2010年10月アーカイブ

広告業界の中心世代は30~40才台。

50才を過ぎて現業でバリバリも段々少なくなっていく。

我々の会社を取り巻くフリースタッフの間でも世代の壁はなかなか乗り越えるのは難しい。

わたしが現役時代にK社の仕事でお世話になったNカメラマンが目の障害もあり、日本そば屋を開業したと聞いたのは数年前。

CMカメラマンとしてのこだわりや感性を活かしたお店作りで繁盛していると聞いた。

 

当時私もお世話になった大手広告会社OGのAさんとメイクアップアーチストのYサンを誘って先週の金曜日にNサンのお店『日曜庵』を訪ねた。

ご夫婦で経営するお店の場所は葛飾柴又。営業は週末の金、土日の3日間(11時半から16時頃まで)。

今は亡き笠知衆の御前サマと渥美清の寅サンがやり合った柴又帝釈天の本堂の裏、川甚の手前の角を曲がったところがお店の所在地。。

スペイン風のピンクの壁の一軒家に木綿の暖簾が風にたなびき、立て看には『どうぞ』と。

落ち着きのある自然光の高い天井のフロアにはゆったりとした時間が流れていた。

店内小物、装飾品、印刷物、食器に至るまですべて店主のアイディア、デザイン。

 

元カメラマンの店主はすぐに我々を歓待してくれた。

広告業界にはほとんどアナウンスしなかった事、最初はカルチャースクールで蕎麦打ちを学んだ事、秋の新蕎麦のうまさは開発した貯蔵法で確保できる事、苦労を重ねながらようやく十年近く経って繁盛店になった事、好きな事を少ない時間で実現している満足感などについて話をしてくれた。

開店当初はお客様が入店するたびに『オイ、ホントにお客さんが来ちゃったよ』と奥様と目を合わせて不安がってしまったというエピソードが当時のN店主の緊張感をうかがわせた。

 

N店主お勧めの常温日本酒と出汁巻き玉子、板わさ、お豆腐(塩&オイル)、蕎麦がきをいただいたあと、粗びき蕎麦と鴨つけ蕎麦。美味かった。

品質にこだわり、かといって価格は抑えての店主の気持ちが十分に伝わるテーブルだった。

裏メニューの突き出し、デザートまでいただき豊かな気持ちでお店を後にした。

お店近くの山本亭でお茶を楽しんでから、Nカメラマンにとって天職はどっちだったんだろうか、なんて考えながら会社に戻った。

昭和の匂いをたっぷり含んだ帝釈天参道と共に、又来てみたい街がひとつ増えた。

今月初めに社内のHプロデューサーから社内オールメールでキャンプ開催の呼びかけがあった。ほぼ社内最年長者の私は今更キャンプも無いなと思っていたところ、Hプロデューサーから『JIZOサンは当然出席っすよね』と有無を言わせぬ発言。

小学生か中学生時代以来の1泊キャンプ(バンガロー)に参加してきた。

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神奈川県の津久井湖近く、道志川沿いのオートキャンプサイト。

定員20人のバンガローに社内からの参加者13名、ついこの間まで社内ディレクターだったKクン(実はこの企画の発案者)をいれて総勢14名の大世帯。

土曜日の高速道路は多少の渋滞も有り、3台の車に分乗して芝公園の会社を出発してから4時間近くかかって全員がキャンプサイトに到着した。

そこからは無礼講、自らの食べたいモノは自らで調理するをモットーに62歳から25歳まで男女14名の無目的合同合宿。

早速ダイジローシェフの指示の下、或る者は料理の下ごしらえに、或る者は火元の安定確保に、其々のポジショニングを見つけ出した。

JIZOは焼酎のお湯割りを片手に働く若者たちを眺めながら道志村の秋を楽しんだ。

夕闇が迫る頃タンドリーチキンやタコス、各種焼き物(バーベキュー?)、トン汁などが完成し、主催したHプロデューサーの狙い通りダラダラと秋の夜長を楽しんだ。

最年長の私はさすがに23時過ぎにバンガロー内で毛布にくるまったが、途中目覚めた2時ごろ、若者たちの話はまだ盛り上がっていた。

普段忙しい仕事中心の仲間たちが非日常の一宿一飯のバンガロー生活で新しい人間関係を作る、とっても良い事です。

会社生活ではなかなか知り得ない、各個人それぞれの魅力が伝わり、感じられます。

私にとっては62年の人生の中でかなり印象的な道志村の秋の夜。

参加者それぞれの人生の中でも忘れられない楽しい一夜となって、皆の記憶に残った事と思います。

 

今朝6時、目覚めたのは私が一番。近くの川沿いの道をウオーキングしてからバンガローに戻ってもまだ誰も起きてこない。そうだよねまだ皆が寝てから4時間も経っていない。

7時前にダイジローシェフが責任感からかお目覚め。早速火を熾す。

私も種火をもらって七輪に火を熾す、何十年ぶりでしょうか木炭で火を熾すなんて。

秋の朝の冷気の中で沸かしたお湯でコーヒーを入れる、普段コーヒーを飲まない私もうまいと思う。

キャンプ生活が長いダイジローシェフは様々な朝の料理を始める、私はひたすらお湯番。

そして8時、朝に弱いメンバー達を起こしに行った。

ここでもコンセプトに従ってダラダラとゆっくりの朝食。オムレツとは思えないオムレツやトースターで焼いたんじゃない炭火焼きのトーストを楽しんだ。

10時半過ぎに撤収開始、ここは仕事柄テキパキと完璧。30分で完了。

燃えるゴミをU字溝で焼却処理をするという大役を見つけ出し、十分に楽しんだJIZOだった。

今回のキャンプで燃える火の前で視線をおとすオトコの姿をいくつか見つけた。

哀愁、懐の深さを感じるシーンです。

 

撤収後は近くの立ち寄り温泉へ。私にとっては多少ぬるい湯でしたが、2時間のんびりと湯につかり、昨日からの体中の燻された匂いを洗い流す事が出来た。

姉キャンをもじって『兄キャン』という社内キャンプ、発起人のKクン、Hクン有難う。

14人の参加者の記憶に残る2010 Autumnになったはず。

記念マグカップまで作って盛り上げてくれた幹事の皆さんに重ねて Thanks a lot.

 

昨日は早く帰り、夕食後にTV朝日のタケシの番組を観た。

細野豪志、松本剛明と彼は民主党小沢元幹事長の『ごますり三人衆』と呼ばれていたそうだ。

平均年齢31歳弱の若い検察審査会メンバーが出した結論に小沢氏が起訴議決の執行停止を申し立てたのにもビックリしたが(10/18申し立ては当然却下)、番組内で原口クンは小沢氏が被害者であり、訳の分かんないトーシロが出した結論は間違いだ、こんな事を容認したら日本はとんでもない社会になると力説したのだ。

客観性、社会性を失ってしまったね。原口クン。

検察は公判維持が可能かどうかで小沢氏の起訴か不起訴かを決めた。

小沢サンに対する様々な思いはあってもだ。

それを若いトーシロ達は許さなかった、限りなくクロに近い小沢事務所(聞くだけで寒気がするリクザンカイ!)の活動、会計業務はもう一度キチンと精査する必要が有りますよ、と言っているだけだ。

検察審査会が有罪だの無罪だのと言ってはいないのだ。

この後たっぷり時間をかけて公判で争えば良いのです。

私は国会での証人喚問も必要はないと思っている。

小沢氏が絶対の自信を持ってシロだと主張し続ければ結論は出るのだから。

同時に進行する秘書サンたちの裁判も互いに影響しながらね。

つまりそうなる事は小沢氏の政治生命はほとんど失われるという事、そうはさせじと挽回策を練っている小沢氏弁護団。それを擁護しようとする原口クン。

無様だよ。

政治家、というよりもオトコとしての生き様、美学を感じないよ。

往生際が悪すぎ。

潔さに対して市民は敏感ですよ。

民主党政権誕生まではあのドングリマナコで旧政権の痛いところを突き、頑張っている奴だなと思っていたのに、その本質が小沢命だったとは、私の不明の致すところ。

郵政大臣時代も色々なエピソードをお作りになったようですが。

いまさら反小沢に戻るのも原口クンの生きる道には外れるでしょうから、小沢命で行くしかないと思うが、TV出演はもう止めよう。

観ている僕たちがツライから。

池部良さんが逝ってしまった。

大正7年生まれ、私の亡父よりも1歳上だ。略歴を見ても大学卒業後すぐに召集を受け中国に出征している。

私の鮮烈な記憶は1970年(当時の池部さんは52歳)入社の私が会社に入ってすぐに東映東京撮影所(大泉)でコマーシャルの撮影をしていた時の話です。当時のコマーシャルは60秒制作があったせいかスタジオ撮影はほとんど徹夜態勢。

撮影するカット数が多かったのだと思います。

深夜に何かの用事でスタジオを出て暗い撮影所内の通路を曲がった瞬間に、着物を着た人と危うくぶつかりそうになり、あわてて『スミマセン』と言ってお互い顔を見合わせたらそれが池部良さんでした。

いや当時高倉健さん主演の『昭和残侠伝』シリーズに出ていた風間重吉だった。

逆光の中に紺の盲縞の着流し、長ドスこそ持っていなかったが目の周りは落ち込み、まさに殴りこみシーン寸前の厳しいメイクの池部良さんだった。

私は一瞬立ちすくみ、余りの迫力に後ずさった。

そして池部さんはニッコリ笑って立ち去っていった。

 

資料によれば1970年の制作は『昭和残侠伝 死んで貰います』 

昭和残侠伝シリーズの最高傑作と言われている。

 

☆殴り込みをかける風間(池部良)に対して

花田秀次郎(高倉健)『重さん、この喧嘩のケリは俺につけさせてやっておくんなさい。堅気のオメエさんを行かせる訳にはいかねえ』

風間『秀次郎さん あれから15年 見てやっておくんなさい』(と ドスに目を移す)

   『ご恩返しの花道なんですよ』

花田『ご一緒ねがいます』

雪の降る野道を番傘をさした風間と花田の道行きシーン。

親に貰った大事な肌を 墨で汚して白刃の下で 積もり重ねた不幸のかずを

何と詫びようかお袋に 背中で泣いてる唐獅子牡丹~♪

 

う~ん、大好きなんですよ、この時代のヤクザ映画。

今でもDVDを借りてたまに観ます、チンプ化しているところは有りますが『やってやろうじゃねーか』とか言う時の高倉健さんの上目使いの表情なんか見るとたまりません。

私の一番好きな俳優さんです。

高倉健さんの脇をしっかりと固めてくれた池部良さん、お疲れ様でした。

あなたのお陰で昭和残侠伝は名シリーズになりました。

4月19日からスタートした禁煙から半年経ちました。

44年以上の喫煙歴からすればまだたった半年。

厳密に言えばゴルフ場のティーグランド、居酒屋で数本、禁を破りました。

でもそれが後を引いていません。

クロレッツは手放せなくなっちゃいましたが。

血圧は正常範囲内に収まりました。しかし体重が増加してしまいました。71→74キロ。

循環器科の主治医によれば禁煙した事で消化、吸収能力が向上、体重は増えやすい。

食事の摂取量を調整してください、との事。

今度はダイエットにも取り組まなければいけないの?

 

今月からのタバコ値上げに伴い、禁煙外来に沢山の患者が訪れ、ファイザー製薬が想定した供給量では足りなくなってしまったそうです。

新規患者に処方できる供給体制が整うのは来年1月以降になるとか。

ファイザーさん読みが甘かったですね、病院側の受け入れ態勢の問題もありますが、ここで商売できないのは何ともつらい事です。

マスコミS社サイトの藤田洋毅氏の署名記事によると逮捕された船長は地元では『習慣性酒精中毒(アルコール中毒)の酒鬼』で知られた人物で今回の14人の乗組員も臨時募集の初対面同士、船長に声を掛けたり注意したり出来る乗組員は一人もいないような状態だった、らしい。

何だかこれで日中間のゴタゴタ騒ぎのネタが割れたような気がする。

当初はまともに領海侵犯、公務執行妨害で船長を逮捕、拘留延長まで行った話が日本外交の弱腰から外交問題、政治的判断で釈放となり、菅サンや前原サン、仙谷さんが槍玉に上がった。色々と言いたい事はあったんでしょうがここは外交交渉、核心を突いたことは一言も言わずに時間を稼いだ。

中国当局も最初はまともに拳を振り上げた。過去の自民党政権はそれだけで上陸した中国人を釈放してしまった前例があるからそれに従うだろうと読んだ。しかし民主党政権は逮捕、拘留延長までして船長を追い込もうとした。

ここから中国当局は船長の地元を取材、石垣島に担当者を派遣して本人からも事情を聞いた。

そして双方の関係者は『酒乱船長』の乱暴狼藉の外郭をつかんだ。

しかしそんな酒の上での事実を公開するわけも無く、わが国の警察が釈放後は中国側はチャーター機を飛ばし、英雄として地元を上げて歓迎した。それがあのピースの写真。

外交の裏舞台では粛々と幕引き作業は進んでいた。

レアアースの禁輸は解け、菅サンは温家宝首相と廊下で会談し、漁業監視船はどこかにいなくなり、フジタの社員は解放された。

日中双方が互いの弱みを突くのを止め、早く時間が経てと時計の針を進めようとしている。

この記事で知ったもう一つの恐ろしい事、市場経済時代の漁民は恐れ知らず。国内外を問わず法律など一顧だにしない。豊漁が期待できる漁場があると耳にすれば即、飛び出す。今回の漁船も、台湾・広東沖を回ったが期待した漁獲が無かった。途中、ここ数年は不漁だった釣魚島周辺が今年は豊漁とのうわさを聞きつけた。釣魚島海域に向かうのは初めてだった。

市場経済の歴史が浅い中国ではこのようにルールやモラルが無いに等しいと言う事。

話せば分かる国ではない事、法治国家ではない事、民主主義がない事。

ノーベル平和賞に抗議をする国家なんです。

それでお隣の国と気が合うのね。