセント。芽衣子は口の中で声にならないおうむ返しをした。

「とりあえず入院して手術、することになったんだよ。で、そのあとはもしかしたら抗がん剤」

 影になって表情のわからないままの雅人は、うん、とひとりでうなずくとまたソファに座りなおした。チャンピオンズリーグの録画が映し出されたテレビから、誰かがゴールを決めたらしい英語の実況が聞こえてくる。芽衣子はシンクに体を預けながらようやく明かりのついた居間に戻り、雅人の隣に座った。

 

「別の病院でもう一回検査してもらおうよ。間違いってことも......」

「それがさ、検査はもう十分やったんだ」

 雅人とは毎日会っているわけではないし、その日何をしていたのかを事細かに報告し合うような習慣もなかった。健康診断があったという話題はしばらく前の夕食時に聞いていた。その日の夕食に何を食べたすら覚えていないほどの些細な日常のひとこまだった。芽衣子にとっては普段どおりの日々の中で、雅人は再検査を受け、肺にファイバースコープを入れ、ひとりでがんの告知を受けていた。何も知らずに過ごしていた日々を振り返り、芽衣子は自分を責めた。何も教えてくれなかった雅人のことも、心のどこかで責めていた。

「でも、だって煙草も吸わないし......」

「喫煙者じゃなくても肺ガンにはなるんだよ。うちの親父と伯父がそうだからね。いわゆるガン家系ってやつなんだろうな。とりあえず親父よりは長生きできるとは思ってるんだけど」

 雅人の父親は40代半ばで、伯父にあたる人はもっと早くに亡くなったことを、芽衣子は思い出した。あまり家族のことを話さない、というより芽衣子も積極的には聞かなかったからなのだが、一度だけ雅人がそういう話をしたことがあった。

 黒縁メガネの奥を見つめると、雅人はいつもと変わらず飄々とした顔でこちらを見つめ返した。雅人が平然としているのが、芽衣子にとっては少しだけ救いだった。これで雅人まで取り乱していたら芽衣子は話し続けることすらできなかっただろう。

「手術はいつ?いつからどの病院に入院するの?そうだ、入院するならいろいろ準備が必要でしょ。下着とかパジャマとか......パジャマより寝巻みたいなものの方がいいのかな」

 

 とても落ち着いてなどいられず立ち上がった芽衣子の腕を、雅人はやんわりとつかんだ。振り返って見下ろすと、雅人は首をゆっくり横に振り、小さな子を諭すように言った。

「準備はしなくていいんだ。それは自分でやるから大丈夫。芽衣子は」雅人はそこで少し言葉を切った。「芽衣子は何もしなくていいんだよ」

 なぜそんなことを言うの。そう思い振り払おうとした芽衣子の手首を、雅人は強い力でつかみ、芽衣子は崩れるようにソファに体を落とした。

 その時にようやく気付いたのだった。雅人はただいつものように飄々としているのではなかった。低く響く声が、砂を含んだようにざらついている。たぶん、私が最も聞きたくないようなことを、これから聞くことになる。芽衣子は予感した。

 

「俺達、2年ほどしか一緒にいないよね。2年というのは短くもないけど、そう長くもない。仮に芽衣子が80才まで生きるとすると、2年なんて人生のうちのたった40分の1だ。芽衣子が学校に通っていた14年間やこれから先の50年に比べれば、ほんの短い時間だよ。だからまだまだ修正の余地がある。忘れてしまえる程度の月日だと思うんだ。だから終わりにしたい」

 芽衣子はどんどん早くなる自分の呼吸に戸惑いながら、雅人をにらんだ。

「どうして、今、こんな状況で、そういうことになるのよ」

「勝手なのはわかってる。でも考えてみて。俺がその、女の人から見ればダメな人間だというのは自分でもわかってる。きちんと離婚もせずにずるずるそのままでいたり、自分のことしか考えずに行動したり、怒られてからじゃないと芽衣子の気持ちがわからなかったり。そのうえ健康でもない。以前話したと思うけど、親父は44才で死んだんだ。同じ肺ガンでね。俺だってそれほど長く生きていないかもしれない。今回の入院期間中は病休が取れるけど、もし再発でもしたら失業する可能性もある。そのうえ子供の養育費も払っているし、この先も必ず払い続けるだろう。そんな人間と一緒にいたい?」

 

 いつかこんな日が来ることを考えなかったわけではない。ただ、すべてが唐突すぎるせいで、体から心がすっと離れていきそうだ。芽衣子は力任せに雅人に掴まれていた手を振りほどき、雅人の足を蹴り、開いた手で頭を上から殴った。雅人は避けずに殴られたままになっていたが、震える手はうまく当たらず、耳のあたりを無様にかすっただけだった。

 手のひらに感じた痛みが、今にも離れようとしていた心を体に呼び戻した。芽衣子はもうそれ以上雅人の顔を見ていられず、浅い呼吸をしながらうつむいた。

「そうやって私のことを気遣ってるようなこと言って、どうせ帰るんでしょ。家族のところに」

 雅人は答えない。泣くのは見苦しいと思っていた芽衣子の頬を、涙がつたった。いちど溢れるともう取り返しがつかないから、泣くのは嫌なのだ。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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