先週の帰りの通勤電車内でのこと。

東京駅始発の総武快速線電車はつり革につかまって立っている人がチラホラ。決して混雑ではない状態で千葉に向かった。

私は立ったまま津田沼まで30分の時間を週刊誌で紛らわそうとしていた。

ふと気づくと右斜め前に座っているお嬢さんがi-podの選曲をしながら、楽しそうに唇でリズムを取っている。聡明そうな20代後半のお嬢さんだ。服装のセンスも雰囲気も素敵な女性だ。

おっと良く見れば左の薬指にはプラチナのリングが光っていた、若いミセスだったんです。

東京駅では彼女の前には誰も立っていなかったので彼女は足を組んで、i-podの選曲に勤しんでいたのです。

錦糸町駅は乗り換え客が多く、ここから津田沼までの20分間はそこそこ混雑する。

その日も錦糸町から乗り込んできた乗客は多く、当然彼女の前にもオバサンが立った。

私は彼女が当然足を組むのを止め、シート側に足を引くものと思っていた。

しかし彼女は前に立ったオバサンを一切気にかけることなく、足を組んだままi-podの選曲に忙しかった。

彼女の足がオバサンに触れているわけではなく、オバサンも嫌がっている風でもなかった。

しかし私は彼女のマナー違反を見逃す事はできなかった。

私が目でダメダメビームを放ったのだけれど、選曲作業に忙しい彼女には全然通じなかった。

『人が前に立ったら足を組むのは止めなよ』と静かに言ってあげた。

エッという表情から足を組むのを止め、そのまま俯いて津田沼まで顔を上げなかった。

自宅に帰って若いご主人にこのことを報告した後、ご主人がそれは君の方に非があるよ、と言ってくれるか、電車内の因業オヤジに絡まれた不幸を慰めるのか、どっちだろうかと思いながら自宅に向かった。

 

数年前には若いお兄ちゃん達が発車前の電車通路に足を投げ出し、キャッキャッ騒ぎながら話に夢中だったところを私が通りかかった。皆当たり前のように、足を下げて私が通るのに邪魔にならないようにしてくれた。

中に一人だけ足を引かない若者がいた、私は持っていた傘で彼の足を突っつき『邪魔だよ』と言ったら一瞬目つきが変わった。その時は横にいた若者が彼を制した。

 

公共マナーをご両親から教わらなかったら、社会が教えなければ永遠に分からない大人になる、と私は思う。

人のフリを見て自らを律するような教育は彼らは受けていないんじゃないかと思う。

だからJIZOはこれからも見て見ぬフリはしない。

先週末、所用があり池袋へ。

池袋駅での乗り換えは何度も経験あるが、街の土地勘は全くなく、西も東もほとんど分からない。

訪問先の事務所をプリントアウトしたA4を片手に東口から五差路方向へ。

約束の時間まで少し余裕があったので近くのドコモショップでチョットした手続きをしようと脇道に入って行った。ドコモの看板は~と辺りを見回しながら(キョロキョロしながらともとれるのかな)信号待ちをしていた。

『アラ、久しぶり!』左手後方から声を掛けられた。とっさに私も『あ、どうも』

40年以上もこの仕事しているからどこかで会った広告主か、広告会社か?スタッフじゃないな?ロケ先か?

『今日は池袋にご用事でしたか?』人懐こそうな笑みを浮かべ、恰幅の良い私と同世代のオッサンだ。

しかし私の脳内DBは1.2秒後に答えを出してきた。このオッサンには会った事ない。

『私はお目に掛った事ありませんよ』と返したら、『ハハハ、そうですか』とオッサンは踵を返した。

 

①頭がオカシイ

②単純に間違えた、その割には人違いでゴメンナサイとは言わない

③少し肥えたカモ到来!うまい儲け話を仕掛け、騙しちゃえ

どうも③としか思えない。

午後の厳しい残暑の光の中で交差点近くをウロウロしながらカモを待ち、これぞと思うカモに近づき満面の笑みで話しかける。

目的はそのカモを騙すため?

そのオッサンの人生ってどんな人生なんだ。

あの人懐こそうな笑顔が今でも思い浮かぶ。

出来れば私の考え過ぎで有って欲しいが。

東池袋にオフィスを構える訪問先の社長は『まだ昼間は良い方、夜になったら何があってもおかしくない街』と断定。良い勉強になりました。

今朝の朝日新聞によれば6日夜、S&Pの格付けダウンに対して朝日新聞がアメリカの高官にインタビューしたところ米国債は安全である、支払い能力に問題は無い事を世界第2位の米国債保有国の日本側に伝える、と報じた。

最大保有国の中国にはどういう対応なのかな?

S&Pが格下げを発表したことで当局者が反応するのが良い事なのか?

反応する事は事実を認めた事に他ならないと私は思う。

無反応で良いんじゃないのかな。

 

会社、地域、自分の周りのコミニュケーションではどうだろう。

傘かしげ

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8月に入ってからの銀座通りは間違いなく中国からのお客様が増えた。3.11以来途絶えていた人波がようやく甦ってきた。

8丁目高速下、ハナマサ前はリトル上海気分。歩道の真ん中で辺りを憚らずワーワーわめいている。富士山の5合目もこんな状態なんだろうな。

日本人である我々が遠慮するほどのチャイニーズワールドだ。

その流れは中央通りを四丁目方向にそして晴海通り、数寄屋橋方向に拡散していく。

彼らを追跡している訳ではないのだが多分ガイドブックに従ってブランドショップを渡り歩いているのだろう。その元パワーが銀座通りの商店主、ショップオーナーを喜ばせているのは間違いない。

超円高、低成長下の日本経済にとって数少ないプラス要因なのだから歓迎すべき事なのだ。

 

私が最近気になるのは周囲を憚らない中国からのお客様ではなく、日本女性達の日傘。

最近のホワイトニング礼讃、日焼けは罪悪的な扱いからか、UVケアの為に皆さん本当にこまめに日傘をご利用になる。

最近の女性の身長が高くなったとはいえ、傘をさすと丁度我々男性の目の高さに傘の骨が当る。

どこかで聞いた江戸仕草『傘傾げ』なんて気配りをしてくれる女性はほとんどいない。

傘傾げがそんなエラそうなマナー、エチケットではないと思うのに。

互いがすれ違う相手を思いやる最低限のマナーなんだからね。

しかし日傘を差しているいる女性と日傘日傘を差さない男性は明らかにハンデがあるのに彼女達からは遠慮も慎み深さも何処にも感じない。

傘を差したままいきなり反転したりもする。Oh、my God.

 

日本の文化、マナーを知らない隣国の方々なら仕方ない、その代わり、彼らは沢山のキャッシュを銀座通りに落として行くのだからね。

これからの日本の次世代を産み、育む女性達よ、互いを思いやる道の歩き方、互いの生き方を考えようよ。

頼むよ。

今度ぶつかって目に当りそうになったら、オッサン本当に怒るよ。

2008年4月。
東京都品川区八潮に、聞こえない子どもたちが手話で学ぶことができる
私立の学校「明晴学園」が開校しました。
開校式会場には、静かな拍手が鳴り響いていました。
「きらきら星」のように手をひらひらさせること、
それが手話の拍手です。

先生を真っ直ぐ見るそのまなざしは真剣そのもの。
明晴学園の子どもたちは情報を目で捉えるため、
いつも話す人に真っ直ぐ視線を向けています。

この手話の学校設立のために、走り続けた人がいます。
本書の著者であり、「明晴学園」理事の玉田さとみさんです。

***********************

彼女の次男が1歳9カ月のとき、重度難聴だと診断されました。
「努力して、聞こえる人に近づこう」という教育を行ってきた
従来のろう教育に疑問を持ち、
「全国ろう児をもつ親の会」を立ち上げました。
思いを同じくする親たちとともに、
誰もが個性を尊重し合い共に生きることができる社会を
つくるために走り続けたのです。

8年もの月日がかかりました。
行政や教育界への働きかけを続け、市民を巻き込み、
集めた寄付は約1億1,000万円。

***********************

手話では、人差し指で軽くほおに触れ、
小指を立てると「おかあさん」です。
そっと見ていると2歳になったばかりの次男が、
右手で左手の小指を立てようとしています。

でも、小さい子どもにとって小指を立てる動作は難しいのです。
突然! 左の小指を右手でギュッとつかんでほおに当て走ってきました。
「おかあさん!」
小さな手ではじめて呼んでくれた「おかあさん」です。
あの日から、8年。
あきらめずに続けたことで、みんなが夢見たみんなの学校ができました。

日本初!
手話で学ぶことができる私立の学校「明晴学園」誕生の物語。
希望にあふれた社会を、人を信じることの大切さを感じることができる感動秘話。
マイナスをプラスに変えて、夢を叶えた奇跡の物語
誰もが、夢を叶えるために動きたくなる。
そんな力が湧いてくる一冊です!

内容(「BOOK」データベースより)

 

 

選挙時の政党宣伝カーには手話で演説内容を伝える人が立つようになった。総理大臣や官房長官の会見にも向かって左側に手話で伝える人が必ず立つようになってきた。日本国政府も聴覚に障がいがある人にも配慮し始めたなと感じていた。

5月の連休明けの頃、大好きなTBSラジオで著者の玉田さんが大沢悠里さんのインタビューに答えていたのが気になった、現実はトンデモナイ事が続いている。

Amazonに注文し、本が昨日届いた。

彼女はTBSラジオの情報キャスターとして結婚まで都内近郊をラジオカーで走り回っていた活発なお嬢さん。結婚し二人目の男の子を授かったがその子が重度の聴覚障がいを持っている事を知らされる。

彼女の考える手話に対する考え方(私にとっても正論に聞こえるが)は明治以来の文科省が管轄するろう者教育課程には馴染まなかった。

私も知らなかった、ろう学校で手話を教えていると思っていた。日本式手話は文科省つまり日本国公認のコミュニティー手段ではなく、ろう学校で手話を使うと手を叩かれたり、後ろ手に縛られたりするそうだ。

日本のろう学校では『聴覚口話法』という、口唇の動きや形で判断し、聞こえないのに発音をさせて健常者(聴者)に近づけようとする明治以来の教育法が取り入れられている。

戦前には手話で反政府活動をされては困るので使用禁止になった時期も有ったと言う。

そんな歴史の中でろう者達が長く培っていた日本式手話を教育の現場にも導入して聴者と変わらない教育を受けさせたいという母の熱い気持ちが玉田さんをこの運動に走らせ、NPO法人設立から『学校法人明晴学園』創設に至った。

ろう児のモンスターペアレンツの汚名にも耐え、正論を貫き通した彼女の強さに頭が下がります。

彼女は言います、努力すれば夢は叶うと。

両手を上にあげ、キラキラ星のアクション、これが日本手話の拍手です。とても静かな拍手です。

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私のいつもの早朝ウオーキングコースは家から2キロ南の谷津干潟1周。

およそ一周3.5Kの干潟を30分で歩く、自宅からの往復を含めると70分。近頃は汗をいっぱいにかく。

いつもは素通りしているのだが干潟の公園、広場の一角で一年中、朝の6時半からラジオ体操をやっているグループがいる。

♪新しい朝が来た  希望の朝だ~  6時半きっかりにNHKからあの歌が流れる。

今頃はもう日が高いが冬の11月~2月は日の出前でまだ真っ暗だ。

ラジオ体操と言えば子どもの頃の夏休み、眠い目をこすりながら嫌々近くの神社の境内や広場に連れていかれ、皆が揃って10分足らずの体操をした。一体何の意味があるんだろう、と思うより夏休み40日間の皆勤賞をもらうためのハンコを押してもらうために通っていたと覚えている。

皆勤賞で鉛筆2本、何日か休んだ子には確か鉛筆1本。まだ戦後の貧しい時代だったんですよ。

私の娘の小学生の頃になると夏休みの40日間ではなく、最初と最後の1週間づつとか、夏休みの一部にしか行われなくなった。主催する小学校、子供会、自治会、町会などの監督者が毎日は大変だ、ということらしい。

現代は夏休みだからラジオ体操という習慣はほとんど皆無なのか、近くの公園であのラジオからの体操講師の声は聞こえて来ない。

 

谷津干潟の周囲は旧公団の高層集合住宅、中層団地、個人住宅が立ち並ぶ。

いつから始まったのかは定かではないが、今朝も100人を越える男女がこの広場に集まり、10分弱の体操で体をほぐし、それぞれの朝の日課へと散っていく。

実は参加者のほとんどは60歳以上の高齢者。今日も子供の姿は一人だけ。

私の友人、元テニス仲間も定年退職し朝一のケジメをつけるためにほぼ毎日6時半にここに通ってくる。今日もまた長い彼の一日がここから始まるのだ。

私も今日初めて参加しての感想はそこそこ良い準備体操になるってこと。第一、第二をやっても8分。お年寄りには体中を動かすから良い運動になる。

確か私が小学生の頃開発された第二体操も当時は斬新で革新的な体操だなと思ったが、今ではこれも日常的になってしまった。

ラジカセを運んできてくれる方(ボランティア)の為に電池代の100円カンパが年に何度か行われる。掛かる費用はそれだけ。

何でも集団で行動する、横並び主義の象徴みたいな戦前からの日本の朝の風習、NHKラジオ体操。

個人主義とは対極の日本的風景だがそれはそれで悪いものではないと思う。

もうすぐ夏休み、子供たちが100人以上集まって来るのを期待しよう。

新子の季節

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昨晩は20日付で役員定年(65歳)で退任した弊社T役員と二人でお疲れ会。

私と一緒に前の会社から転職してきて33年、私は制作、彼は撮影部、カメラマン、制作管理部と主に弊社の技術部門を支えてきてくれた。

思い出話、これからの生き方、家族の事、会社の将来、広告、CM制作業の未来、何時間語っても語りつくせぬ事ばかり。

まだまだ元気なTサン、当面の間、嘱託として撮影や弊社技術面をサポートしてもらいます。

 

昨夜のお店は神谷町に有る『翁寿司』の元オーナーが始めた三田にある小さな寿司屋さん。オーナーの斎藤さんとは20年以上の付き合い。お互い言いたい事を言って、気楽に寿司を楽しめる大好きなお店だ。昨日は丁度今年初めての『新子』が入った、と嬉しそうに斎藤さんが言う。

初夏のこの時期だけ楽しめる、江戸時代からの食文化、粋を楽しむ(?)珍しいアイテム。

3~4センチの小肌の赤ちゃん(幼魚)を腹から開き、内臓と骨を外し、うろこを取って、酢で〆る。多分寿司屋の仕事としては最も細かい仕事。100キロ近い巨躯の斎藤さんがその細かい仕事をしている様を見るだけで笑えるんです。

そして味わえばほのかな酢と小肌の甘みが口の中に広がる。

写真の1貫に新子が6匹使われています。

築地市場でも初物らしくまだセリに掛る量が無い、そこで特別に分けてもらったとの事。

たまたまラッキーにもそんな日に出くわした、何年かぶりで味わった新子にT役員の第二の人生のスタートを祝ってもらった。

東京タワーがいつもと違うブルーなライティング、良い夜になった。

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昨日、霧雨が降りやまない梅雨空の下、日本橋室町近くに所用があり久しぶりに日本橋界隈を歩いてみた。

写真の蔦のからまる2階建ての建物は以前に書いた『三越前の辛いカリーライス』の店の跡。当時のままと言えばそのままなんですが、もう閉店してから5年ぐらい経つのにその一角だけが開発されずに、そのままというのもおかしなもの。隣に高層ビルが建つ時に多分30坪ほどの角地を頑として売らなかったカレー屋のオヤジの意気地がまだ感じられる。

三越本店の周辺は三井不動産の日本橋再開発で高層ビルが既に3棟完工し、10年前の街並みとはすっかり変わってしまった。

高層ビルの1階には日本橋の老舗『にんべん』、『木屋』などが地権者として大きなスペースを取っている。その『木屋』のあったブロックもいまは更地、クレーンがうなりを上げて次の高層ビルの建設中だ。

江戸時代から連綿と続く商人の町、そこで育まれた文化を内包する町、日本橋。

ホントに長い歴史の個人商店、小規模企業が多いのです。

中央通りから昭和通りにかけての路地には昔からのいい飲食店も多い。

 

私も日本橋本町近くで会社員生活の中核期を過ごしただけに、三井不動産によるこの町の変貌ぶりには歴史の流れを感じてしまう。

カレー屋のオヤジさんは体調を崩しお店を閉じてしまったが、永い歴史を継承する日本橋スピリッツは長く続いて欲しい。

ちらと入力画面の端を見たらこの記事で101本目。20か月も掛かってしまった。月5本ペースだ。

前回のイーグルの嬉しさから自慢記事を書いてしまったのが100本目だったんだ。しかしそこから2週間もほったらかし、また頑張って200本を目指します。

昨日の雨も夜中には上がり、今日は平日ながら業界団体のゴルフ会。

震災後の自粛ムードにも配慮しながら、平常時の経済レベルを早く取り戻すのも我らの務めと理事長判断で開かれたゴルフ会。

会場はいつもの戸塚CC、東コース。

2年前のコース改造を経て本当にタフでグリーンが難しい良いコースになった。

私のレベルでは100を切れればオンの字、なかなかそうはさせてくれない。

この団体の前理事長は『コースの設計が悪い!』と言い切るほど。

 

ほぼ快晴無風の朝、同業者のK田さん(H8)、S藤君(H6)、M原さん(H16)の3人で和気あいあいで最終組のスタート。

K田サンの老練なスコアメイクと若手(と言っても53才)成長盛りのS藤君のシュアーなプレイに刺激されつつも私とM原サンはほぼダボペース。

しかし最終の18番(367Y P4)についに見せ場が来た。

最終ホールなのに(?)4人ともティーショットはフェアウェイキープ、2番目に打つ私は残り145Y。

打ち上げでグリーン面は見えないがまあ乗れば良いかと7アイアンを手にした。

今日1日ダフリもトップも体の軸がブレているんだよなと、自省しつつ放ったショットは多少トップ目に入ったがナイスオン、多分奥にこぼれた感じだな~と思いつつ、グリーンに向かった。

今まで一番シュアーなゴルフをしていたS藤君が15Y先の彼のセカンド地点から『入っちゃったかもよ』と半ば冗談ともつかぬ、褒め言葉。彼のセカンドは見事大ダフリ。

APを持ってグリーンに上がってもボールが見えない、奥のラフにも無い!

その時初めて『もしや?』という気になり、ピンフラッグに近づいた。

NEWING44のボールがひっそりとカップの中で微笑んでいた。

 

実は30年以上にもなる私のゴルフ人生で恥ずかしながらイーグルは2回目。

初めてのイーグルも実は30年ほど前の広告会社H社の4制局コンペ、鶴舞CCのロングホールで第3打が直接カップインしたというもの。その時も同伴競技者が今日ご一緒しているK田サンだった。

何と言う偶然というか因縁。K田サンとは同業社の先輩として仲良くさせていただいてはいるが仕事を一緒にした訳でもなく、ゴルフをご一緒するのも数年に1回程度。

ホールインワンにも等しいイーグルに2回もお付き合い頂くとは私にとって幸せを運んでくれる5歳上の大先輩と言うしかない。

有難う、神田さん。

 

本日の私のスコアは49、52の101。H14でG87。35人中の13位。皆さんスコアメイクに苦労されたようです。

63歳の初夏、良い思い出になりました。

そして今日でブログ100本目、1年半かかりました。

 

 

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今週の月曜日、業界団体の総会、懇親会が東京会館で行われた。

御開きの後、東京駅まで中通りを歩いた、18時過ぎ。こんな時間が大好きです。

この日は小雨も降っていたからほの暗く、しっとりとした空気の中、ショウウインドの灯りが立ち始めてきた。

5月の連休明けから7月終わりころまでかな、会社を出てもまだ外は明るい。

若い頃は先輩に連れられて近所の飲み屋によく行った時刻だ。

 

またここ中通りは新入社員時代(1970~)大手広告会社のH社の営業本部が点在していたところ。新有楽町ビルには第一本部、国際ビルには第二本部、富士ビルには第三本部。

当時はFAXもMailも無い時代(!)、新入社員は使い走りでよく書類を届させられた。少し仕事をこなせるようになってからは一日の大半をこの近辺で過ごした。喫茶店でお客様と時間を過ごし、昼食を共にし、H社の社員でもないのに同僚みたいな顔をしてH社の執務デスク周辺に戻って行った。

そんなH社のクリエイティブの皆さんと制作会社の私達の日常の信頼関係が熱い仕事を生んできたとおもっている。

IT編集技術の進化から何か無機質で、どんな表現でも実現は可能なのが表現の本質をぼやかしているんじゃないかなと思う。

特に撮影には制約が多く、実写のみでしか表現できなかった時代に育った私たちは本質を見逃さないチカラを学び、養ってきたと自負している。

この気持ちを若い人たちに伝え続けなければいけない、と思っている。

 

実は数時間前FBフレンズになったカメラマンの清家サン(東映CM同期入社)のnoteに触発され、少し熱くなった土曜の朝でした。