2011年2月アーカイブ

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「......していませんけど」

「いまさら嘘をつかなくてもいいんですよ。私の方には少しも問題がないですし」

 佳苗が目を伏せて笑ったので、芽衣子は戦闘モードを取り戻した。ただし限りなく静かに。

「それは望月さんの子供を、ということですよね? ありませんよ。それに嘘もなにも、もう望月さんとはお会いしていませんから」

 

「別れたの?」佳苗の口調がぞんざいになった。そして同志を得たかのようにほっとした顔をし、堰を切ったかのように話しだした。「あの人、やっぱりちょっとうまく関われないタイプというか......なんていうか、一緒にいると疲れる人間だと思いません? だいたい、何を考えているかわからない。娘がいるのはご存じですよね。子供の親としてふさわしいとも......」

 

 そこでウェイトレスがハーブティーとコーヒーを運んでくる。芽衣子は得も言われぬ違和感を潜ませながら、カップがテーブルに置かれ、ウェイトレスが去るまでの動きをじっと見つめた。この違和感はなんだろう。私がここにいる違和感。そうではない。私が彼女の話を聞いている違和感。彼女の語る内容の違和感。

「......ふさわしいとも思えなかった。だから私は、あの人が誰と付き合おうと気にしてないんですよ」

 佳苗は伏せていた視線を上げ、ずいぶんさっぱりした顔で芽衣子を見た。虚勢のようにはとても思えない。この人は本当に、雅人から離れてしまっているのだ。だったらどうして。

「だったらどうして離婚しないんです?」

 それは駆け引き抜きで出てきた質問だった。芽衣子には、この夫婦のありようが理解できなかった。佳苗は屈託のない笑顔を向ける。

「子供のために決まってるでしょう。うちの子、私と同じ学園に通ってること、ご存じですよね。あそこは両親揃っていないと入園できないんですよ。もっともお子さんがいらっしゃらないと、なかなかわからない世界だとは思います」

「そうですね」と相槌をうってみたが、やはり実感できない。

「今4才でしょう? 小学校入学の審査までは気が抜けないの」

「大変でしょうね」笑顔で答えて、芽衣子はコーヒーに口をつける。次にどんな言葉が出てくるのかと警戒しながら。

「でね、しばらく前にこれが郵便で来たんです」佳苗がキャメルのケリーバッグから白い封筒を取り出し、一枚の薄っぺらい紙をテーブルに広げた。よく知っている雅人の筆跡で名前が入った離婚届。「だからお子さんができたのかな、って」

 

 ファミレスのテーブルの上に無造作に置かれた離婚届を見下ろしながら、佳苗はポットからハーブティーをカップに注いでいる。芽衣子は力づくで微笑もうとしたが、甲斐なくただ口を結んだだけだった。

「これ......いつ届いたんですか?」

「いつだったかしら。半月くらい前かな」

 芽衣子は頭の中で、時間を半月前に遡らせた。雅人が荷物を持って出て行った少し前、つまりは芽衣子が出て行かせた少し前だ。おそらく雅人はその頃、再検査をして手術が必要だと知らされた。そして離婚届を妻に送った。私には、嘘とも本当ともつかない病気の話を切り出し、都合のいい言い訳じみた言葉を並べて私を怒らせ、そのまま出て行った。

 体裁を保つための口実ではなかったのだ。

 

 芽衣子は無意識に両手で口を覆い、目の前にいる人間の目を見つめた。佳苗はファミレスらしからぬ優雅さで、安いハーブティーを飲んでいる。

この人は、何も知らされていない。

芽衣子はわずかな優越感を感じた。それと同時に、優越感など覆い隠すくらいの寂しさを感じた。大切な現実を知らされていない佳苗に対して。それなのに自分は知ってしまったことに対して。シャッターを下ろしたまま進もうとしている雅人に対して。

 

事実を確かめる必要がある。今どこに雅人がいるのか。芽衣子はほんの一瞬の間に頭の中をフル稼働させた。雅人の番号はそらで憶えているけれど、もし病院内にいるなら携帯電話はつながらないだろう。他に連絡が取れる人間は、目の前にいる佳苗だけで、この人はなにも知らない。

まだ手段はあるはず。あるはず。スタート地点を思い出せ。雅人と知り合ったのは、いとこの恭子の結婚パーティーだ。あの子の連絡先は、確か妹が知っている。

芽衣子は佳苗の存在を忘れ、携帯電話を取りだした。妹はすぐに電話に出た。「お姉ちゃんひさしぶりだね」と無邪気に答える妹から恭子の番号を聞き出し、手帳に書き殴っていく。恭子の夫になった人が、雅人の同僚だった。

 何かにとりつかれたようにあわただしく電話をかける芽衣子を、佳苗は首をかしげて眺めていた。しかし今は事態の説明をする余裕はない。なにせ恭子の職場は携帯電話を携帯できるのかどうかもわからない。セキュリティが厳しければ着信に気付くのは30分後の昼時だろう。

 数回のコールのあと、恭子が出た。「芽衣ちゃんから電話が来るなんて、何かあったの」と不審がりながら。

 

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電話がかかってきたのは、あの奇妙なドライブから間もない夜だった。家電にかけてくる人はめったにいない。だから今までも知っていて受話器を取っていた。表示されているのは望月の妻の実家なり携帯電話の番号ということを。記憶しようとしたことは一度もないけれど。

いちど会ってお話をしたいんです。唐突に彼女は言った。もう連絡も取ってないことを告げると、受話器の向こうがしんとしばらく静まった。芽衣子が注意深く次の言葉を待っていると、相手は同じ言葉を繰り返す。

「会ってお話をしたいんです。場所と時間はこちらで都合をつけますから」

 今の状況で話すことがあるとも思えないけれど、話したいならどうぞ。

「構いませんよ」

芽衣子は少なからず挑戦的な気分にもなった。どこかで聞き覚えのあるような声だということも、なぜか気持ちに火をつけた。この声は知っている。どうして知っているんだろう。

場所は調布駅近くのファミリーレストラン。万が一トラブルになったことを考え、なるべく人間が多くいそうで凡庸な場所を指定した。

 

 火曜日。その週の休みは火曜日だった。芽衣子は早番の日と同じ時間に起きてしっかりと身支度を整えた。リラックスするためにテレビをつけたが、なじみのない時間のバラエティー番組が違和感を増長したので、消した。だから時間をもてあまして掃除をした。丁寧に掃除機をかけ、カーペットの上の髪の毛やらを一本残らず粘着テープで取り、バスルームとキッチンを気が済むまで磨いた。すっきりして玄関に立ち、ふと思い出した。

 雅人の赤いコンバースが、確かここにまだある。

時間をもてあますように掃除をしたのは、本当は雅人の形跡を消したかったからだ。塵ひとつ、髪の毛ひとつ残さず、気配さえも消してしまいたかった。消してしまえば、もう誰にも負い目を感じなくて済む。今までの思い出もどこかへ消し去ることができる。

「さすがに記憶は消せないよね」

 つぶやきながら、シューズボックスの奥にあったコンバースを手に取った。私には履けないサイズ。こんなものを置き去りにしたくせに、姿を消しきったとでも思っているのだろうか。芽衣子はコンバースを玄関の隅に置き、高いヒールの靴を選んで履いた。できるだけ背が高く見えるように。そして筋を伸ばして、目的の場所へ歩いた。

 

「待ち合わせをしているのですけど」

 ファミレス以上の慇懃さで芽衣子が言うと、エプロンをつけたウェイトレスがマニュアル通りに微笑んで「どうぞ」と手のひらをかざす。店内を見渡しながら、仕事中の私もあんな顔で微笑んでいるのかな、と芽衣子は思う。しかしそんな悠長なことを思えていたのは、彼女と目が合うまでの数秒間だけだった。

窓際に座っている女と目が合った。この暑さの中でちっとも化粧崩れをしていない、切れ長で涼しい目をした女。1ヶ月ほど前にカウンターに来た、あの客だ。

私のことを知っていて、あの日わざわざ職場に出向いてきたのだ。客を装って。芽衣子は悔しさのあまり、反射的に背筋を伸ばして顔に笑みをたたえた。窮地に陥るほど顔をほころばせてしまうのは、ある意味で職業病だった。女は芽衣子を確かめると、あの日と同じく空虚な目を漂わせて立ち上がった。お互いに離れた場所から会釈をする。

「はじめまして、じゃないですよね」

 

 席に近づいて、芽衣子はとっておきの営業スマイルで言った。本当は素直に動揺してしまいたい。それなのに、ひどい状況であるほどシャッターを下ろしてしまう。中ではあれこれ忙しく動き回っているのに、その見苦しさを隠したくて平静を装ってしまう。

芽衣ちゃんはいちばんお姉ちゃんだから。芽衣ちゃんはほんとにしっかりしてるねえ。そのうえ笑うとこんなに可愛くて、まるで天使のよう。

子供の頃は、まわりの大人の期待に沿えるのが嬉しかった。いつも落ち着いて弟と妹を世話し、嫌な時にでもにこにこ笑っていれば誰にでも好かれた。思春期になると、笑っているだけでは「美人だからって気取っている」と中傷されることを知り、シャッターの厚みを強化した。怒りや悲しさややりきれなさを隠すために。きっと今このありふれたファミレスで私は、この場には不必要なくらいのスマイルを作っているんだろうな、と芽衣子はぼんやり考えた。

 

「お忙しいところ申し訳ありません」女はわずかに頭を下げる。「私、望月の妻の佳苗と申します」

 そういえばそんな名前だったかもしれない、と芽衣子は思った。ふたりは赤いベンチシートに差し向かいに座る。

「もう何か注文されました?」

「いいえ」

「じゃあ、呼びましょうか」

 芽衣子がボタンを押すと、どこかでピンポンと間抜けな音が鳴り、ウェイトレスがやってきた。佳苗はハーブティー、芽衣子はブレンドコーヒーを注文する。芽衣子はこの問題を早く片付けてしまいたかった。何を言いだされるのか想像もつかないが、それなりに質疑応答の対策は練ってきた。なにしろもう雅人とは会っていない。それだけが芽衣子の心の拠り所でもある。あの日どうして私の職場に来たのか、まず聞いてみた気もするが、相手の出方を待った。

 

「お呼び立てして申し訳ありません」言葉尻は丁寧だが、よく聞くとなんとなく投げやりな雰囲気がある。「唐突なんですけれど、妊娠してます?」

 唐突すぎて、芽衣子は目を丸くしてしまった。

 

カーテンレール 4

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 冷房のせいで体が冷え切ってしまった。

「あたし、帰るから。シャワーとタオル、借りる」

「まじすか」そう答えながらも、日向は立ち上がってボクサパンツを履く。「じゃ、こっちのタオル、使ってください」

 タオルは椅子のではなく、カーテンレールにかかっていた洗濯したてのを手渡してくれた。そして、シャンプーはあるけれどコンディショナー類はないと、バスルームについて来て説明をしたあと、「たぶんオレ寝てるんで、帰る時は起してください」と眠たげにドアを閉めた。

 

生ぬるいシャワーが肩にあたり、体を落ちていった。

あたし、何やってんだろう。初めて来る他人の家で、シャワーなんか浴びちゃって。でも、ちょっと面白いかも。たぶん、面白がるために、あたしは今ここにいるんだろう。

 日向のことは好きだけど、日向そのものが欲しいわけじゃない。ような気がする。日向の持っていそうな"面白い"雰囲気が欲しかっただけだ。自分に欠けているパワーにあやかりたかっただけ。友達と話している日向に嫉妬したのは、仲間に入れてもらいたかったから。

「まあ、普通は20才くらいでそういうこと思うのかもしれないけど」志保はタオルにくるまりながらつぶやいた。「あたしバカだから、いつも気付くの遅い」

 

 シャワーを終えて帰宅の準備を整えると、日向の体をゆすって起こした。日向は起き上がって玄関までついてきた。どこまでも気遣いに徹している。

「そんなにあたりかまわず気配りしててさ、疲れないの?」

 日向は眠そうに半分目を閉じたまま腕を組み、悔しそうに顔をゆがめた。

「志保さんにそんなこと言われるとは。ていうか怒ってますよね。今日のことはなんていうか、すみません」

「面白かったからぜんぜん。日向のことは好きだけど、そういう意味で好きじゃないし」

「うん。そっか」半笑いでうなずいた日向を目の前にして「こう言うのも卑怯だけどさ、怒ってなくてよかった」

 その日はじめて聞いた、敬語ではない回答だった。むしろ志保はすっきりした。ふたりとも、どうやら同じ場所に着地したらしい

「トイレとシャワーとタオルとコーラ、ありがとね」

「コーラ?」

「冷蔵庫開けて勝手に飲んだ」

「まじで? それ泥棒じゃね?」

「今までお絵かき教室で、あたしがこっそり教えてあげたコツにくらべたら、コーラなんて安いもんじゃん。あと今日のことも。車出してもらったにしても、おつりがくるくらい」

 日向は顔を両手でごしごしこすり、降参したようにうーんと唸った。

「志保さん意外と大人だね」

 そうだよ、どうだ参ったか。と言いかけて、志保は言葉をひっこめた。大人なのではなくて、当たり前の成り行き。ふたりともお互いに恋とは別の形で気に入っていて、肌に触れてみたかったから触れてみた。天秤は一瞬だけバランスを崩したけれど、最後には釣り合って水平になっただけのことだ。

 

「大人とか、つまんないこと言うなって。面白かったし、なんかこう、新しいイメージ湧いたって感じするでしょ」

「なんの?」

「絵に決まってるじゃん」

 志保はにっこり笑ってドアを閉め、振り向かずに駅までの道を歩いた。

時刻は正午になろうとしていた。熱すぎる太陽が、肩に痛かった。胸のあたりに汗がにじむ。さっきまで冷房の効きすぎた部屋にいたのが嘘のようだ。

「温度差やばい。暑い。死にそう」

 死にそうとつぶやいたら、むしろ生きていることを実感した。空を見ると、太陽は真上にある。あまりに強くて、近くて、伸ばせばすぐに手が届きそうだった。

 

カーテンレール 3

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 次の過程を、志保は何度も体験してきた。まともに付き合った人とも、そうじゃない人とも。相手と自分の反応を天秤にかけて、何か重要なことを可能な限り詳しく感じ取るための、骨の折れる作業。初めてしたのが17歳だから、10年間だ。同じことの繰り返し。あたしには進歩ってものがないのかな、と自分に呆れてしまう。

 

 一方的にでも私が好きならそれで幸せ。というほど恋愛体質でもない。

 楽しくセックスできればそれで満足。というほど快楽至上主義でもない。

 中途半端でつまんない人間。

 

つまんない人間だな、あたしって。なんかこう、突き抜けたものがないんだよな。お絵かき教室だって一生懸命に通ってるけど、ひとが驚くようなものを持っているわけじゃない。二重に整形したことをメイ先輩たちは面白がってくれたけど、整形なんてありきたりすぎてぜんぜんインパクトがない。

しかし日向は、あきりたりでもないし、つまらなくもない人間に思えた。だから気になって仕方がなかったのだ。

 

ベッドはもちろんシングルで、甘い汗の匂いがしていた。日向はそれほどぐちゃぐちゃのどろどろでもなく、意外性のなさに逆に驚いたくらいだ。片付いていないけれど清潔、という印象は、いろいろなことをした後でも変わらなかった。それは期待はずれでもあったし、不思議と安心もした。

「これ、どうなってるんすか?」

 日向は志保のつけまつげの上を人差し指でうっすらと撫でた。

「糸で縫いつけてあんの。ここの、このちょっとごろっとした部分」

「うわ、ほんとだ。ここ、糸入ってんだ。痛いすか?」

 日向は相変わらず敬語で、志保はそれを不快には感じなかった。相手と自分の反応を天秤にかける作業は、まだ志保の中で続いている。

「かなり痛い」

「あ、すんません」

「嘘に決まってんじゃん。大丈夫。もう痛くないし、自分でも忘れてくるくらい」

 日向は大げさにむっとした顔をして文句を言い、志保は軽く謝った。

 

「これは痛くなかったの?」志保は、日向の右肩からひじのあたりまで伸びているタトゥを指でなぞった。植物のような炎のような青黒いうねり。「胸の方まで入ってたんだ。きれいだね」

「痛くなくはないけど彫ってるうちに慣れるんすよ。オレ、途中で寝たし」

「そういうもんなの?」

「さあ。痛がる人はめちゃめちゃ痛がるらしいすよ。人それぞれってことすね」

「なんか普通すぎてつまんない答えだな」

「すんません、つまんなくて。ところで今、腹減ってます?」

「減ってない。ぜんぜん」

「じゃ、オレ4時くらいに店に行くんで、今から少し寝て、起きたらなんか食って、それで......」

 

 ふうん、そういうこと言うんだ。しかもさりげなく。きっと誰にでも言えちゃうんだろう。ストレスとか、たまらないのかな。こんなふうに気を使ってばかりいて。もしかしたら本当にあたしのことが好きだったりして。だとしたら、している間もずっと反応を天秤にかけていた自分が、すごく汚い人間みたいじゃん。ごめんねって謝りたくなっちゃうじゃん。

 あれ?

 本当にあたしのことが好きだったとして、それがどうして謝ることにつながるんだろう。疑ってごめんね、なのか。それとも、好きじゃないのにごめんね、なのか。

 志保はベッドに寝たまま、窓辺のカーテンレールを見つめた。2本のスチールはどこまでも平行に並んでいる。ちょうどいい距離で、ぶつかることもなく。

きれい、と志保は思った。

 

カーテンレール 2

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冷たさに肩をすくめて振り向くと、日向が冷房で冷え切った指を伸ばしていた。眠たげなまぶたを半分開け、志保を見上げている。体を丸め、ずいぶんと寒そうに見える。自分は恋愛の対象外とは知っていても、じかに肌に触られると心臓が高鳴ってしまう。それを打ち消すためにも、志保はわざわざぶっきらぼうな声を返した。

 

「クーラー消せば? とりあえずあたし、帰るから。風邪ひくなよ」

 日向は答えず、目を閉じたまま気まずそうに笑い、志保の手首をやんわりと握った。

「......なに?」

「まだ帰らないでくださいよ」

「なに甘えちゃってんのよ」

「なに甘えちゃってんのよ、じゃないすよ」

 けだるそうに体を起こし、志保の両脇に腕を入れで抱きすくめた。予想外の展開。驚くより早く、志保の頭は興味でいっぱいになった。

 これってなんだか面白い。このあとどうなるのかな。されるがままにしておいたら、どうなるんだろう。

 

唇が触れる。やばい、さっきゲロゲロ吐いたばっかりなのに。でもとりあえず軽くでも化粧を直しておいてよかった。ぐるぐると志保は考える。いやいやそうじゃなくて、もっとつっこむべきことが、今はあったはず。志保は頭を横にそらした。

 

「あのさ、日向ってゲイだったんじゃないの?」

「は? オレがすか?」至近距離に迫った顔が目を丸くする。「いつどうやってそういうことになったんすか?」

「だってメイ先輩がきいた時にはぐらかしたじゃん」

「はぐらかしたって......芽衣子さん、そんなこと言ってましたっけ?」

「違うの?」

「違うすよ」

 わざと答えなかったわけじゃなく、ただ聞こえてなかっただけなのか......。志保はほっとしたのと同時に、試着室で色味のいいトップスをはおってみた時のような気持になった。この服かわいいけど、どの手持ちに合わせればいいんだろう、のような。

ゲイじゃないならこの状況はどう考えたらいいわけ? 目の前にいるこの男は、自分のことをどう思ってこんなことをしてるの? そもそも、私はこの男のことをどう思ってるのよ?

 

ゆうべ日向の店にいた時は、確かに日向のことばかり目で追っていた。親しげに友達と話す日向を見て嫉妬も感じた。恋をしているのかもしれないと思いもした。その後ゲイ疑惑が浮上して、なぜだか胸が落ち着いた。

なぜだろう。自分で自分の気持ちが掴みきれない。それは志保にとって不本意極まりない状態だった。決着をつけなければ気が済まない。

 

 こうなったら、ぐちゃぐちゃでどろどろの日向を見てやる。冷房の風が冷たすぎるこの部屋の中なら、ちょうどいい。

カーテンレール 1

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私は先に帰るから、目を覚ましたらそう言っといてね。

 遠くでそんな声がしている。

 志保はだるくて起き上がることができなかった。狭いスペースにむりやり体をねじ込み続けたせいで、いろんなところが痛い。胃もむかむかしている。肌がひんやりしているのはクーラーのせいで、でも太陽の光が当たる腕のあたりは暑い。

 少しまぶたを開けるとコンタクトレンズ曇りが目を覆っていたので、頭がくらくらして再び目を閉じた。

 

「志保さーん。朝ですよー。起きてくださーい」

 どれくらい時間が経ったのだろう。うなだれながら体を起こした。脚がむくんでいるのが触らなくてもわかるほどだ。

「ここどこ?」

「ここどこ?じゃないっすよ。うちの裏の駐車場」

「......ていうか、メイ先輩は?」

「駅で降ろして、とっくに帰ったすよ? 何度も言ったじゃん。しかも返事してたし。それじゃまたねー、とか言ってたじゃん」

 はあ、そうだったっけ? よく覚えてないけれど言ったかもしれない。それより、体全体が気持ち悪くて、なによりも胃が気持ち悪い。やばい。

「あの......やばいです」

青白い顔でそれだけ言うと、日向は察したらしく「えええ! とりあえず下りて、オレんちで吐いてください!」と車のエンジンを止めた。

 

どれくらい時間が経ったのだろう。何度目かトイレのレバーをひねった頃、霧でもやもやしていた体の中はすっきりしてきた。

見知らぬユニットバス。便器に汚い染みがないことに気づき、しばらく便器と格闘していた志保としては、きれいなトイレでよかったなとほっとした。

立ち上がって洗面台で口をゆすぎ、手を洗いながら、あたりを見回す。クリーム色のシャワーカーテンには少しカビがあるものの、全体としてはわりあいきれいな空間。バスタブの中に、ドラッグストアで普通に売っているシャンプーとボディーソープのボトルが転がっていた。コンディショナーの類は見当たらない。

そっか、坊主頭だからだ。

そこでようやく、ここが日向の部屋だということに気づいた。今は何時なんだろう。ユニットバスには窓がない。

 

水を止める。バスルームの外で、規則正しいビートを刻む音楽がループしている。けっこうな音量なのに、今まで耳を素通りしていたようだ。これってもしかして、ゲロゲロ吐いてる音を聞かせたくないかもしれないというあたしへの配慮なの? だとしたらグッジョブでもあるけれど、そんな気配りをさせたあたしってなんなのよ。しかもその用意周到さがムカっとくるんですけど。

手を洗ってみたものの、タオルらしきものはその空間になかったので、鬼の首を取ったかのように志保は勢いよくユニットバスのドアを開けた。

「タオルないじゃん!」

 

 返事はなかった。クーラーの効きすぎた部屋の中、日向は疲労困憊した様子で床の上に丸まり、いびきをかいていたのだ。志保は幽霊のように両手を垂らしたまま、膝をついて日向を覗きこんだ。少し口を開け、間抜けな顔をして寝ている。こんな無防備な顔をしている日向を見たのは初めてだったのでくくっと吹き出し、椅子の背にかけてあったモノクロ格子柄のバスタオルで静かに手を拭った。

 ローテーブルの上に500ミリリットルの緑茶ペットボトルが2本置いてある。半分ほど飲んである方はきっと日向の分で、開けていない方は志保の分だろう。お茶じゃなくてコーラみたいなものが飲みたいと思いながら部屋の隅を見ると、自分のバッグが転がっていた。そういえばちゃんと持って車を下りた覚えがある。

 

 バッグをまさぐり携帯を探す。時刻は642分。月曜から木曜までならやっと起き出す時間。ポーチを取り出し簡単に化粧を直す。

バッグの中には謎の白い袋も押しこまれていた。コンビニ袋。スミノフ・アイスの空きビンが2本も出てきた。そうだ、コンビニでこれを買って、メイ先輩が止めるのもきかず車の中で飲んだのだ。

「すげえ......よく飲めたな、あたし」

 奇妙な真夜中ドライブをしたせいで気分が高揚していた。それでつい飲めもしない酒を買って、飲むなと言われるのが面白くて、飲んでしまったのだ。その結果のひとつが、さっきまでの吐き気とだるさ。でもまあいっか。面白かったし、もうすっかり元気になったから。しかし結果のもうひとつが、なんとも気まずい。

「あたしなんでここにいるんだろ......」

 志保はあらためて部屋を眺めた。

 日向が寝ていることを逆手に取り、うろうろ動き回ることもできた。備え付けの小さな冷蔵庫を開けて、念願のコーラも飲めた。というか勝手に飲んだ。14型のブラウン管テレビとDVDデッキを繋ぐ配線を見つめ、何が入っているのかわからない段ボール箱に触れ、ステンレススチールで組んだ棚の冷たい匂いをかいだ。そうすることでなにかがわかるかもしれないと思いながら。

 

 探索した結果、片付いてないけれど清潔だった。まさに日向そのもののように。ただし、それは今、志保が抱いている日向の印象だ。本当の日向はもっとぐちゃぐちゃでどろどろかもしれない。それを見てみたい。

 洗濯物はベッドの上に雑然と放り投げてあるけれど、床は掃除機がかけられている。CDが床に積み上げられているけれど、それは収納スペース不足のせいだろう。棚はタワレコかと思うくらいに整然とアルファベットのアーティスト順に整理されている。カーテンレールには、ハンガーにかけたTシャツやらが無造作に何枚か下がっているけれど、こっそり開いたクローゼットの中は整理棚と収納ボックスで仕切られていた。

「おまえは"すてきな奥さん"か......」

と小声で叫んだところで、突然思い出した。日向のゲイ疑惑。メイ先輩の問いかけに否定も肯定もしなかったということは、きっとそうなのだろう。だからこうして簡単に私なんかを部屋に上げるのだろう。

 

 転がっている日向をよけて歩くと何かを踏んだ。そのとたんにループしていた音楽が消えた。ステレオのリモコンだ。座ってそれを拾いあれこれいじっていると、ひやりとしたものが二の腕に触れた。

プロフィール

◆松永まき◆
8月28日、東京都生まれ。
某童話賞と某掌編小説賞を受賞(別名で執筆)。
オーディオドラマ『レッツ・キャラメライズ!』原作担当。
→こちらで聴くことができます。
地味めに生きてます。

カレンダ

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