左目は調子が良ければ奥二重、右目は完璧な一重なのが、志保の長年のコンプレックスの中でも最大級のものだった。ここ数年は高性能な二重用ツールを使っていたけれど、塗ったり乾かしたりが面倒くさくなって、ついに整形外科の予約を入れたのだ。
二点留めの埋没法で、両目の施術は8万円ちょっと。27才、会社員で独り暮らし、現在のところ彼氏もいない志保にとっては、買えない買い物じゃない。
志保が務めている会社は、この不景気のせいで今期から金曜日が休業になってしまった。普通なら、今後の生活を考えて出費を抑えるところなのに、志保は「ちょうどいいじゃん」と考えた。
木曜だけ有休を出せば4日休むことができる。給料が減ってしまうのは痛いけれど、手術のために温存しておいた貯金もある。だったらお金のあるうちにやっちゃおう。
アリとキリギリスなら、志保は完全にキリギリスだ。
「じゃあ早く買い物して、早くいずみちゃんちに行こう。早く見たいもん」
「まだちょっと腫れてますよ。というわけで、今日はあたし酒やめとくっす。ノンアルコールビール、買う」
「お茶とかジュースにしとけば?」
「やだ。それじゃつまんないじゃん」
ふたりは商店街を通り、途中でスーパーに寄り、及川いずみの住むマンションへ向かう。駅から歩いて15分ほど、5階建ての3階の真ん中が及川家だ。四角い建物の、ちょうど中央。ドアホンを鳴らすと、ナイキのTシャツと短パン姿のいずみが現れた。
「おう、いらっしゃい」
ノーメイクの頬には、薄くそばかすが浮いている。こんな無防備な35才はたいてい、生活に疲れたオバサンに見えてしまうのに、いずみの場合はなぜかトレーニング中のアスリートに見える。それはおそらく、いずみが元陸上選手だったせいだろう。
そんじょそこらのTシャツ短パンノーメイクとは年期の入り方が違うのだ。
「つーかその格好、これから運動会でもやる気っすか?気、抜きすぎだよ」
志保がそう言うと、いずみは元気よく笑った。"元気よく"という言葉がよく似合う。
「だって今日のお客さんは、どうせメイちゃんとしーちゃんだし、おしゃれする必要もないでしょうが」
「はいはい。どうせお客はうちらですよ」
いずみは元高校の体育教師。5年前に再会して以来、3人は友達づきあいをしているけれど、かつては教師と生徒だったのだ。いずみが新任で赴任したときに、芽衣子は3年生、志保が1年生だった。
あれから12年経ち、それぞれの生活はずいぶん変わった。いずみは結婚し、教師を辞めて、子供をふたり産んだ。12年の月日は、生まれたての子供が小学校を卒業するほど長いはずなのに、いずみは教え子の制服姿を昨日のことのように思い出すことができる。
大人の時間はなんて短いんだろう、といずみは思った。
いずみの膝のうしろには、彼女と同じようなスポーツ用の服を着た男の子がぴったりとくっついて、恥ずかしそうにニヤッと笑う。そしてまた膝のうしろに隠れた。
2才になったいずみの息子、悠太だ。
「悠太、久しぶりじゃーん。今日はしーちゃん、おめめ痛いからあんまり遊んでやらないからね」
志保がかがんで抱きつこうとすると、悠太はそっぽを向いて腕をぶらぶらさせた。いずみが苦笑いする。
「悠太あんた、こんにちはって言わないの?言いなよー。メイちゃんとしーちゃんだよ?おぼえてるでしょ?なーんかこの子、最近恥ずかしがり屋さんなのよ。ほんと2才児って、なに考えてるかわかんない」
悠太は、芽衣子と志保をちらっと見ると、うきゃーと大声をあげながら部屋の奥へ走っていく。
「うきゃー、ってなによ?子供のテンションってマジわかんねー」と志保はぶつぶつ言いながら、悠太のあとをついていった。
及川家は間取り2Kの賃貸マンションで、お世辞にも広いとは言えない。ソファのすぐ横にはベビーベッドが置いてあり、7か月になった由香はそこで、額にうっすら汗をかきながら熟睡していた。芽衣子はベビーベッドをのぞき、枕もとにあったタオルで由香の額をぬぐう。
いずみは、ありがとねと言いかけて、芽衣子の表情が曇っていることに気付いた。うすぼんやり、まるでなにか別のことを考えているかのようで、思わず声をかけてしまう。
「メイちゃん、どうした?」
「ん?なんでもないよ。よく寝てるな、と思って」芽衣子はつくろうように笑った。
「それより、志保の目だよ」
「お、そうだ。今日の大ネタはそれだった!しーちゃん、こっち来てみ」
いずみは片手を腰にあてて仁王立ちになり、悠太にちょっかいを出している志保を手招きで呼び寄せた。
「とりあえず、サングラスをはずしてもらいましょうか。まだ腫れてるんだよね?」
「ふたりが期待してるほど腫れてないって」
いずみは好奇心まるだしの顔、芽衣子は診察前の医者のような顔をしている。ふたりの視線にちょっとうろたえて、志保は数歩あとずさる。
「ちょっと待って、今はずすから」
志保は下を向き、注意深い手つきでサングラスをはずす。
そして顔を上げ、頬にかかった髪を指で払った。
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